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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教員のアイデンティティー

2011-05-11 07:24:21 | Weblog
「アイデンティティー」5月8日
 心療内科医海原純子氏が、震災特別コラムを書かれていました。その中で海原氏は、『お金では埋め合わせられないものがある。それはアイデンティティーだ』と書き、『漁師は、漁をすることで自分らしく幸せに生きられる。農業を営む人は、田畑で米や野菜を育てるなかに幸せを感じ取れる』とそれぞれのアイデンティティーについて述べています。
 教員のアイデンティティーとは何でしょうか。教員の仕事は多岐にわたります。教委に提出する書類づくりも、会議に出席することも、保護者の苦情に対応することも、研修で接客体験することも、みんな「職務」です。しかし、書類づくりに教員としての幸せを感じ、充足感を得ることができる教員は少ないことでしょう。やはり、授業をし、子供が「分かった!」「できた!」という声を発したとき、笑顔を見せたときにこそ、幸せを感じ、教員としての生き甲斐を実感するのだと思います。
 海原氏の考えに従えば、教員の待遇を論じるとき、この教員としてのアイデンティティーという視点を尊重することが大切だということになります。教員が授業に集中し、そのことが保護者や世間から認められる環境をつくることこそが、教員の待遇改善であり、教員の意欲喚起につながり、教育の質の向上につながるという発想が求められているのだと思うのです。
 しかし、現状はそうなっていませんし、進行中の改革も別の方向に進んでいるのです。正直な話、教員の給与や休暇などの労務条件は比較的恵まれています。他業種との比較でみても、不況を背景に近年その差はさらに広がってきているように思います。それにもかかわらず、定年を待たずに退職する教員が増え、精神疾患で休職する教員が増えているということは、多くの教員が教員としてのアイデンティティーに悩んでいることを示しています。
 学校がやること、教員が担うべきことを明確にし、そのことに集中できるようにする代わりに、授業の専門性については厳しく問うていくという方向での改革が望まれます。

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風評被害

2011-05-10 08:07:57 | Weblog
「風評被害」5月7日
 競馬パーソナリティの鈴木淑子氏が、先月末、香港に行ったときのことをコラムを書かれていました。鈴木氏はその中で、『香港の日本食店は福島原発問題でお客さんが激減しているとのこと。風評被害が香港まできているとは』と書いています。
 「風評被害」この言葉を何十回目にし、耳にしたことでしょう。我が国の中だけでなく、諸外国にまでも「風評被害」が広がっていることから考えると、根拠のない噂に行動を左右されるのは、程度の差こそあれ、人間の性なのかもしれません。
 学校選択制や教育バウチャー制度の導入を主張する人たちは、「風評被害」についてどのように考えているのでしょうか。言うまでもなく、こうした制度は、保護者がいくつかの学校について正確な情報を入手することができるということを前提としています。しかし、そのことは簡単ではありません。
 「○○先生がよその学校に異動する」という噂が流れたとします。○○が、よい教員であれば、子供が集まる要因ですし、悪い教員であれば、その逆の影響があるはずです。しかし、教員人事はマル秘事項であり、校長も教委もこの噂を否定することも肯定することもできません。同じように、問題を抱えた、あるいは素晴らしいと評判の教員が異動してくるという噂についても同様です。
 また、A小学校で評判の悪ガキB君が、C中学校を選択したという噂が流れたとします。この噂も保護者の学校選択に影響を与えるはずですが、個人情報を行政側が漏らすことはできないので、校長も教委も何も言えません。
 ある学校が統廃合の対象になっているという噂が流れたとします。こうした問題については、教委がきちんと否定することができます。しかし、そうした噂が流れているのを教委がつかめるか、噂を否定する情報をどのようにすべての保護者に連絡するかという問題が残りますし、そのことを保護者が信用するかという問題もあります。今回の震災で政府の発表を信じない国民がたくさんいたことを考えると、懸念を捨て切れません。さらに、その時点では実際に統廃合に計画がなくても、学校選択制下では、子供の数が急減する事態が発生する可能性があり、その際行政効率から統廃合が必要になっても、「約束が違う」ということになり、大規模校の中に1学級に数人の子供しかいない学校が点在するという無駄が生じかねません。
 学校という身近な存在には、日常的に「噂」はつきものです。そのすべてを把握し真贋を判断するという能力が、すべての保護者に備わっているという前提は現実的なのでしょうか。

