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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

お手本になる覚悟

2014-07-17 07:34:35 | Weblog

「首長の自覚」7月11日
 『ヘイトスピーチ行政の対応検討 橋下市長示唆』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、ヘイトスピーチについて、箸下大阪市長が、『「ひどすぎる。大阪市内ではあんな集会は認めないとのメッセージを出さないといけない」と述べ、行政として対応策を検討する考えを示した』ということです。
 橋下氏は、教育行政の権限を首長に集中させることを主張してきた方です。その主張について私は反対ですが、今回の橋下氏の判断を目にして、これからの首長の責任ということを改めて考えました。
 議会では、様々な行背課題について、首長の見解が糺されます。その中には、「こんなことで、子供に~」という形で糾弾がなされることがあります。公約と異なる政策を推進しようとすれば、「子供に嘘をついてもよいと言うつもりか」と言われますし、ペットの保護条例を「改悪」しようとすれば、「いじめ自殺が問題となっている今、命は軽いものだというメッセージを送ることになる」と非難されるのです。生活保護の受付窓口対応を厳格にすれば、「子供たちに、思いやりの心は必要ないと思わせる」と強引に結び付けられるというように、議員の皆さんは、「純真な子供」を道具に攻撃するのが好きです。
 今までは、首長は教育行政とは距離を置いてきました。だから、教育とは無関係であると言い抜けることが可能でした。しかし、首長が教育行政の責任者となれば、子供に及ぼす影響という視点からの疑念を無視することはできなくなります。そこで、橋下氏の発言です。大阪市内ではヘイトスピーチは許さない、という施策は、実際の制限効果以外に、教育行政のトップとして、大阪市の子供に対して、差別はいけないことだ、君たちの故郷大阪は差別を許さない人権の街だ、すべての人が仲良く暮らす街大阪に誇りを持て、というメッセージを送ることになるのです。そうした意味で、私は今回の橋下氏の判断を、教育トップとして適切だと思います。
 教育行政の権限を手にした以上、自らの言動が子供の規範としての意味も求められるようになるということを首長に自覚してほしいものです。

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仕方なく選ぶことも

2014-07-16 07:41:39 | Weblog

「突っ込んでほしい」7月10日
 『不登校中3進学85% 文科省調査 受け入れ整備で上昇』という見出しの記事が掲載されました。不登校だった中学3年生の高校進学率が、受け入れる高校側の態勢整備により向上したという記事です。しかし、私が着目したのは、おまけのように小さな見出しで報じられた『「支援なし」2割 課題も浮き彫り』という部分でした。
 そこには、『23%が中学3年の不登校時に「支援を一切受けなかった」と回答。その際に「あれば良かった」という支援(複数回答)は「心の悩み相談」32%▽「人との付き合い方の指導」31%と3割を超えた』と書かれていました。記事は結果を淡々と報じるだけで、考察や分析の類はありませんでした。私は、この結果から、不登校の児童生徒に対しては、「心の悩み相談」と「人との付き合い方の指導」をすればよいのだと安易に結論付けるのは間違いだと思います。
 選択肢による回答では、とりあえずもっともらしい無難な回答を選ぶという傾向があること、実際に不登校に苦しんでいる時点での回答ではなく6年後の回答であること、4万人以上いた不登校生のうち回答したのは1600人ほどであり、回答した人自体が特別な少数派である可能性が捨てきれないことなど、今回のアンケート調査自体の限界を踏まえる必要があることが理由の一つです。
 しかし、それだけではありません。同じ選択肢を選んだ人であっても、その選択肢についてのイメージには違いがあると思われるからです。例えば、「心の悩み相談」とはどのようなことなのでしょうか。教育相談室が校内にありSCが常駐しているということなのでしょうか。それでは他の生徒の目があるので嫌だということもあるかもしれません。校外の身近なところに相談センターを設置するということかもしれません。しかし、2006年の時点で、相談センターが設置されていない自治体はほとんどなかったはずです。
 視点を変えると、相談相手は誰が望ましいと考えているのかも問題です。専門の臨床心理士、年齢の近い大学生ボランティア、学校生活をよく知る教員、その場合担任、養護教員、分掌に関係なく自分が信頼する教員、どのケースもありそうです。相談の形式についても、1対1の面談もあれば、インターネットで回答を募るような匿名で多くの同年代の人の意見を聞きたいという形式も考えられますし、顔を見られずに電話相談というのもありそうです。
 そもそも論でいえば、不登校の原因によっても異なるでしょう。成績が悪かったから、いじめられて、先生の体罰を苦にして、容貌や身体的な劣等感があって、家庭の問題、中3であれば恋愛に悩むことが原因というケースもあるかもしれません。
 せっかくの調査なのですから、様々なケースの組み合わせを想定した分析と考察をしてほしいものです。また、より根本的な問題として、不登校であった若者が後になって望んでいた対策が、本当に効果があるのかどうかという検証もしてほしいものです。当事者が望んでいる対策が本当に効果があるとは限らないのですから。

