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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

感じるな、考えろ!

2025-07-30 08:37:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「映像」7月22日
 『混迷増す政治 どうなる』という見出しの記事が掲載されました。参院選の『結果やその背景、今後の動向について』の座談会です。その中で気になる記述がありました。
 早稲田大教授小林哲郎氏の『(政治に関心がなかった)人たちは元々新聞を読んでない(略)最初の政治との接点が動画』という発言、政策研究大学院大教授岩間陽子氏の『安倍さんの外交で記憶されているのは、トランプ氏をなだめている場面。それで外交が解決したかはまったく分からないけれど、そうしたイメージを一瞬で映像で与えることができてしまう(略)それを石破さんはまったく活用しなかった』という発言です。
 つまり、写真や動画という映像に人々が動かされる時代が来ているというのです。一方、小林氏の「新聞を読んでいない」という発言にあるように、読むという機能が人々に与える影響力が低下しているということも指摘されているように思います。言語情報よりも視覚情報という時代になっているのです。
 言語より映像、それは人間にとって本能的なものだと思います。私も社会科の授業では、スライドやビデオ、写真などの資料に頼ることが多くありました。小さな写真より大きな写真、停止画像である写真より動きのあるビデオと少しでもインパクトが強い資料を探したり、作ったりしました。
 しかし今、今回の選挙結果と座談会の発言を目にすると、これからの学校教育において大事なのは、言語情報の重視なのではないかという思いが湧いてきます。人は論理的に考えるとき、脳内に言語が浮かんでいるはずです。言語情報を重視することは論理的に考える人間を作るということにつながるはずです。
 そのためにも、文章を読む、しっかりと聞く、聴いてメモを取る、読み取ったことを整理してまとめる、そういった活動を国語だけでなく、社会科や理科、算数・数学、総合的な学習の時間などに積極的に取り入れていく工夫が必要なのだということです。
 そうした「書く」活動の根底を成す、単純に「字」を書くこと、視写や聴写、暗写などにも時間を割いていくようにすべきです。こうした取り組みによって書くことに対する抵抗感を減ずることは、言語情報重視の学びを支えるはずです。
 感じるだけはダメだ、考えろ!これをこれからの学校のキャッチフレーズにするべきです。民主主義が崩壊してからでは遅いのです。公教育の目的は民主的な社会の形成者を育てることにあることを再確認したいと思います。

 

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雰囲気という難問

2025-07-29 08:29:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いじめの構造」7月21日
 参院選の投開票を受け、紙面は選挙一色でした。そんな中『余禄』欄では、『参院選で物価高対策以上に「外国人規制」が争点化した』現象を取り上げていました。そして、『難民に冷たい閉鎖性は残存し「外国人優遇」とは程遠い。不満のはけ口を外国人に求め、排外主義に陥っては出口を見失う』と、理性的な外国人規制論議を求めていました。
 その通りだと思います。そして、これは学校におけるいじめ問題とも共通する構造だとも感じました。学級や部活で起こるいじめ、加害者たちに話を聞くと、被害者の問題点を挙げてきます。「決まりを守らない」「自分勝手な行動をする」「チームワークを乱す」「以前は私がいじめられていた」等々、被害者にも非難されるべき点があり、いじめたことは悪いけれどその分罪は減殺されるべきという論理です。
 こうした主張の裏側には、「先生がきちんと指導しないから悪い。私たちが代わりに注意した」という教員批判が潜んでいることが少なくありません。教員が、被害者の問題行動を放置している、甘やかしている、依怙贔屓している、というわけです。
 似ていますね。政府が(教員が)、外国人を(いじめ被害者を)、優遇している(甘やかしている)という論理立てが、です。そしてこうした場合、被害者側に何らかの責められるべき落ち度があるというよりも、学級や部活自体の運営がうまくいっていない、雰囲気が悪いというケースがほとんどなのです。教員の学級経営や部活運営に問題があるのです。重なりますね。自民党敗北の真の原因が、我が国を覆う閉塞感であるのと。
 こうした構造のいじめ問題に対処するとき、いじめ問題そのものへの対応はもちろん大切ですが、背景にある学級や部活の問題についても、精査し反省し改善を図る努力が欠かせません。そうでないと、一つのいじめを抑え込んでも、また次のいじめが芽を出してくるのです。
 学級や部活の「雰囲気」醸成は、感情の問題であるだけに、難しいのです。