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大筋では

2011-05-09 07:38:42 | Weblog
「大筋では…」5月6日
 編集委員の網谷隆司郎氏が、震災後のエネルギー問題について、コラムを書かれていました。網谷氏は、その中でブータンでのエピソードを紹介しています。『標高2800mの谷間の村に、数年前漸く電気が引かれることになった。文字通り近代化の光だ。ところがそこはツルの越冬地で、電線を引くとツルの飛来に支障が出ると心配した村人は「朝にツルの鳴き声を聞くと気持ちいい。ツルと共に生きるためなら昔ながらの暮らしでも構わない」と電線敷設を断ったという』というものです。
 「電気がなくてもよい」という極論さえ、最近では囁かれるようになっています。節電は絶対的な善であり、今年の夏はクーラーを控えなければ非国民扱いされそうです。それは、大筋では正しいでしょう。しかし、世の中にはクーラーがなければ困ってしまう人もいるのです。自分では体温調節ができない疾患を抱えている人もいますし、高齢で体力が衰えている人には夏の暑さは生命を脅かすものなのです。また、低層ではエレベーターの使用を自粛しようということについても、若い健康な人はおおいに歩くべきですが、足が不自由な人にとっては、2階から下りることも難しいのです。節電で照明を落としている施設がありますが、視覚障害で視力が弱い人にとっては、薄ぼんやりした照明は危険きわまりないものです。
 我が国では、世論が一方向に雪崩を打って動き、反論しづらい雰囲気になってしまうことがあります。それが、大筋においては正しい「正論」であるだけに、余計に反論するには勇気が必要となってしまうのです。しかし、大筋において正しいという場合でも、少数者への配慮を忘れた議論は、危険なのです。
 学校教育改革についても、この「大筋において正しい」論が、幅を利かせています。学校選択制は、山間部で登校に1時間かかる地域のことを考えていません。教育バウチャー制度も、都会だけに通用する話です。また、すべての保護者が、いくつもの学校に関する正確な情報を入手する能力と時間があることを前提としています。学力調査で競争原理を導入するという議論では、知的障害がありながら通常学級に在籍している子供に与えられるプレッシャーは無視されています。
 教育を語るとき、一人一人を大切に、ということが枕詞のように使われます。しかし、それを建前にしないためには、常に「大筋」からこぼれ落ちる人への配慮を忘れてはならないと思います。