 

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少し考えればわかること

2014-07-15 07:43:50 | Weblog

「なんで今さら」7月9日
 『中高の運動部活動 「体育は専門外 競技経験もなし」4割超 脆弱な指導体制』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『専門が保健体育ではなく、当該競技の経験もない部活動指導者が、中学校で45.9%、高校で40.9%を占めた』ということです。こうした現状について、記事は『部活動の脆弱な指導体制が浮き彫りになった』としています。
 正直なところ、頭がおかしいんじゃないの、と言いたいところです。調査をするまでもなく分かりきったことです。30人の教員がいる中学校の場合、保健体育の教員は3人程度です。一方、運動部活は、野球、庭球、卓球、排球、籠球、蹴球、柔道、剣道、陸上など、10前後あるのが一般的です。つまり、この時点で、7割の運動部が、保健体育以外の教員が顧問となるわけです。さらに、中学校の教員人事は、教科の枠ごとに行っていきますから、競技経験に配慮することはとても難しいのです。
 私も指導室長をしていたときに、「何としても軟式庭球の指導ができる人を」「サッカー部の顧問をしていたAが異動してしまうのでこのままでは廃部せざるをえないが、地域や保護者が猛反対していて」などという声を校長から聞かされた経験があります。しかし、その年度の他区市からの転入者の中に庭球や蹴球の経験者がいても、それが教科の枠に当てはまるケースは極稀なのです。もちろん、軟式テニスで国体出場経験者だからといって、数学の教員が異動していった後に理科の教員をはめ込むわけにはいきません。
 ですから、こんな調査をするまでもなく現場では誰でも分かっていたことですし、現在の教員養成・採用・異動の仕組みの下では、解決できない問題であることも共通理解されているのです。
 この調査結果について、立教大教授の松尾哲矢氏は『公認指導者資格制度での研修で教諭の専門性を高めてもらう』という対策をあげていらっしゃいますが、これでは、教員は本務である授業の充実がますます疎かになります。世界一多忙で授業に自信がないという中学校の教員に、さらに別の研修を強要するという策が、学校教育にどのような影響を与えるか考えての提言とはとても思えません。
 こうした部活大事の発想は、教員自身に「大切なのは授業より部活」「部活の指導で授業の質が低下しても仕方がない」「自分はみんなが敬遠していた野球部の指導を引き受けているのだから他のことは大見に見てもらって当然」という間違った意識を植え付けてしまう効果さえあるのです。大阪市桜丘高校の体罰教員も、間違った特権意識をもち、それを教委も校長も認めていたことが、悲惨な事件の背後にあったことを忘れてしまったのでしょうか。
 部活は完全に社会教育の分野に移行させるべきです。

