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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

がり勉は勲章

2025-08-09 08:50:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大事にされる」8月5日
 連載企画「学校とわたし」は、こども政策シンクタンク社長白井智子氏が語られていました。その中に次のような言葉がありました。『勉強ができる子が大事にされ、できない子は否定されるということを感じてショックでした』。白井氏が小学校時代に感じていた、我が国の学校に対する疑問です。
 もっともです。全ての教員はそんな態度をとるべきではないと思います。その一方で、素朴な疑問も浮かんできました。できない子を否定するのは良くない、と思いますが、勉強ができる子を大事にする、というのはいけないことなのでしょうか、という疑問です。
 揚げ足取りのようで心苦しいのですが、大事にするというのは、何らかの肯定的な評価を与えるということだと思います。学校は、第一義的に勉強をするところです。スポーツをするところでもなければ、友達作りをするところでもありません。人間関係は大切ですが、それは学校教育の第一義的な目的ではなく、あくまでも学校生活の様々な場面を通じて豊かな人間関係が築けたら素晴らしいことですね、ということに過ぎません。
 読み書き算の基礎的な知識や論理的に考える力については評価するのに対し、仲の良い友達が〇人、言葉を交わす程度の友達が〇人などと評価することがないのは、学校教育が目指すものを端的に表しているのです。
 掛け算九九を覚えられない子供には補習をしたり宿題を出したりします。漢字が書けない子供には書き取りの練習をさせます。しかし、友達が○人以下の子供を集めて補習をすることはありません。これも、学校が勉強をするところだからです。
 学校が勉強をするところであるならば、勉強ができる子供に何か特別な「ご褒美」があることはむしろ当然なのではないでしょうか。塾ではあります。そしてそれは、ときとして子供を勉強に向かわせる力となります。どうして我が国の公立学校では、勉強できる子に何らかの「ご褒美」をあげることが、いけないこととされているのでしょうか。
 私は勉強だけで子供を評価すべきと言いたいのではありません。ただ、学校は勉強をするところという原点に立ち返るとき、スポーツができず、友達作りも苦手だけれど勉強は頑張っているという子供がもっと認められ評価されることがあるべきだと思うのです。がり勉は恥ずべき事ではなく、それもまた一つの勲章になるべきだと。

 

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良き理想という共通の土台がある者同士の「論争」

2025-08-08 08:37:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こういう対立大歓迎」8月4日
 『聴覚障害者理解 社会が「壁」』という見出しの記事が掲載されました。『聴覚障碍者を巡る社会的課題』をテーマにした座談会の様子を報じる記事です。その中にとても興味深い応酬がありました。
 事業構想大学院大学学長田中里沙氏が、『聴覚障害のある方がコンサートを楽しむ取り組みに参加(略)音楽を響きや色で感じる取り組みで、参加者はとても盛り上がっていました』と話されたの対し、自らが視覚障害者である東京大学特任教授福島智氏が『水を差すようですが、私はろう者として、聞こえない立場での「音楽」は存在しない思います。振動を感じても、それは音楽とは違う。振動や光を使った新しい芸術というのであれば理解できますが、ろう者も同じコンサートを楽しんでいると思っているのは、主催者だけかもしれません』と疑問を呈していらっしゃったのです。
 田中氏も福島氏も、障害者が人としてあらゆる場面で尊重される社会の実現を願い、活動し、発信されている方です。いわば「同志」です。そうしたお二方が「対立」なさっていることにある種の感銘を受けたのです。
 今の社会を表すキーワードは、分断と対立です。そこでは、弱者や少数派を邪魔者、あるいは敵として排除しようとする情けない、許しがたい言説が飛び交っています。そんな不毛な対立からは何も生まれません。
 一方で、リベラルや人権派と言われる人々の中でも、同じ価値観の人だけで自己完結型の傷をなめ合いのような閉じた議論しか行われないような印象もあります。だからこそ、同じ志をもつ識者同士が「対立」する議論が新鮮に感じられたのです。
 私自身、正直なところ、展示物を手で触ることができる博物館や美術館、というような試みを目にすると、それは本当に鑑賞したことになるのか、という疑問を感じていました。しかし、そうした疑問を口にすること自体が、障害者の問題に無理解であることを示す行為であるような気がして、口にできなかったのです。自分が差別者として非難されることが怖かったのです。
 同じ志をもつ者同士の中でも、遠慮なく本音をぶつけ合って議論する、そうした積み重ねがあってこそ、理解が深まり、新しい発想が生まれてくると考えます。他の識者、障害のある当事者を巻き込んで議論が深まったら、とても素晴らしいことだと思います。
 手で触る美術館、光で感じるコンサート、学校でも、生徒同士で話し合わせる題材として、とても適していると思うのですがどうでしょうか。

