「映像」7月22日
『混迷増す政治 どうなる』という見出しの記事が掲載されました。参院選の『結果やその背景、今後の動向について』の座談会です。その中で気になる記述がありました。
早稲田大教授小林哲郎氏の『(政治に関心がなかった)人たちは元々新聞を読んでない(略)最初の政治との接点が動画』という発言、政策研究大学院大教授岩間陽子氏の『安倍さんの外交で記憶されているのは、トランプ氏をなだめている場面。それで外交が解決したかはまったく分からないけれど、そうしたイメージを一瞬で映像で与えることができてしまう(略)それを石破さんはまったく活用しなかった』という発言です。
つまり、写真や動画という映像に人々が動かされる時代が来ているというのです。一方、小林氏の「新聞を読んでいない」という発言にあるように、読むという機能が人々に与える影響力が低下しているということも指摘されているように思います。言語情報よりも視覚情報という時代になっているのです。
言語より映像、それは人間にとって本能的なものだと思います。私も社会科の授業では、スライドやビデオ、写真などの資料に頼ることが多くありました。小さな写真より大きな写真、停止画像である写真より動きのあるビデオと少しでもインパクトが強い資料を探したり、作ったりしました。
しかし今、今回の選挙結果と座談会の発言を目にすると、これからの学校教育において大事なのは、言語情報の重視なのではないかという思いが湧いてきます。人は論理的に考えるとき、脳内に言語が浮かんでいるはずです。言語情報を重視することは論理的に考える人間を作るということにつながるはずです。
そのためにも、文章を読む、しっかりと聞く、聴いてメモを取る、読み取ったことを整理してまとめる、そういった活動を国語だけでなく、社会科や理科、算数・数学、総合的な学習の時間などに積極的に取り入れていく工夫が必要なのだということです。
そうした「書く」活動の根底を成す、単純に「字」を書くこと、視写や聴写、暗写などにも時間を割いていくようにすべきです。こうした取り組みによって書くことに対する抵抗感を減ずることは、言語情報重視の学びを支えるはずです。
感じるだけはダメだ、考えろ!これをこれからの学校のキャッチフレーズにするべきです。民主主義が崩壊してからでは遅いのです。公教育の目的は民主的な社会の形成者を育てることにあることを再確認したいと思います。