ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

理想は昭和の株主総会?

2021-05-23 08:22:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪いのは何?」5月15日
 『方針急転換 野党猛批判』という見出しの記事が掲載されました。『政府が新型コロナ分科会で専門家から反対され、当初方針を急きょ変更したことに対して、野党からは「見通しが甘い」などの批判が集中した』ことを報じる記事です。
 記事によると、『みっともないし、不適切だ。政府のメッセージ性が毀損する。専門家や自治体との意思疎通が不十分だ』『政府の認識が甘かったということだ。政府の対応が後手後手になっている』『政府が消極的な姿勢に見える』などの批判が浴びせられたようです。
 私も菅内閣のコロナ対応には不満をもっています。ですから今回の政府の対応についても、大いに問題ありと考えています。ただ、政府の方針が分科会での反対を受け転換されたということ自体を非難するのは疑問だと考えています。それでは、分科会の反対を押し切って強引に政府の方針を貫き通せばよかったというのでしょうか。そうではないでしょう。
 政府には各種情報を分析し、政治的に判断をして総合的に結論を出すという機能が求められています。一方、分科会には医学の専門家、感染症の専門家の立場から感染拡大の抑止という観点から提言が求められています。両者が一致しないという事態は当然のことですがあり得るはずです。逆に言えば、常に一致するのであれば、分科会など必要ありません。そもそも民主主義国家の統治は、民意を代表する選挙で選ばれた者と特定の分野において深い専門的知見を有する専門家とが協力補完し合って行い、最終判断は政治が行うというのが望ましい姿です。そうした考えからすると、今回の決定は、政府は政府として判断し、その判断に引きづられることなく専門家は自らの知見に基づき提言し、政府はその提言を受けて自らの統治者としての責任をもって決定するという、至極まっとうなものだったのではないでしょうか。
 それをおかしいと感じるのは、政府と分科会は事前にすり合わせをしておくべきで、意見のぶつけ合いは水面下で済ましておき、外部には一枚岩であることを強調するという、根回しを良しとする伝統や文化があるのではないでしょうか。
 そうだとすれば、それは会議の形骸化につながり、本当の意思決定を見えにくくする、隠蔽体質に通じる愚行だと思います。私も教委勤務時代に、校長会や教頭会、市民の代表、學校から選ばれた教員による○○委員会や△△検討会といった会議を主管してきました。そのとき、一番気を遣ったのが「落としどころ」でした。つまり、教委側が望む結論があらかじめあり、その結論があたかも校長や教員、市民などの意見を取り入れた上で決められているという偽装工作であり、アリバイ作りであったということです。
 弁解にしかなりませんが、限られた時間内では、どうしてもそうした下準備や根回しが必要なこともあるのです。しかし、言うまでもなく望ましいことではありません。今回の、政府と分科会の見解の相違は、そういう意味では、むしろ望ましいことであるという一面もあるのです。
 むしろ、私が今教委の人間だったとしたら、こちらが事前に準備した結論を覆したり、全く違う視点を与えてくれたりする委員会や検討会を行いたいと思いますが。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クラッシャーが学校も変える? | トップ | 鳥は鳥らしく、虫は虫らしく »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事