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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教員と「話すこと」

2011-05-01 08:24:36 | Weblog
「話すこと」4月27日
 東日本大震災後、連日記者会見を開いてきた枝野官房長官の「枝野語」についての分析が特集されました。『枝野語の研究』と題された特集記事では、何人もの「話す専門家」が評価と分析をしていました。 
 フリーアナウンサー梶原しげる氏は、『話す速度は1分間に310~340字でほとんど変わらない』『マイクに乗りやすい声で、安心感を与えますね』と高評価でした。一方、危機管理コンサルタント会社社長の田中辰巳氏は、『言質を与えないというか、後で自分が責任を問われないような話し方です。元々弁護士さんだからでしょう。法廷では有効かもしれませんが、こういう非常時における、クライシスコミュニケーションとしては失格なんです』と落第点を付けています。 
 また、立命館大教授の東照二氏は、『どんな質問にもいやがらずに答えている雰囲気は出ている』という肯定的評価と『非常に役所的な表現』という否定的な評価を共にあげています。
 このように、「枝野語」についての評価は多様です。そうした違いが生じるのは、評価者の個性や価値観の違いだけが原因ではないように思います。むしろ、「話す」という行為の多様性が原因だと思うのです。
 教員は話すことが仕事の根幹をなしています。授業中に説明したり、指示したりすることも「話す」行為ですし、子供を叱ったり褒めたりすることも「話す」行為です。悩んでいる子供の相談にのるときにも「話す」行為は不可欠ですし、研究会や職員会議で討論するときにも「話す」のです、モンスターペアレントの理不尽な要求に対峙するときにも「話す」のです。
 そしてこれらの「話す」は、みな異なっているのです。説明や指示に求められるのは内容の明確さですし、叱ったり褒めたりするときには教員の感情も伝わらなければなりません。相談にのるときには「受容」の精神が求められますし、討論では論理の明快さが必要となります。苦情や要求への対応では、言質を取られない話し方が求められます。
 教員は「話す」プロでもあります。こうした様々な「話す」を使い分けることができなければなりません。しかし、学校教育に教育相談的な手法が導入されるようになってから、多くの教員が、話すこと=受容的に対応すると誤解している傾向があります。その結果、明確な指示をせず、苦情に対してもことの是非を判断せずに「謝罪」してしまうような対応が目立つようになってきました。研究会での討論も儀礼的で表面的なレベルにとどまり、深まりを欠くようになってきました。
 教員はもう一度自分の「話す」を見つめ直す必要があります。

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