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誰に向かって

2011-05-08 08:02:07 | Weblog
「誰に向かって」5月4日
 「記者の目」に北米総局の斉藤信宏氏が、『英語の小学校必修化に異議あり』という標題で書かれていました。斉藤氏の主張は、『「英語を話せること」と「グローバル化に対応すること」は本質的に別のことだと思う』ということに尽きるようです。そして、『英語を話せるだけで国際人になれるのなら、米国民はパスポートを持っていなくても、外国人と話をした経験がなくても国際人ということになる。自戒を込めて打ち明けるが、米国に赴任して以来、英語圏以外の国を訪れた際に、その国の言語を学ぼうとしなくなった自分に気づくことが増えた』と、英語さえ学べば国際人という風潮に警鐘を鳴らしています。 まったく同感です。私も斉藤氏と同じ趣旨から小学校の英語活動導入に反対してきました。しかし、斉藤氏が、『英語重視を打ち出す企業経営者や文部科学省の幹部には、改めてこの点をよく考えてもらいたい』と述べているのには違和感を感じました。
 実は、斉藤氏が述べている『日本にも、たくさんの外国人が暮らしている。身近にいるそんな知人や友人が日本社会をどう見ているのか、彼らの食べ物や日常生活は自分とどう違うのか、そして家ではどんな母国語を話しているのか。そんな「内なる国際社会」を子供たちに見せ、「自分たちとは違う生活習慣の人が世界中にはたくさんいるんだ」と身をもって体験させることのほうが、英語教育より大切な国際化教育だと思う。必修化された授業時間を、そんなふうに使ってほしい』ということこそ、前回の学習指導要領で導入された「総合的な学習の時間」で例示された「国際理解教育」の在り方であったのです。それがいつの間にか英語活動にすり替えられてしまったのです。そして、次にはそのこと自体が、「既に多くの小学校が何らかの形で英語活動を行っている」と、英語活動導入の根拠にされてしまったのです。
 私が指導室長をしていた時期は、この「総合的な学習の時間」の国際理解教育を拡大解釈した英語活動が各地で取り入れられていた時期と重なります。私は、斉藤氏のように考え、議会で「小学校で英語教育を始めるべき」と責められても持論を曲げませんでした。
しかし、いくら「本来の国際理解」を説明しても議員の納得を得ることはできませんでした。
 ある日、私は上司である教育長に呼ばれました。当初、教育長は私の考え方を理解してくれていましたが、その日、「室長さん、来年からは英語始めるよ。PTAや市民の会に出席していると、なぜやらないんだ、と責められるんだ。市民の意向を無視するわけにはいかないからね」と言われました。実は、私自身にも、市民のそうした要望が寄せられていました。議員は、自分の信念などではなく、有権者である市民の声を代弁していただけだったのです。
 そうなのです。小学校における英語活動を望んだのは、斉藤氏が言う『企業経営者や文部科学省の幹部』などではなく、一般の国民だったのです。もちろん、多くの国民がそう考えるようになった背景には、様々な形で「英語が必要だ」と言い続けてきた「識者」の存在がありました。しかしたとえそうであっても、それぞれの地方において教育行政に影響力のある政治家を実際に動かしてきたのは、官僚などではなく国民だったのです。
 ですから、斉藤氏は、その主張を『企業経営者や文部科学省の幹部』に向かってぶつけるのではなく、国民に訴えかけるべきであったと思うのです。我が国は民主主義国家です。いろいろという人がいますが、大きな変革は国民の後押しや支持がなければ実現しません。だからこそ、本当の国際理解教育の必要性を、国民に語りかけてほしかったと思うのです。多少遅すぎるかもしれませんが。