 

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組織に有益だとしても私は…

2025-07-28 08:24:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その人の気持ちを」7月20日
 心療内科医海原純子氏が、『光の方向』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、自宅で飼っている2匹の兄弟猫の性格が異なることを紹介し、『違いは人間の場合も起こりうる』と書かれています。
 そしてある例を挙げています。『周りから、性格はいいんだけど、仕事がのろいと言われている女性がいた(略)ところがある時、その企業にとり重要な案件のデータの中に彼女がミスを発見した。他の人があまり点検しない部分に目を向けて見つけた(略)彼女でないとこういうのは見つけられない』と。
 そして、『人が目を向けない方向に目を向ける人がいたほうがこころ強い』と、彼女の存在を評価しているのです。複雑な思いを抱きました。近年、多様性に富む組織は強靭だという趣旨の意見に接することが多いような気がします。外国人、女性、若者、高齢者、障害のある人などを、少数者、弱者として切り捨てたり、保護の対象としてのみ見たりすることが、組織や社会にとって「不利」であるということです。だから、そうした人々も包含できる社会が望ましいという形の主張に繋がっていきます。
 間違っているというわけではありません。しかし、その人が属する社会や組織にとってプラスであるということは、その人自身にとってプラスであるということを意味しません。先程の例でいえば、「のろい」と言われている彼女は、幸せになったのでしょうか。彼女は、自分の「のろい」ことに劣等感を感じ、「のろくない」自分になりたいと願っている可能性が高いと思われます。
 「(のろい)あなただから(仕事が早い)私たちには見つけられないミスを発見できた。助かった。ありがとう(のろいことも役に立つことがあるんだね)。」とお礼を言われるよりも、みんなと同じスピードで仕事ができる自分を望んでいるのではないか、ということです。そうだとすれば、周囲からの称賛も嬉しさが半減してしまいます。そして相変わらず、自分はのろいという劣等感を抱き続け、憂鬱な気分で毎日出社しているのです。
 弱者や少数派を包摂する社会は望ましいと思います。しかし、そのことと一人一人の感じる幸福感は必ずしも一致しません。利益を上げることを目的とする企業とは異なり、一人一人の子供の幸せを、自己実現を目指す場である学校では、その個人が今どう感じているか、を最重視しなければなりません。組織の立場であなたも役に立っている、は万能ではないことを忘れてはなりません。

 

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考えようとしないズボラ脳

2025-07-27 08:44:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ズボラ頭」7月17日
 『「投票用紙、書き換え」のデマ』という見出しの記事が掲載されました。『選挙の投開票を巡り、根強く流布しているデマ』についての記事です。記事によると、『「投票用紙が書き換えられる」「開票所にスパイがいて結果を操作している」(略)そんなデマは今、ネット上に限らず、街角でも、まことしやかに語られている』というのです。
 書き換えることができるように、投票所には鉛筆しか置いていない、などというデマを信じ、ボールペンを持参する人もいるというのです。こうした人に『「誰が書き換えるのでしょう」と問うと、「分からないけど、県庁の偉い人とか?」と返ってきた』そうです。
 バカですね。記事にもありますが、『最初に投票所を訪れた有権者は必ず、投票箱が空であることを確認する(略)投票後の箱には最低二つの錠前がかけられる(略)鍵は別々の封筒に入れられ、開票所に運ばれる(略)開票作業は誰でも見学でき、立会人もいる(略)各陣営の関係者やマスコミも訪れ、衆人環視で作業は進む(略)開票に携わる自治体職員は、筆記具の持ち込みも禁じられている』という体制の中で、どのようにすれば書き換えが可能なのでしょうか。
 この「バカ」には、細部をイメージして具体的に考える、という姿勢と能力が欠如しています。私は小学校における歴史の授業を思い出してしまいました。江戸時代の参勤交代、いわゆる大名行列を題材にして展開する授業です。国元から江戸まで、大名と家臣が主に徒歩で移動する、何日間もかかり、費用も膨大となり、大名の経済的負担となり、その分幕府に逆らおうとする力が削がれる、というように教科書には記述されます。
 「へぇー、そうなんだ。なるほどね」と納得してしまえばそれで学習はお終いです。それでは考える子供は育ちません。私たち社会科の研究をしている教員は、そこで「お殿様はトイレはどうしていたのだろう」と子供に問いかけるのです。
 健康であっても一日に間に何回かトイレに行きたくなります。まして、籠に揺られ続けていれば、その回数はもっと多くなるはずです。立ちション○○というわけにも、草叢でどうぞ、というわけにもいきません。江戸時代の街道に公衆トイレがあるはずもありません。子供たちは考え始めます。具体的に様々なケースを考えて。雨だったら、雪が積もった冬だったら、そもそも多くの家来だってトイレには行きたくなるよね。と。
 そしてさらに、食事はどうしていたのだろう、着物は着替えなかったのかな、宿で洗濯していた?大勢が泊まれるような宿はあったのかな?そんな宿があったとして、大名が泊まらない日はどうしていたのだろ、毎日何百人も宿泊客があるはずはないよね、宿は大赤字じゃない?などと疑問は広がっていくのです。そして、教科書の記述に数行で書かれているような簡単なことではないと気付いていくのです。
 こうした細部を具体的にイメージする力こそが、フェイクニュースやデマに対抗するために必要な能力なのです。先程引用した記事にある、投開票の手続きについて、具体的に知り、その場面を想像するという習慣が身についていれば、「バカ」から脱することができるはずです。
 教員は、子供に細部をイメージして具体的に考える習慣と能力を身に付けさせなければなりません。それが、民主的な社会の形成者としての公民的資質を育てるという教員の使命を果たすことになるのです。