 

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世界に一つだけの…

2025-08-07 08:44:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自分はできる?」7月29日
 『自由研究を考える』という見出しの記事が掲載されました。『生成AIが台頭し、人間が考える力がますます問われる時代。文字通り「自由」に「研究」する意義が再確認されても良さそうだ』ということで、自由研究の歴史や現状、課題について報じる記事です。
 記事の中では、フリージャーナリスト小林美希氏が『各家庭の格差がはっきり見えてしまうのが、夏休みであり、自由研究なのです』と述べていらっしゃいました。全く同感です。しかし、それは経済的な格差で、体験教室のようなものに参加させられないということよりも、保護者が子供の自由研究に適切に関わることができるかできないか、という側面の方が大きいと思います。
 広島大准教授の深谷達史は、現場の教員と共に『テーマ設定や問いの立て方、調べる方法などを具体的に示しながら児童を指導。最後に研究計画書の提出を求める』という指導をし、効果をあげた事例を紹介なさっていましたが、自由研究は大人の支援なしには成り立たないのです。
 保護者が自由研究を支援しようとする場合、一番のネックは何か、私は保護者自身が「研究」というものを理解していないことが最大の障害だと考えています。もう時効だと思いますが、私は教員時代に、ある子供向け学習書の出版社の依頼を受けて、保護者と子供向けに夏休みの自由研究についての講演会に講師として参加したことがあります。
 保護者の参加者は全員母親でした。彼女たちが切実に知りたがっていたのは、「何をやればよいか」でした。そもそも40年も前に、企業主催の講演会に参加するような母親ですから、教育に関心があり、時間的にも余裕がある人たちが大部分だったのでしょう。おそらく、ご本人たちの学歴も高そうでした。でも、「研究」についてのイメージはもてていなかったのです。
 私は、「誰も答えを知らないことをするのが研究」だと言いました。例として、徳川家康の一生というテーマを示しました。家康の生まれてから死ぬまでを、詳細に稔表にまとめ、戦い、政策、家族のことなど色分けし、それぞれについてコラムという形でまとめ、一冊の本のような体裁にまとめる、という例を示し、それはどんなに正確に見やすく工夫されていても、「研究」ではない、と話したのです。それは「本」に載っていること、つまり既に誰かが知っていることの寄せ集めに過ぎないからです。
 そして、もし、家康を取り上げるのであれば、家康が食べていたものを調べ、3日分の食事の材料を集めて再現し、友人や親せきの人20人に食べてもらい、感想を集め、その感想を味全般、材料について、調理法について、量についてなど分類して考察する、それならば「研究」になる、と話したのです。この研究構想を歴史学者に示したとして、小学生から高齢者、関西人と東北の人の味覚の違い等まで含めて感想を予想できる人はそうはいないはずですから。
 そんなことを調べてどうなるのか、と聞かれたら、「関係ない、調べてみたいと思ったから調べただけ」と答えればよいのです。研究に置いた大事なのは、調べてみたい!という思いなのですから。
 20人のサンプルに意味があるのか、、と聞かれたら、「学術論文ではない」と言い返せばいいのです。不正確でも、それが世界に一つしかないところに研究の価値があるのですから。
 保護者自身が、知りたい!調べてみたい!という思いをもてる知的好奇心に富んだ人間であるか否か、それが子供の良き自由研究の伴走者としての最大の資質です。

 