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セクハラといじめ

2014-07-14 07:42:34 | Weblog

「セクハラといじめ」7月9日
 経済評論家の勝間和代氏が、セクハラについてコラムを書かれていました。その中に、『セクハラは、必ずしも「悪意」から生まれるものではありません。セクハラはときには「善意」からも生まれます。「相手の気持ちを推し量れない」という無能力から生じるからです』という記述がありました。まったくそのとおりです。
 勝間氏の指摘は、自分のことを「善良な人」と考え、セクハラなど自分には関係ないと考えている人にとって、自分もセクハラの加害者になるかもしれないと振り返らせ、セクハラを自分の問題として考えさせる効果があります。それはとても貴重なことです。
 しかし一方で、悪意で起こされる「○○ハラ」も少なくないということも忘れてはならないと思います。警察や自衛隊でパワハラによる自殺事件が起きたとき、加害者側は、指導の一環のつもりだったとか本人に早く一人前になったほしかったなどと弁解します。つまり、「善意」の人を装っているわけです。今、「装っている」と書きましたが、実際には、彼らのほとんどが相手が苦しんでいるのを楽しんだり、それにもかかわらず自分に逆らうことのできない事実から自分の権力や立場を再確認して満足感を得ていたりしているのです。
 セクハラもパワハラも、加害行為を楽しんでいる犯人がいて、有効な抵抗手段をもたない被害者がいて、見て見ぬふりをする傍観者がいるのです。そして、傍観者の存在自体が、加害者にとって「これだけ大勢の奴らが自分のことを怖がって文句も注意もできない。自分の力はこれほど強いのだ。自分はこんなに偉いのだ」と、さらに満足感を得てしまうのです。それは、子供同士ではいじめと呼ばれる行為と同じです。
 ですから、セクハラやパワハラといじめ問題は、同じ対策が有効なのです。つまり、原則として被害者の立場に立ち、訴えがあった場合は必ず調査をし、被害者と加害者が話し合う場を設けることはせず、加害者の人格や業績を否定せずに加害者の問題となる行為については厳罰を下す、という姿勢が大切になるのです。そして、傍観者に対しても消極的加害者であるという意識を徹底させることが大切です。その前提として、相談を受ける立場にある者には「大きな権限」を与えておくことが必須です。子供のいじめ問題においても、教員が子供に対して一定の権威をもっている集団ではいじめの解決が容易であることからも明らかです。
 セクハラとパワハラが解決できない学校では、いじめが横行するのです。また、いじめが横行する学校では、セクハラやパワハラを疑ってみる必要があります。

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ライバル復活を

2014-07-13 08:18:59 | Weblog

「失敗の原因」7月8日
 社会学者の上野千鶴子氏が、ヘイトスピーチを取り上げた書評コラムを書かれていました。その中で上野氏は、『保守は世代交代に成功したが、対抗勢力は世代交代に失敗した、と思わないわけにいかない。日本の戦後歴史教育は、現政権の思惑通りの結果をもたらした』と書かれています。私もこのブログの中で、教育における「左派」のパワー低下を指摘してきましたので、上野氏の指摘には首肯できます。
 とはいっても、私は保守派であり、上野氏とは立場が異なります。だからこそ、上野氏が言う「失敗」の理由を、上野氏がどのように考えているのかを知りたいと思いました。一般論として、3通りの理由が考えられます。まず、時代の変化に原因を求める考え方です。中国や韓国との関係が悪化する中で、愛国心が刺激され、それが保守的な思想を後押ししたというような分析です。でもそれは間違いだと思います。こうした状況は近年のことであり、戦後70年の中ではごく短い期間でしかないからです。
 次に考えられるのが、保守派の攻勢が強まったという考え方です。これも腑に落ちません。過去を振り返ると、自民党がもっと大きな勢力をも
っていた時期もありましたし、つい5年前には、自民党が民主党に対し地滑り的敗北を喫したのですから。
 私の考えは3番目の「保守派の主張が力をもってきたというよりも、「対抗勢力」が自己崩壊を起こした」というものです。上野氏が言うところの「対抗勢力」が主導してきたのは、情緒主義的な平和教育、当たり前の心構えや生き方さえ「押し付け」と拒否する道徳教育、真に一人一人の子供の自己実現を考えるよりも抽象的なスローガンを優先させた統合教育、他者批判と抑圧勢力との闘争を前面に掲げた人権教育など、子供の興味関心よりも自分たちの主義主張を優先させる姿勢に崩壊の原因があるように思えるのです。
 実際、私が接してきた、平和教育や人権教育の実践家たちの多くは、授業形態や評価基準・方法の適切化、、学習活動の多様化、学習過程の工夫、発問や板書などの指導技術の向上、学び方の習得の視点からの年間計画作成など、教えることの専門家として最も求められる授業力の向上には関心が薄かったものです。
 以前も書いたことですが、どのような分野も異なる立場からの活発な論争がなければ発展充実は望めません。そうした意味で、私は「対抗勢力」の立ち直りに期待しています。それは、自分たちの主張を実現するための運動としての主張ではなく、子供の学びの充実と成長の保障という立場に立ってのものでなければなりません。
 そして、そうした論争は基本的には政治家や学者に委ね、教員は教える専門家として、運動から離れた子供本位の豊かな実践を提供するという形で関わっていくべきだと考えます。そうした貢献こそ、教員の存在価値なのです。