 

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責めるのではなく協力して

2025-07-26 08:56:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「言っていいの?」7月15日
 『全国の中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る』という設定の連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』、今回の教員役は心理カウンセラー内田良子氏でした。その中に「えっ!」と思わされた記述がありました。
 内田氏は、『私の子どもの時もいじめはあったけど、家庭が見守ってくれた。今は家庭に余裕がありません』と語っていらっしゃるのです。驚きました。30年前、いじめは大きな社会問題になっていました。ちょうどその時期、指導主事として教委に勤務し始めた私は、多くのいじめ事案に向き合ってきました。
 教員向けの冊子を作ったり、学校や担任を通さずに教委に直接訴えることができる仕組みを整えたり、個別のいじめ事案で学校を指導したり、様々な関わり方をしてきました。その間、一度として「家庭が~」「家庭に~」「家庭でも~」という類の言葉を口にしたことはありませんでした。
 子供の成長のために、学校や教委と家庭が協力するのは当然のことです。とはいえ、実際に保護者と話し合う中で、「ご家庭でも~してみてください」的なことを口にするのは躊躇われました。学校で起きているいじめなのに家庭に責任転嫁するのか、学校が尽力すべきなのに家庭に解決を委ねるのか、学校の責任に対する自覚が足りない、などという批判にさらされるのが恐ろしかったからです。
 特に、こうした「曲解」が、保護者の口からメディアや議員に伝わってしまうと、猛烈な批判が巻き起こり、本来のいじめ対応よりもメディアや議会対応に膨大な時間と労力を費やすことになってしまうのです。
 そうした事態を避けるため、家庭という言葉はタブーに近かったのです。もちろん、保護者から「家ではどうしたらよいでしょうか」という趣旨の質問を受けた場合には、「お子さんも辛いんですから、追い込むようなことは言わずに、コミュニケーションを保って見守ってあげてください」というように伝えることはありますが、教委側から「家庭で~」ということは避けていたのです。
 それだけに、家庭に余裕がない、言い換えれば家庭の養育力が低下しているということを堂々と指摘なさった内田氏の言葉が新鮮に感じられたのです。いじめ問題において、学校の責任転嫁は断じて許されません。しかし、教育という営み本来の姿である、学校と家庭の協力がいじめ問題においても円滑に行われるような雰囲気が醸成されることはとても大切なことだと考えます。
 どうすれば可能か。まず学校側が考えることが必要です。

 

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英語一辺倒でいいの?