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30年間何をしてきたか

2025-08-06 08:48:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「30年も昔から」7月29日
 『好奇心の種を一緒に育てる』という見出しの記事が掲載されました。『子どもたちに何を学ばせるべきか』について、リクルート・スタディサプリ教育AI研究所長小宮山利恵子氏へのインタビュー記事です。
 その中で小宮山氏は、『好奇心をいかに伸ばし、深めていくかが重要』『「もっと知りたい」と感じた瞬間に自発的な学びが始まる』『大人が正解を与えるのではなく、一緒に探究する伴走者となる』『大人も一緒に動いてくれたという成功体験を持ち、自身と探究心が育まれていきます』『答えのない問いに向き合って粘り強く探る力が必要』などと語られています。
 賛成です。と同時に不思議な気持ちになりました。手前味噌だと思われてしまうかもしれませんが、これらのことは、30年前に学校教育の現場で広く言われてきたことだからです。
 30年前、私は新米の指導主事でした。指導主事として教員を指導したり、研究会等で講評をしたりするために、たくさんの講義用レジュメを作っていました。教員時代の実践や研究員や研究生として学んだこと、教育心理学等の文献をまとめたものなどを整理し、当時、文科省や都教委が掲げていた理念や指針に沿う形で作成したものです。
 そのいくつかは今でも手元に残っています。そこには子供観として「自分が好きなこと、興味があることには誰でも熱中できる」とあります。好奇心の重視であり肯定的評価です。「何かな?もっと知りたいという気持ちが、試してみよう、チャレンジしてみようという行動につながっていく」ともあります。自発的学びへの言及です。
 「指導から支援へ」という教員観への言及、一緒に探究する伴走者というイメージと重なります。「人は絶えず誰かから注目され、認められてこそ自信を得て、積極性や集中力を発揮する」という表現、成功体験の重要さへの指摘です。
 何よりも当時は学習須藤要領の改訂期でしたが、その大方針は、子供が自ら問題を発見し、予想を立て、粘り強く追究し、自分なりに表現する、だったのです。小宮山氏の指摘とほぼ同じことを言っているのです。
 つまり、私が小宮山氏の主張に共感したのは当たり前、それは30年前から言われ続けてきたことだったからなのです。誤解のないように言っておきますが、だから小宮山氏の語られていることが陳腐だなどと言いたいのではありません。逆です。教育という営みの変わることのない真理を語られていると考えるのです。
 そして、30年前に文科省や各教委が強く打ち出した方針がまた今小宮山氏のような先端の教育研究者の口から聞かれるということは、30年間かけても、理想が実現しなかったという悲しい現実なのです。それは、私のような立場にいた人間の力不足の証明でもあります。そういう意味では慙愧に耐えません。

 

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いったい何を教えてきたのか

2025-08-05 08:29:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何を教えてきた」7月26日
 テレビ報道記者金平茂紀氏が、『SNSと不安心理の結婚 「知る」より「信じる」を求めた』という表題でコラムを書かれていました。その中に次のような記述がありました。
 『選挙後のテレビの某ワイドショーを見ていたら、参政党大躍進についてある男性出演者が「SNSビジネスモデルの成功例」と分析していた。「有権者を参加させる。正しいか間違っているかは問題じゃない。自分たちの気持ちを代弁してくれていることが大事なんですね」と。するとそれを受けて女性出演者が「それがあるべき正しい民主主義の姿じゃないですか」と応じた。一瞬耳を疑った』。
 男性出演者の分析は的を射たものだと思います。多くの識者が指摘していることと重なります。しかしそれはあくまでも、分析が、であって、分析によって明らかになった事柄自体も正しいということではありません。
 それにもかかわらず、女性出演者は、そうした状況を「正しい民主主義の姿」だと言っているのです。私はそのワイドショーを見てはいません。彼女が誰なのかも知りません。しかし、選挙結果について話題とすることが決まっている番組に、コメントを述べる人物として選ばれたのですから、選挙や政治について、世間の平均レベルの知識と判断力を有していると考えるのが妥当です。
 だから愕然としてしまうのです。民主主義についてこんな認識しかもっていないということに。私は、47年前に教員になりました。ずっと社会科を研究教科にしてきました。教員時代には、社会科で都の研究員をやり、開発委員になり、研究生も務めました。その間、全小社研の研究論文にも入選し、都や区の副読本の執筆もし、いくつかの研究団体の全国大会で研究発表も行いました。指導主事となってからは、都の研究員の担当となって教員の指導に当たってきました。
 だからこそ、今この女性出演者の発言を耳にし、自分は何をしてきたのだろうと膝から崩れ落ちるような衝撃を味わってしまったのです。私の教え子は50代の後半から40代の前半の年齢になります。私が指導主事として指導してきた教員たちの教え子は20代から40代になります。そうした現役世代(おそらく女性出演者もその中に含まれる)の人が、「間違っていても自分の気持ちを代弁してくれる人に投票するのが民主主義」だという認識をもっているのですから、私が、私たち教員が、特に社会科を研究してきた教員たちが、必死に教材研究をし、授業計画を練って教えてきたことは何だったんだろう、全て無駄、失敗だったのだろうか、という気持ちにさせられてしまうのも無理のないことです。
 小中高の教員の中に、「間接性民主主義とは主張の根底にある事実関係が間違いかどうかに関係なく自分の気持ちを代弁してくれる人に投票することで成り立つ」と教えた人はいないはずです。それなのにどうしてこんなことになってしまうのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。全国の小中高の社会科を研究している教員とその団体は、児童生徒が民主主義をどのように理解しているのか、早急に調査を開始すべきだと思います。

