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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

普通がいい

2011-10-02 08:24:13 | Weblog
「普通がいい」9月28日
 脚本家岡田惠和氏がインタビューに答えていました。その中で岡田氏は、『みんな必死で変な人になろうとしている感じがあって、そうしないと個性的な人ではないということになっている。僕はそんなことはないんじゃないかと考えています~(中略)~「大きくは望まない、中の中であればいい」というのを、ちょっとここのところぼくら日本人はみんな否定しつつある』と述べています。
 まったく同感です。岡田氏が憂いている状況は学校教育にも反映しています。義務教育において、特色ある教育が推奨され、A校はB校とどれだけ違うことをできるかという点に頭を絞っています。もし、学校経営方針に「特別なことはせず、教科の授業の充実に全精力を傾ける」という趣旨のことを書く校長がいたとしたら、その校長は教委から指導を受け、経営方針の訂正を求められるでしょう。授業充実という学校教育の本道ではなく、ユニークさを競うという裏技に力を注ぐ傾向が強まっているのです。
 学校のこうした姿勢や雰囲気が、子供においては、勉強を軽んじ、真面目さを嘲笑する風潮を助長していますし、教員においては、地道な授業力向上の努力よりも目新しい教育課題に飛びつくという空気を生んでいます。
 数年前、ゆとり教育による学力低下という主張がなされました。それは間違いです。ゆとりを、教育は授業に充実に、子供は学習課題に取り組む時間の増大にあてるという趣旨が守られず、ゆとりを特色に充ててしまったゆえの学力低下だったのです。
 学校は勉強するところ、という主張はあまりに普通です。義務教育では、その後の学業や人生に必要とされる知識や能力を身に付ける、というのも普通の主張です。小中学校の普通教育は「普通の子供」を育て、その後の進路選択の中で適性を生かしそれぞれの道を歩むというイメージは、過去の遺物になってしまったのでしょうか。
 「普通」の価値を見直したいものです。
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知らせるべきか

2011-10-01 08:20:33 | Weblog
「知らせるべきか」9月27日
 『戦後、ドイツで禁書となってきた独裁者、ヒトラーの著書「わが闘争」の再出版をめぐり、「極右のネオナチが喜ぶだけで出版は危険」「学術目的には必要」と同国で議論になっている』という書き出しで始まる記事が掲載されました。
 「危険派」は、ヒトラーの考え方を知ることによって、ユダヤ人差別が激化すると考えているようです。言い方を変えれば、ヒトラーの考え方を知らせなければユダヤ人差別は沈静化するという考え方です。それに対して、「必要派」は、ヒトラーの考え方をきちんと理解すれば、その間違いが明らかになりユダヤ人差別はなくなっていくという菅がwかたであると言えます。
 似たような話が我が国にもあります。同和問題です。我が国固有の人権問題である同和問題の解決についても、2つの考え方があります。「国民の移動が活発になり、混住が進み、そのうち同和問題は自然消滅するのだからわざわざ知らせる必要はない」という考え方と「差別について学ぶことでその過ちに気付き、そのことで初めて問題が解決する」という考え方です。
 それぞれの考え方を支持する人がいます。教員の中にもいます。どちらの考え方の教員も、人権教育の熱心な実践者ですし、差別をなくそうという目的も同じです。それにもかかわらず、方法論は正反対の方向を向いています。教委の担当者の苦悩がそこにあります。Aの立場で学校を指導しようとするとBの立場の教員たちから批判がなされ、その逆も同じです。
 ドイツにおける論争がどのような決着を見るのかは分かりませんが、そうした論争が全国的なレベルで行われることは、我が国とは異なっています。同和問題に限らず、我が国では、意見の対立する問題について、国民的議論が起き決着するということはほとんどなく、その扱いについて、教委が、学校が、個々の教員が悩むという図式が定着しています。
 今回の原子力の問題もその一つです。結論が出ないまでも、議論が深化し、少なくとも子供にはこうしたスタンスで臨もう、という方向性が生まれるようでないと、これからも学校現場の苦悩は続いていくことでしょう。教委で人権教育を担当していた頃のことを思い出していまいました。

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