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アピール上手

2011-05-07 07:42:24 | Weblog
「アピール上手」5月2日
 社会部の滝野隆浩氏が、原発事故に立ち向かう自衛隊員について、『ヒーローはいらない』という標題でコラムを書かれていました。その中で、滝野氏は、水素爆発でがれきに埋まり怪我をした自衛隊員たちが、自らの意思で翌日には現場に戻ったエピソードを取り上げ、その彼らが会見を開く予定がないこと、『我々は最後の最後まで、ここにとどまるからな』という部隊長の訓辞が広報されないことなどを取り上げ、自衛隊の広報下手を指摘し、『もっと大らかに広報してもいいと思う』と書いています。
 そして、『PR下手で、黙々と、愚直に活動を続ける。宮沢賢治の詩を思い出した~中略~部隊長は付け加えた。「住民は我々の姿をみて安心しているのだから」。<ホメラレモセズ/クニモサレズ>。サウイウモノニ、私はとてもなれない』と結んでいました。
 現代は、広報の時代です。事実がどうであるかということよりも、どのようなことが人々に知られているか、どのような情報を提供できているか、どのようなイメージをもたれているか、ということの方が大きな意味をもっているのです。企業で言えば、よい製品を作っていてもそれだけでは意味がないのです。そのことを消費者に知られてこそ、企業の収益につながるということです。
 学校教育についても同じ現象が起きています。その学校の教育活動がどのように素晴らしいものであっても、そのことを伝えられなければ、地域にも、保護者にも、行政側にも認めてもらえないのです。しかし、学校教育の広報は簡単ではありません。教員の情熱や工夫、言葉にはできない雰囲気の良さなどを目に見える形で表すのは、難しいのです。
 その結果、学力テストの結果、不登校数、いじめの発生件数、進学実績、部活の成績、様々な表彰などを示すことになります。それだけでは足りないということになれば、日頃の教育活動もどのようにすればHPに掲載したとき見栄えがいいか、どのようなことをすればメディアが取り上げてくれるか、という視点で考えるようになっていきます。
さらに、学校公開時の活動や運動会や学芸会といった学校行事も、子供のためになるか否かというよりも、どれだけアピールできるか、見た目がよいかという視点で企画されるようになってしまいます。そして、やがて、学校全体が教育の充実よりも活動の広報を優先させる体質に変わっていってしまうのです。
 滝野氏は、「褒められもしない」存在にはなれないと書いています。それが自然です。凡人は、宮沢賢治のような心境にはなれないのです。教員も同じです。いくら頑張っても認められもせず、感謝されもしないのでは、人は頑張り続けることができません。ですから、「教育よりも広報へ」と走る傾向を批判することはできません。
しかたがないことなのでしょうか。頭では分かっているつもりですが、教育の本道、学校のあるべき姿からは離れているような気がしてなりません。それにしても、自衛隊員は立派ですね。
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抽象的な「教員」

2011-05-06 07:43:36 | Weblog
「抽象的存在」5月1日
 論説委員の小松浩氏が、『被災地の痛苦と政治家の軽薄』という標題でコラムを書かれていました。その中で小松氏は、『「一部のリベラリストについて、彼らは人民を愛しているが、その一方でがまんできないのもその人民であると言われる」(リチャード・バウカー「上院議員」、高田恵子訳)抽象概念としての「人民」を愛しているが(あるいはそういう心がけの自分自身を愛しているが)、血の通った一人一人の人民には決して愛情を持つことはない--。リベラリストが陥りがちな態度への、皮肉たっぷりの警句である』
「人間通」な指摘です。そして、小松氏はこのコラムを『「被災者」「国民」という言葉でひとくくりにするのではなく、可能な限り、固有名詞と顔を思い浮かべることから、まず始めるべきではないか』という言葉で結んでいます。
 まったく同じことが教育改革についても言えると思います。前回も書きましたが、学校教育改革は、教員が元気を出すことができる施策でなければ成功しません。そのときの、「教員」とは、小松氏が言うとおり、「抽象的な教員」ではだめなのです。
 「抽象的な教員」とは、ある人にとっては日教組や全教の活動家であり、ある人にとっては「公務員という身分に守られた恵まれた人々」であり、ある人にとっては「私立校とは異なり競争のないぬるま湯に漬かった人々」なのです。さらに言えば、まったくの誤解ですが、「夏休みや冬休みなど休みが多い人」であったり、「子供の成績を付ける権限を武器に保護者や子供を支配できる人」であったりすることもあります。
 もちろんこうした側面もあるでしょう。しかし、それだけでは教員が抱える悩みに思いを馳せることも、教員が感じているストレスを想像することもできません。とはいっても、現実に教員でない政治家や教員経験のない行政官に、「固有名詞と顔」を思い浮かべることは不可能でしょう。だからこそ、教員の生の声を聞く必要があるのです。
 以前にも書きましたが、それは、職員団体や公聴会の代表者からの聞き取りではなく、全国の教員から無作為抽出した100人の教員から、中教審の委員や国会の文教委員会の委員などが手分けをして、フリートーキングで聞き取ることが有効なのです。是非、検討してほしいものです。
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信念の弊害