2025-07-25 08:55:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それならば」7月14日
 『変わりゆく海外研修 世界情勢見据え、異文化の刺激』という見出しの記事が掲載されました。『(中高の)海外研修に近年、異変が起きている(略)非英語圏の新興国や途上国を訪ねる学校も増えているのだ。なぜ、あえて新興国や途上国なのか』という問題意識に基づいた記事です。
 記事に取り上げられていたのは、私立文化学園大学杉並中学・高校が『インド、アラブ首長国連邦、トルコ、スリランカ、エジプト』。なぜこれらの国かというと、『さまざまな国を体験してもらって生徒たちの将来の選択肢の幅を広げる』ことが狙いだそうです。
 特にUAEについては、『発展途上国のエネルギーを感じてもらう』ということで、『近年は産業の多角化が進んでいる。観光業や金融業をはじめとする非石油部門の成長も著しく、世界中から観光客やビジネスパーソンが集まる。公用語はアラビア語だが、人口の9割を移民が占める多国籍社会でもある』ことが、理由として挙げられていました。
 私立開智日本橋学園も、ボスニア・ヘルツェゴビナと、私立佼成学園はモンゴル、フィリピン、タイなど、非英語圏での研修は、私立校を中心に広がりをみせているようです。
 私はこのブログで、外国語=英語という風潮に疑念を呈してきました。これからの世界を考えるならば、中国語は無視できませんし、中南米の潜在力を考慮すればスペイン語やポルトガル語を学ぶ意味も大きなものがあるはずです。アフリカ諸国には旧宗主国の言語が使われている国も少なくありません。フランス語を始め、英語以外の言語はここでも重要なのです。
 また、前日の投稿でも触れましたが、国際社会は米国の思惑や価値観を支持する国だけで構成されているわけではありません。むしろ、アメリカの独善的あるいはダブルスタンダード的な振る舞いへの反感を示す国も少なくないのです。
 安田教育研究所代表安田理氏も、『子どもたちが巣立つ時代には、現在の先進国が衰退する一方、いま発展途上にある国々が伸びることが予想されます。今後の世界情勢を見据えている学校は、途上国での研修を取り入れ始めています』と述べています。当然です。
 しかし、そうであるならば、普段の外国語学習においても、英語以外の言語を学ぶことができる態勢づくりこそ、我が国にとって重要になるのではないでしょうか。指導者の育成が必要であることを考えると、今すぐ始めても、充実した言語学習環境を整えることができるのは、20年先です。文科省にそうした問題意識はあるのでしょうか。

 

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欠点も含めての友情

2025-07-24 08:36:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「世界の非常識」7月13日
 東京女子大特別客員教授高原明生氏が、『戦後80年の国際秩序 教訓伝える日本の責務』という表題でコラムを書かれていました。その中で高原氏は、『(アジア太平洋ラウンドテーブル)の「戦争、平和とアジア太平洋」と題されたセッションにパネリストとして参加した』ときのことを書かれています。
 高原氏は、『国際紛争の解決は平和的な手段に寄らなければならず、武力による威嚇や武力の行使は慎まねばならない。また、経済ブロックを作ってはならず、自由貿易を進めなければならない。これらは、2度の世界大戦という悲惨な経験を通して人類が学んだ教訓を踏まえた原理原則であり(略)だが、今や大戦から80年が過ぎ、人類は凄惨な戦争、甚大な犠牲の上に得られた貴重な教訓を忘れてしまったのではないか』と述べられたそうです。
 至極まっとうな内容です。しかし、高原氏はこう続けられています。『以上の発言趣旨は日本ではかなり常識的な内容だと思われる。だが意外なことに、他のパネリストや会場参加者にとっては新鮮に聞こえたようだ』と。
 つまり、多くの外国やその国を代表するような知識人であっても、そうした認識をもっていないということです。言い換えれば、武力を背景にした紛争解決や自国の利益追求を当然のこととして是認し、短期的な自国の利益に適うならばブロック経済によって他国を排斥することもあり、と考えているということです。
 我が国の常識は世界の非常識ということです。私を含め、日本人はこのことについての自覚が乏しいように思います。だからこそ、ウクライナ侵攻についてロシアを非難しない国があることに首を傾げ、パレスチナ人の人権を無視し続けるイスラエルを支持する欧米について「我々と同じ民主・自由・人権を尊重する国だったはず」と理解不能になってしまうのではないでしょうか。
 40年も前から、今後国際化が進展すると言われ、だから国際理解が大切だとされ、学校現場では、国際理解教育の必要性が叫ばれてきました。国際理解教育は総合的な学習の時間の重要な柱として位置づけられましたし、多くの国際理解教育研究校が指定され、たくさんの実践事例集が作成されました。
 しかし、そこで示される「国際」とは、高原氏が述べた「日本が描く理想的な国際社会」が理念とする善意と良識に満ちた国民と文化をもつ仮想国家、地球上のどこにも実際には存在しない空想上の産物だったのではないでしょうか。
 大国意識をもち他国・他国民を見下す某国。自国民の中に上級国民と下層国民を設け、差別と弾圧こそ最良の統治原理だとする某国。武力さえあれば他国は自分たちの言いなりだと考える某国。我々は長年被害者だったのだから今度は多少の暴力は許されると自己正当化する某国。弱小国は強大国の言いなりになるのが当然と考える某国。
 子供たちが「親善」や「友好」考える国や国民は、じつはそんなモンスターの一面もある、ということをしっかりと学ばせてこなかった国際理解教育の片面性に問題があったのではないでしょうか。真の「親善」や「友好」は、そんな嫌な面、不快な面をも含めて理解した上で成り立つのだという国際理解教育に対する理解の深化が必要だと考えます。
 人間関係でも、ずる賢いところ、自己中心的なところ、弱さ、自己顕示欲、など好ましくないところを含めて本当の友情が生まれるはずです。もちろん、日本自身の欠点も含めて理解する公平さを忘れてはなりませんが。