 

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エールを

2025-08-04 08:31:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もっとそのことを」7月25日
 論説委員小倉孝保氏が、『「球拾い」の夢舞台』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、『大リーグのオールスターでは、昨年から新しいヒーローを選ぶようになっている』と書いています。
 『各球団がその(球拾い)活躍ぶりを動画などで紹介し、それを基にファンが投票する』という制度です。今年選ばれたのは、『フィラデルフィア・フィリーズのアダム・クロネイルさん(26)』で、同球団で働き始めて5シーズン目の若者です。彼は、『当日はフィリーズの一因として「出場」した。「それは素晴らしい経験で、最高の喜びでした」』と語っていたそうです。
 この事例を挙げた後、小倉氏は『スポットライトを浴びる主役の周りには必ず、多くの裏方がいる。そうした人が目立たぬ場所で、与えられた役目を担ってくれるからこそ、スターは輝ける(略)そうやって社会は成り立っている』と書かれているのです。
 その通りだと思います。小倉氏は全国紙の論説委員です。その発言や原稿は大きな影響力をもっているはずです。だからこそ、もっとこうした考え方、「脇役や裏方がいてこそ社会は機能していく」をしっかりとアピールしてほしいと思ってしまうのです。
 私はこのブログで、今の学校が、そこで行われるキャリア教育が、起業家やアーティスト、先端科学の学者や技術者、そういった「目立つ人」を目指すことこそ、若者らしい生き方であるという価値観を植え付けることに偏っているのではないか、という指摘をしてきました。
 私は社会や組織は、優れたリーダーシップだけでは機能せず、多くの構成員の優れたフォロワーシップがあってこそ機能するという考え方をもっています。フォロワーシップとは、言い方を変えれば、脇薬や裏方として責任を果たす生き方になります。そしてそれこそが我が国の「強味」なのだと考えています。この強みを培ってきたのが学校教育です。画一的と批判されることもありましたが、そしてその批判は間違ってはいませんが、一方で、我が国の強味を生んできたのも事実でしょう。
 大きな夢や野望はない、でも毎日目の前の課題、自分に与えられた責任をきちんと果たすことを心がけて真っすぐに平々凡々と生きる、そんな生き方に誇りをもてるようにすべきです。それは、覇気のない年寄りじみた、若者には相応しくない生き方ではなく、社会を支える尊い生き方なのだと。
 そうした生き方に劣等感や自己否定の感情を抱かせるような教育をしていては、我が国は「強味」を失ってしまいます。小倉氏にも脇役や裏方を再評価する教育について健筆をふるっていただきたいものです。

 