2011-05-05 08:10:40 | Weblog
番外「人と接する職業には」4月30日
 何回かとりあげてきたbeyondk氏のブログから、教員の基本姿勢について考えてみたいと思います。beyondk氏は、30代で、訪問介護の会社を立ち上げ、新しい介護の形を目指して、多方面に活躍なさっている方です。beyondk氏は、『「ゆらがない」怖さ』と題したブログの中で、次のように書かれています。少し長文ですが引用させてもらいます。
 『同じ障害を持つ人が複数いたとしても、それぞれの生活における障害の意味はみな同じではない。また、疾患を克服したある人の経験と、病を癒やした別の人の道筋がまったく異なることもある。つまり一人ひとりの生き方、生きる意味はみな同じではない。また、同じ一人の人でも、加齢に伴って人生の意味や課題は変化する。生き方ばかりでなく、死に方や死の意味もそれぞれに異なる。
 このように、生活・人生はつねに個別的であり可変的である。
 したがって、そのような生活にかかわる援助にも「つねに変わらない正しい答え」は存在しない。いかに援助すべきかの答えはつねに多様であり、そのためにどのようにかかわれば良いのかの答えが最初から明瞭であることはない。
 このような意味で、社会福祉は「ゆらぎ」に直面することから出発する実践である。「ゆらぎ」を避けて通ることができない実践である。仮に「まったくゆらぐ事のない実践」「つねにゆらがない援助」があるとすれば、それはある偏った援助観や信念に固着した不健全な実践である』
実は、私も同じようなことを言われた経験があるのです。私が、指導主事を目指して勉強していた頃、論文を書く際には、強い気持ちが伝わるように書きなさいという指導がなされるのが一般的でした。「断固とした決意で」「信念をもって断行する」というような言い回しがよいとされていたのです。
 あるとき、私の論文を見た某校長が、「僕の個人的な考えだけど」と断った上で、「信念をもつな。信念なんて不要だ。信念なんかで人を枠にはめるのは教育じゃない。人は間違うものだし、そのことを理解せずに、自分は間違わないと思っているからこそ、信念なんてものをもってしまう。信念をもった人はもう変わらない。それは成長しないということ。よい教員は子供と共に成長し変化していくことができる人のこと。あら信念をもった人は、そんな人は教員でいてほしくない。まして、校長や指導主事になって弊害を広げてほしくない」という趣旨の話をなさったのです。
 正直、当時の私は、教育の本質よりも選考に受かることの方が大切で、論文はそのための手段にすぎず、その内容は採点者が高得点を付けるようなものにすればよいという考えだったので、言いたいことは分かるものの、論文作成に某校長の助言を取り入れることはありませんでした。しかし、妙に心に残ったのも事実でした。
 その後、指導主事となり、多くの授業を見、保護者からの苦情や校長からの相談に対応して多くの教員の指導の問題点を考えるようになってくると、某校長の言葉が蘇りました。そして、信念は押しつけであり、子供の心には染みていかないということを実感するようになっていきました。
 もちろん、何の考えも原則ももたないのがよいと言うつもりはありません。そうではなく、自分の考え方に対して、常に「これでいいのだろうか」と自問自答する姿勢、過去のいきさつにとらわれずに、考え方や立場を修正していける柔軟性が大切だということです。教員は、子供という器によって形を変える水のような存在であることが求められるのです。水は強いものです。

