「大事にされる」8月5日
連載企画「学校とわたし」は、こども政策シンクタンク社長白井智子氏が語られていました。その中に次のような言葉がありました。『勉強ができる子が大事にされ、できない子は否定されるということを感じてショックでした』。白井氏が小学校時代に感じていた、我が国の学校に対する疑問です。
もっともです。全ての教員はそんな態度をとるべきではないと思います。その一方で、素朴な疑問も浮かんできました。できない子を否定するのは良くない、と思いますが、勉強ができる子を大事にする、というのはいけないことなのでしょうか、という疑問です。
揚げ足取りのようで心苦しいのですが、大事にするというのは、何らかの肯定的な評価を与えるということだと思います。学校は、第一義的に勉強をするところです。スポーツをするところでもなければ、友達作りをするところでもありません。人間関係は大切ですが、それは学校教育の第一義的な目的ではなく、あくまでも学校生活の様々な場面を通じて豊かな人間関係が築けたら素晴らしいことですね、ということに過ぎません。
読み書き算の基礎的な知識や論理的に考える力については評価するのに対し、仲の良い友達が〇人、言葉を交わす程度の友達が〇人などと評価することがないのは、学校教育が目指すものを端的に表しているのです。
掛け算九九を覚えられない子供には補習をしたり宿題を出したりします。漢字が書けない子供には書き取りの練習をさせます。しかし、友達が○人以下の子供を集めて補習をすることはありません。これも、学校が勉強をするところだからです。
学校が勉強をするところであるならば、勉強ができる子供に何か特別な「ご褒美」があることはむしろ当然なのではないでしょうか。塾ではあります。そしてそれは、ときとして子供を勉強に向かわせる力となります。どうして我が国の公立学校では、勉強できる子に何らかの「ご褒美」をあげることが、いけないこととされているのでしょうか。
私は勉強だけで子供を評価すべきと言いたいのではありません。ただ、学校は勉強をするところという原点に立ち返るとき、スポーツができず、友達作りも苦手だけれど勉強は頑張っているという子供がもっと認められ評価されることがあるべきだと思うのです。がり勉は恥ずべき事ではなく、それもまた一つの勲章になるべきだと。