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切り取り映像の氾濫

2025-08-03 08:41:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「エスカレート」7月25日
 『職務質問など警官カメラ装着』という見出しの記事が掲載されました。『警察庁は24日、職務質問などの街頭活動と交通取り締まり、雑踏警備にあたる警察官が「ウエラブルカメラ」を装着するモデル事業について、8月下旬以降に13都道府県で順次始めると発表した』ことを報じる記事です。
 記事によると、事業の目的はいくつかあるようですが、最初に書かれていたのは『警察官の対応が適切だったかを事後に確認するため』でした。つまり、権力や権限をもつ者の権力乱用を監視するためのものです。
 だとすれば、このカメラ装着は権力をもつ者について徐々に導入されていくことが予想されます。教員もその一つです。学校では、教員の体罰、暴言、性的な行為などが問題になっています。そこまで「犯罪的」なものではなくても、吃音の子供の音読をからかったなどの不適切な指導について、裁判で争われるケースもあります。
 ですから、子供や保護者の側から、教員の権力乱用の監視や抑制のために、全ての教員のカメラの装着を求める動きが出てきてもおかしくはありません。文科省や教委はそうした事態を想定しているのでしょうか。
 他の市民と接する機会が多い公務員が装着することになれば、教員だけが拒むことは難しいと思います。しかし、教員がカメラを装着するということは、学校内の全てが映像に残されるということであり、教員はもちろん、子供にとってもその心理的な負担はかなり大きなものになることが予想されます。
 日常的なありふれた光景であっても、前後の脈絡を無視し、ある場面だけを切り取れば、大声で怒鳴っている、すごい目つきで睨みつけている、洋服を掴んで引っ張り転びそうになっていた、階段で上を見上げ女児のスカートの中を見ていたなどの「言いがかり」をつけることも可能になってきます。「○○君が喧嘩している」という知らせを受けて現場に向かったところ、「教員が廊下を走っている」という映像にもなりかねません。職員室でお茶を飲んでいる映像さえ、勤務時間中に仕事をしないでくつろいでいる給料泥棒、という映像に切り取られるかもしれないのです。
 そんなことはないという人もいるかもしれませんが、悪意のある人が学校内の映像を不正にコピーするというようなことは、恐らく技術的には可能なはずです。
 もしカメラ装着が導入されれば、学校は極力誤解を受けないようにということが最優先となり、人と人との接触が避けられ、殺伐とした雰囲気に満たされることになるでしょう。それは教育の場ではありません。私の妄想であれば良いのですが。

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該当作品なし、とは?