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寺脇・有田論争

2011-05-04 07:44:51 | Weblog
「論争に隠されているもの」4月30日
 元文部科学省大臣官房審議官の寺脇研氏と算数教育の大家有田八洲穂氏が、土曜授業の是非について話し合う「ニュース争論」が掲載されました。大変興味深い内容でした。主題である土曜授業についての結論だけでなく、話し合いの中で出された両氏の問題意識が面白いのです。
 まず、寺脇氏の『週5日制にした趣旨も授業が減るからではなく、子供のしつけからご飯の食べ方まで、社会全体が学校に過度に依存している状況を変えていくためでした』という指摘です。私は、寺脇氏とはテレビ番組でご一緒したことがあります。そのときの印象は、寺脇氏の経歴から分かるように、学校現場に明るいわけではないな、というものでした。今回の争論でも、寺脇氏の真骨頂は、教育(学校教育にとどまらない)全体を見る視野の広さにありました。
 寺脇氏の指摘を待つまでもなく、教育は、学校・社会・家庭がそれぞれの特色を生かし、固有の機能を発揮して3者の調和の上に行われるべきものです。他国に比べ、教育の大部分を学校が担うという我が国の形は、健全なものではありません。いじめや不登校などの学校不適応の根本的な原因もこの点にあります。学校教育を論じるときに、寺脇氏のような教育全体を俯瞰して学校や教員について論じる姿勢を忘れてはなりません。
 さらに、寺脇氏の『足りない分をどうするのか、土日に延ばすしかないのか、そうではなく生涯にわたって延ばすという考え方もあるのでは、というのが私の言ってきたことです』という指摘についても考えてみる必要があります。生涯学習を重視する寺脇氏らしい発想です。この考え方には、現在の我が国の状況は、寺脇氏が思い描く生涯学習社会とはほど遠いという欠点があります。さらに、仮に将来すべての人に生涯にわたって学ぶ機会が与えられたとしても、学ぶか否かはあくまでも本人が決定することであるということも忘れてはなりません。いくら行政がそうしたお膳立てをしても「もう、勉強するのは嫌だ」という人がいるはずですし、その意思は尊重されなければなりません。
 しかし、高度に複雑化した現代においては、人は学ばなければ、人として生きていくことはできません。教育によって人になるのです。そのことを踏まえ、学びたくないという人にも強制的に学ばせようという発想で設けられたのが、義務教育なのです。義務教育とは、強制教育なのです。国家が、国民として最低限必要だと考えた知識や能力を注入するためのシステムであるという一面をもっているのです。ですから、いくら生涯学習が可能な環境を整えようとも、義務教育自体に必要な内容は、小中学校の9年間に「詰め込む」ことが不可欠なのです。そうした意味でも、土曜授業の是非について、生涯学習でというだけでは、不十分だと言わざるを得ません。学校教育について語るとき、義務教育とそれ以外の教育とは切り離して考えることが大切です。
 一方、寺脇氏とは異なり現職の教員である有田氏は、『土曜日に授業をすれば学力がつくとは思っているわけではないのです。普段の月曜日から金曜日の授業の充実なくして土曜日の授業なんてありえません。授業の質をどう高めていくのかがまず根本にある』と述べています。キーワードは「授業の質」です。これは有田氏のような実践家にしか言えないことです。授業時間数は誰の目にも見えますが、授業の質は「素人」には分かりません。授業の質は、教員の資質と一人一人の教員が授業に費やすことができる時間の積とイコールです。つまり、学力問題は、授業時間数の問題だけではなく、教員の質、つまり大学における養成、採用と研修の問題であり、教員の多忙化への対策の問題なのです。このうち、多忙化の問題は、比較的分かりやすいと言えます。教員を増やすか、教員の仕事とされている「雑務」を他に移すかという対策をとればよいのです。それに比べて、養成や研修の充実は有田氏のような実践家にしか正答が見いだせません。それは、有田氏自身は話してはいませんが、優れた実践家が、教員の指導者になる体制を構築することです。有田氏は、定年を終えた再任用の教員です。あと数年経ってしまうと、有田氏のような実践家が教育界を去っていってしまいます。もう残された時間は余りないのです。実効性ある養成と研修システム構築が急がれます。