 

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間違いは指摘する

2025-07-23 08:25:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「委縮せず」7月12日
 『SNSチェックに注力 「質の公平」重視 事前報道充実図る』という見出しの記事が掲載されました。選挙に関する報道が、告示後には量の公平を重視するあまり、有権者に必要な情報を届けることができていなかったという反省に立ち、既存メディアで改善が図られていることを報じる記事です。
 その中に、言論法を専門とされる専修大教授山田健太氏のコメントがありました。山田氏は、『免許事業であるがゆえに「政治家のクレームを受けやすい状況」が委縮を生んでいたと分析』され、『選挙報道の質を高めるために重要なのは「事実に基づいて特定の候補者に不利な情報も出せるかだ」』と語られています。
 的確な指摘だと思います。と同時に、これはメディにとってだけでなく、学校にとっても貴重な指摘だと考えます。学校で主権者教育を行う際、最近よく行われているのが、実際の政党の公約を生徒各自が評価し模擬投票するというような試みです。そのとき、実際に党首などが語っていることを参考情報として取り上げ、そこに偽・誤情報が含まれていた場合、どのように扱うか、ということを考えるのです。
 偽りだ、間違いだということを教員が指摘したり、示唆したり、あるいは特に注意を与えて生徒に調べさせたりしたとき、当該政党やその政党に所属する地方議員からの抗議について、教委が、学校が、教員が、どのような姿勢で対応するか、ということです。
 教員の指摘等が、その政党や立候補者のイメージダウンにつながることは間違いありません。生徒自身に投票権はなくても、その授業の様子が生徒の口から保護者に伝わるなどして、結果として実際の投票行動に影響するのも間違いないでしょう。
 では、教員が偽りや誤りを認識していながら、スルーした場合はどうでしょうか。今度は別の、対立する政党や議員から苦情がくることはやはり避けられないと思います。つまり、現実の政党や立候補者の政策や公約、主張を取り上げる以上、偽りや誤りを指摘してもしなくても苦情や抗議を受けるのです。それが面倒だからといって模擬投票を中止してしまえば、それは生徒の貴重な学びの機会を奪うことになります。
 もちろん、教員が間違うこともあります。その場合、責任を問われるのは当然です。そうであるならば、上述のような模擬投票を行う場合、学校内で検討する組織を立ち上げることはもちろん、教委に報告し了承を得るようなシステムが必要になります。教委も学校も教員も多忙な中、難しいかもしれませんが、そこまでの準備をしなければ我が国に主権者教育は定着しないと思います。

 