2025-08-02 09:46:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「○○評価?」7月24日
 『ルポ 芥川賞・直木賞 27年半ぶり「該当なし」 「もうひと踏ん張り」求め 選考過程を振り返る』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、芥川賞については、『それぞれに心ひかれるものがありながら、何かが足りなかった』『芥川賞は新しい試みや視点をもたらしてくれる賞であってほしい(略)今回新しい試みなどもたくさんあったが、もうひと踏ん張りしてほしいところだった』ということだそうです。
 一方、直木賞については、『それぞれが突出した良いところを持っていた。ただ、比較対象にならない形で優れていた。比較することが難しかった』ということだそうです。私は、候補作のどれかに深い執着をもっているわけではありません。ただ気になったのは、両賞の選考=作品評価は、何評価なのだろうかということです。
 学校は、ある意味「評価をするところ」です。教員は「評価をする人」です。その場合の評価にはいくつもの種類があります。相対評価、絶対評価、個人内評価などが一般的に行われています。
 相対評価は、Aは〇%、Bは▽%などと事前に定められており、基準によって数値化された成績を、順番に並べ、既定の割合に応じて割り振っていくものです。全体のレベルが高ければ、90点でもC評価になることもあれば、逆に低レベルであれば、70点でもB評価になることもあり得ます。
 絶対評価は、95点以上はA、80点以上はBなどと、ある基準でランクを定め、そこに達しているか否かで評価します。ですから、全体が高レベルであれば、Aが過半数ということもあり得ますし、逆に低レベルであれば、全員がC以下というケースも生じます。
 個人内評価は、一人一人の現状を把握し、そこからどの面がどのくらい進歩向上したかを示すものです。分かりやすく言えば、15点が18点に3点進歩した、という評価です。全体がどうだとか、基準点と比べてどうかというような外的基準はなく、本人の伸びを、言い換えれば努力や取り組みを評価するという側面が強くなります。
 賞の選考も一つの評価です。さて、両賞の選考は、何評価なのでしょうか。「何かが足りない」「もうひと踏ん張り」という芥川賞の選考についての記述を見ると、賞に相応しいあるレベルが想定されていて、どの作品もそのレベルに達していなかった、という印象があります。
 一方、直木賞については、「比較することが難しかった」というのですから、想定されるレベルがあるというよりも、いくつかの作品間の優劣で決めるという印象、即ち相対評価的です。しかし、相対評価であるならば、必ずその中で一番という作品が存在するはずですので、そうとも言い切れません。
 また、絶対評価的であるならば、ほとんど毎年、あるレベルに到達した作品があるということ、その作品がほとんどの場合少数(3作品、4作品が選ばれることはまずない)であることなどが矛盾します。
 もちろん、ある作家を継続的に追いかけているわけではないのですから、個人内評価であるはずがありません。結局、両賞の評価が何評価なのか、分からないのです。もちろん、私が無知なだけで文学通の型にはすべて明確に分かっているのでしょうが、評価(選考)というものは、事前に何評価なのか明確にされていることが望ましいのです。
 学校で、通知票や内申書を渡すときに、絶対評価なのか、相対評価なのか、個人内評価なのか、ハッキリと伝えないなどということは許されませんしあり得ません。小学1年生の一学期の通知票、多くの学校で絶対評価です。学習内容が簡単なのと2段階評価なので、8割くらいの子供がどの教科のどの項目も「よくできました」。保護者がうちの子は頭がいいと思い込んでしまい、学年が進むにつれて「ふつう」が増えてきて、「1年生のころはあんなによくできたのに」と首を傾げる、なんていう笑い話がかつてはありました。説明は大事ですね。評価の意味が正しく伝わらなければ、評価を生かして努力することもおできませんからね。

 

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お薬が逆効果

2025-08-01 08:42:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無意味な」7月23日
 『熱中症頭痛に「特効薬なし」』という見出しの記事が掲載されました。『交流サイトでは「熱中症の頭痛にロキソニン飲んじゃダメ」という投稿が拡散され(略)熱中症のときに効く薬、注意したい薬はあるのか』という問題意識で書かれて記事です。
 記事では、埼玉慈恵病院副院長藤永剛氏がインタビューに応えてインした。藤永氏によると、『風邪などの場合は、ウイルスによって発熱や痛みを引き起こす炎症物質「プロスタグランジン」が作られ、神経を刺激することで頭痛が発生(略)熱中症は、体温上昇による血管の拡張や、脱水による脳のむくみや収縮、血圧低下による軽い酸欠により、神経が刺激されて頭痛が起きる』そうです。
 つまり、頭痛の根本的な原因が異なるので、プロスタグランジンの生成を抑えるロキソニンは、熱中症の頭痛には効かない、さらにごく稀に腎臓への負担が増し悪化させることもあり得るということのようです。
 私はこの記述を目にして、かつて都教委で担当していた「指導力不足教員研修」のことを思い出しました。当時、実質的には全国初の試みであった同研修については、他県の教委からも多くの担当者が視察に訪れました。
 彼らの多くは、自分たちの教委でも既に研修を始めていると言いました。その内容を聞くと、要するに「ダメ教員ごっちゃまぜ研修」でした。「ダメ教員」にも様々なタイプがあります。授業が下手な者、遅刻や無断欠勤など含む態度に問題がある者、体罰や暴言を繰り返す者、子供を性的関心の対象者とする者、偏った信念で偏向教育を行う者、精神を病んでいる者などです。
 そうした「ダメ教員」を一カ所に集め、反省文を書かせるなど、懲罰的な研修を行っているという県もありました。私はそうした研修の在り方を強く否定し、「腹痛を起こしているといっても、表面に現れている賞状、訴えは同じでも、原因は違う。それを無視して一律に同じ薬を処方することは、効果がないばかりでなく、かえって状況を悪化させてしまう可能性がある」と言い、「それぞれの教員が抱える問題を明確にし、それに相応しい治療法=研修内容と方法を準備することが必要」だと説明をしてきました。
 実際、偏向教育が問題の教員の多くは、自分の考え、価値観で子供と学級を染め上げてしまうほどの影響力をもちます。私たちは彼らを「指導力過多教員」と呼んでいました。それはある意味、何を言っても子供に無視されてしまう指導力不足教員とは対極にある存在と言えます。したがって、処方箋=研修は全く異なるのです。
 今、各教委で行われている教員研修が、本当にその教員の課題を克服させるのに役立つ内容になっているのか、教委関係者は常に評価と点検を怠ってはなりません。