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元気が大事

2011-05-03 08:02:36 | Weblog
「元気が大事」4月30日
 「新教育の森」は、被災地で子供たちのケアにあたる教員を対象にした研修を取り上げていました。その中に次のような記述がありました。『研修では講義だけでなく、心身をリラックスさせる「実技」にも時間を割いた。「子供を元気づけるには先生が元気でいることが大切」(県教委)だからだ』というものです。
 これは、何も震災という非常時に限ったことではありません。学校教育の根幹は、子供と教員という人間同士のふれあいにあります。教員が疲れやストレスを抱え、精神的に落ち込んでいる状態で、教育の成果が上がることは期待できません。もちろん、プロの教員であれば、教壇に立てば自分の私生活上の悩みや問題を忘れて教員としての顔に変わることはできます。しかし、それはあくまでも意思の力であり、潜在意識は抱え込んでいる問題を忘れることはありません。そして、ときどきふっと脳裏に蘇り、ジワジワと教員の指導力を低下させていくのです。
 私は今まで本ブログで教育改革を論じるとき、教員が生き生きとしないような改革は効果がないと述べてきました。それは、教員を甘やかすということではなく、それが結局は子供のためになるからです。教員の業績評価の導入、「過度に」開かれた学校の奨励、学校選択制、総合的な学習の時間や小学校の英語活動など新しい教育課題への対応、など教員の多忙化を進める施策が採用される一方で、教員への敬意を高め、専門職としての誇りを満たすような対策はとられてきませんでした。その結果が、定年を待たずに退職する教員の増加であり、精神疾患を患う教員の増加であり、降格を願う管理職の増加なのです。病める教員の増加なのです。
 教員はロボットでも機械でもありません。傷付きやすい生身の人間なのです。以前、女性を生む機械と口を滑らし失職した大臣がいましたが、教員をティーチングマシン視し、教員について人数や人件費などの数値でしか捉えずに、教育行政を論じる愚は避けなければなりません。

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真理は単純

2011-05-02 07:40:13 | Weblog
「真理は単純」4月28日
 論説室の布施広氏が、『ピンを探せ』というタイトルでコラムを書かれていました。布施氏は、その冒頭で『赤ちゃんが泣きやまない時は「ピンを探せ」と言ったのはフランスの思想家アランである。遺伝やら親の性質やら、あれこれ思いわずらう前に、赤ちゃんの肌を刺すものがないか探してみよ、というのだ』と書いています。
 まずは素朴に単純に考えよ、ということです。しかし、人間は成長するにしたがって、様々な知識を身に付け、それに連れて簡単なことを難しく考えるようになってしまうという性癖をもっています。また、他人の見解を評価する際にも、小難しい理屈をありがたがり、素直な見方を、単純、幼稚と排除してしまうようにもなってくるのです。その結果、物事の真理、本質を見誤り、解決の道を遠ざけてしまうのです。
 学力が低下したという問題に対して、努力を軽んじる風潮や考えることよりも覚えることを重視する教育の在り方を原因にあげれば、「さすが」となり、「教員の教え方が下手なんだよ」と言ってしまえば、馬鹿にされてしまうというわけです。子供の非行の増加の原因についても、「きちんと叱らないからだよ」と言えば、そんな単純なものではないと批判されてしまいます。
 もちろん、実際の問題解決にあたっては、様々な視点からの分析と対策が必要であることは間違いありません。しかし、単純な捉え方、素朴な見方の中にことの本質が隠されていることも少なくないはずです。学校教育に関して様々な改革が行われています。うまく言えないけれど何かおかしいと感じることがあると思います。そんなとき、「おかしいな」という思いやこだわりを捨ててしまうのではなく、持ち続けることが大切なのです。
 義務教育が各校バラバラの「特色ある学校」でよいのか、地域の子供がよその地域の学校に通っていってしまっても学校が地域の核になれるのか、自分の子供のことが第一である親が教員を公平に評価できるのか、たとえば私はそんな素朴な疑問を捨てられません。

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