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懲罰権乱用

2025-07-22 09:06:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「乱用」7月10日
 『米、ブラジルに「50%の関税」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『米国はブラジルに対して貿易黒字を確保しており、通商問題とは別の理由で大幅な引き上げに踏み切る』とのことです。
 その理由とは、『今年2月にクーデターの疑いでブラジル検察に起訴されたボルソナロ前大統領に対する裁判について(略)自身と親密な関係だったボルソナロ氏を擁護する』ことだということです。
 つまり、貿易赤字の解消、国内産業の保護という関税政策の目的とは全く関係のないことについて、「懲罰権」を行使しているということです。ブラジルは反発しているといことですが、当然です。国力の差から、最終的にトランプ氏の要求をのんだとしても、強制された反感、不信感は長く尾を引くことでしょう。
 このトランプ氏と同じ過ちを犯している教員はいないでしょうか。教員は、実態として多くの「懲罰権」を手にしています。体罰は論外ですが、多くの宿題を課す、何らかの当番活動を課す、居残りで課題を課す、等々です。
 子供に自分が犯してしまった過ちの重さを理解させるために、合理的な範囲で罰を課すことを全否定する気はありません。合理的な罰とは、一つは過重に過ぎないことであり、もう一つは犯した過ちに関連があることが条件だと考えます。
 宿題を忘れた子供に、その分も合わせて2日分の宿題を課す、これは合理的です。子供もそう感じるはずです。しかし、主題を忘れた子供に資料室の掃除を一人で行わせるというのはどうでしょうか。そして同じ教員が、教員に対して口答えしたという理由でも掃除を命じ、級友を蹴飛ばしてけがをさせたという理由でも掃除を命ずるとなった場合、子供はそこに教育的な意味を感じ取ることができるでしょうか。
 おそらく、「先生は私のことが嫌いなんだ」というような負の感情を抱くだけでしょう。罪と罰の間に納得のいく関連性がなく、ただ単に辛い思いをさせてやれ、という意思が感じられるだけだからです。また、掃除をするという行為についても、悪いことをした罰として相応しい行為とインプットされてしまい、将来清掃活動をしている人を軽蔑するというような歪んだ価値観を植え付けることにもなりかねません。
 そもそも「懲罰権」を使った子供をコントロールしようとする発想自体に問題がありますが、止むを得ず「懲罰権」を行使する場合は、原因となる行為との関連性について、十分に吟味する必要があります。
 

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学校<家庭

2025-07-21 08:31:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「家庭教育の意味」7月10日
 読者投稿欄に、熊本県K氏の『父について行った平日の投票所』と題された投稿が掲載されていました。その中でK氏は、『私は小学1年か2年の時父にねだって初めて投票所に同行した(略)投票所は家から徒歩10分ほどの私が通う小学校の講堂(略)投票開始と同時に靴を脱いで入場し投票を済ませた。選挙管理委員会の職員らしい男性たちが三方に並び、ピリピリとした雰囲気が漂っていた(略)投票所の出入り口から眺めたこのときの印象は強烈で、選挙は神聖で厳かなものという思いが抜けない』と、子供のころの思い出を綴られています。
 実は私にも同じような経験があるのです。小学校の講堂が投票所というのも同じなら、入り口で見ていたというのも同じです。違うのは父はサンダルを履いていたことぐらいです。私も、厳かな感じがしたものです。
 私は選挙権を得てから100数十回、一度も選挙を棄権したことがありません。つれあいも棄権ゼロだそうです。そして、つれあいも両親が欠かさず投票していたということです。
 私は以前このブログに書きましたが、投票しない人とする人の違いについて、政治意識の高低、現状への満足度などが原因なのではなく、幼少期から刷り込まれた感覚、K氏が感じ、私も体験した「選挙は神聖で厳かなもの」というものの有無なのではないか、と考えるのです。
 選挙に行かない人は、「どうして選挙に行かなくちゃいけないの?」と疑問を口にします。私の頭の中にはそうした疑問は浮かびません。浮かぶとすれば「どうして選挙に行かないで、平気なの?気持ち悪くないの、罪悪感を感じないの?」という疑問です。つまり、ベクトルが真逆なのです。行かないことを当然としているか、行くことを当然としているか、私のとって投票は、朝顔を洗うとか、朝食にみそ汁を飲むということと同じくらいに自然で当然のことなのです。
 子供は様々な場で「教育」を受けて成長していきます。意図的計画的に営まれる学校という機関が担うべき教育、無意図的無計画にその場その場で直面する課題を解決することで行われる家庭という場での教育、主権者として投票権を行使するという一見すると学校における主権者教育ですが、実際には家庭教育の方がより効果的なのかもしれない、そんなことを思いました。まだ、学校教育の領域と思われがちだが実は家庭での影響の方が大きい、そんなことは他にもあるかもしれません。

 

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