 

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子供の考えそうなこと

2025-07-31 09:08:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「子供というもの」7月22日
 倉田陶子記者が、『夏休みの宿題』という表題でコラムを書かれていました。その中で倉田氏は、小3の夏休みの思い出について書かれています。『先生が宣言した。「夏休みの宿題はありません」。ざわつく私たちに向かって先生は続けた。「新学期に元気な顔を見せること。宿題はこれだけ」。そして夏休みの間に「おーい、元気にしているか?」と声をかけながら、全ての児童の家を回ってくれた(略)麦わら帽子に短パン、腰に手ぬぐい姿で会いにきてくれた先生の笑顔と合わせて、忘れられない夏の思い出だ』と。
 これを読んだ私の感想は、「子供ってこの程度なんだな」という冷めたものです。意地悪く突っ込みたくなってしまうのです。終業式の日に宿題なしを告げて子供たちがざわついた、ということは抜き打ちの発表だった可能性が高いです。つまり、保護者に説明し納得を得ることなく宣言されてということです。保護者に不満はなかったのでしょうか。保護者無視で信頼関係は作られたのでしょうか。
 さらに言うならば、学校全体の方針との整合性はどうなっていたのでしょうか。校長の許可、同学年の他の学級とのバランス、他の学年との方針のずれなど気になります。他の教員は、どうしてうちのクラスも宿題なしじゃないのという疑問に対しどう説明したのでしょうか。もし、S夏休みの宿題は無意味という主張であれば、それは他の学級の方針への否定になります。学校は組織体ですからね。
 さらに、小3の夏だけということは、次年度には宿題廃止は継承されなかったということです。何か問題があったと考えるべきでしょう。
 また、倉田氏は『きっと、遊びでも勉強でもスポーツでも、すくなことに打ち込んでほしいという願いも込められていたと思う』と書かれています。「~と思う」というのは倉田氏の想像であって、担任からは意図についての説明は子供たち自身に対してもなかったということです。これでいいのでしょうか。
 休み中に全児童の家を訪問したというのはどうでしょう。まさか担任がくるというのに何もしないわけにはいきません。「お構いなく」と言われていても、冷たい麦茶の一杯も準備しようと考えるのが人情です。保護者は、暑い中、普段より念入りに掃除をしなければなりません。仕事を休まなければならなかった人もいたはずです。家庭訪問は保護者にとって負担だから、と廃止になる学校が多い現在、当時の保護者も内心は迷惑と感じていた人は少なくないと思われます。
 麦わら帽子に短パン姿、教員の非常識が問題になりそうです。警察官でも児相の職員でも、短パンで家庭訪問する職員はいません。公務の遂行時には、やはり常識というものが求められます。私が教委にいて保護者から疑問の問い合わせがあったとして、「暑いんだから、短パンでいいじゃないですか」とは答えられません。校長も同じでしょう。要指導対象です。
 重箱の隅をつつくようなことを書きましたが、実際倉田氏の担任教員の行動は問題が多いと言わざるを得ません。そかし、そうしたことは子供には見えません。そして「いい先生」という思い出が作られ、それが学校教育についての議論において、偏った影響を及ぼす危険性をもつのです。校長に相談もせず勝手の他の学級と異なる方針を打ち出し、短パンで家庭訪問する、そんな教員が理想の教員像?なんて勘弁してほしいものです。大人になった倉田記者なら、こうした教員の言動について、記事の中でどのように書くのでしょうか。

 

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