 

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日本式「道徳」

2014-07-12 06:56:42 | Weblog

「日本式」7月7日
 京大教授の河合俊雄氏が、『脱「他者」時代のコミットメント』という表題で寄稿なさっていました。その中で河合氏は、『近年に葛藤や罪悪感をあまり感じないクライアントが増えている』という事実を紹介し、その背景として、『日本ではそもそも内面化された倫理が存在していないのではないか。その代わりを務めてきたのが、お互いがお互いを見張るような他者や集団による倫理であった』にもかかわらず、そうした機能が消滅しつつあることによって葛藤も罪悪感も感じない人が増えてきたのではないかという仮説を述べています。
 要するに、人間関係が希薄化し、誰も自分のことなんか見ていないという感覚が強くなれば、他人の目、第三者の評価を気にしなくなり、欲望に基づく行動を規制するものがなくなり、「こんなことがみんなに知られたらどうしよう」と悩みもしないというわけです。
 その通りだと思います。キリスト教やイスラム教などの一神教は、それを信じる人の内部に強固な倫理を築き上げます。世界の多くの国がこれに当てはまります。一方、共産主義や独裁制の国では、息詰まるような相互監視社会が、人々の内面までも統制します。さらに、前近代的な部族社会的な構造が残る国では、濃厚な人間関係の中で、見張り効果が作用します。我が国はそのいずれにも該当しない珍しい国なのです。だからこそ、河合氏が指摘するような若者が登場してきたのです。
 自分がアルバイトしているコンビニの冷蔵庫の中で寝そべった写真を公開したり、裸でラーメン屋に入った映像を投稿したりする行為には、知られたら困る、というような意識は皆無です。彼らだって、自分の行為が社会一般から賞賛されるものでないことは百も承知です。でもそれよりもごく狭い仲間内で「やったじゃん」「面白い」という反応を得ることに価値を見出してしまうのです。彼らの視野には、数人の仲間だけがあり、世間はないのです。
 学校教育において道徳教育の充実が求められているのには、こうした状況に対して、これではいけないという危機感があると思われます。では、これからの道徳教育をどのように構想していけばよいのでしょうか。どのようなものであれ宗教に倫理観の核を求めるのは、国民が納得しないでしょう。政治が国民の心の中まで統制するような形も強烈な拒絶反応に遭うはずです。いまさら、人間関係を濃密にするのは、不可能です。少なくとも、学校や教育だけで手に負えることではありません。現代社会においては人類普遍の原理であるとされる、愛や信頼、人権尊重や相互扶助、権利と義務などの概念は、大変魅力的ですが土着でない人工性のため、人の心に沁みとおる強い浸透力をもっていません。
 道徳の授業法は教員に任してください、でもこうした大きな課題は、様々な専門家の英知を結集し、方向性を見出してほしいものです。

 

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港区と足立区

2014-07-11 06:47:05 | Weblog

「何を想定?」7月6日
  『小中一貫校 課題をしっかり見すえ』という表題の社説が掲載されました。小中一貫校については、先日「論理的整合性」というタイトルでこのブログでもとりあげたばかりですが、そのときに取り上げなかった視点から再度触れてみたいと思います。
 今回の社説では、『制度導入の判断やカリキュラムの組み立ては、市区町村の判断に任せられる』点を強調し、『地域での必要性や生かし方などについて広くコンセンサスを得ることが欠かせない』『肝心なのは、それぞれの学校が創意と多様性を確保できるかどうか』と自治体や学校が独自性を発揮する「地域主権」的な発想の重要性を説いています。
  教委で実務に携わった経験のある者として、この「地域主権」的な考え方には、首を傾げてしまいます。地域の状況によって判断するということですが、例えば私が勤務していた東京都の東部地区を例に考えてみると、江戸川区と葛飾区と足立区で、学校教育における各地域の状況の違いとは何なのかという課題に行きつきます。いずれも、学力テストの結果はよくありません。児童生徒の問題行動も多発し深刻です。これは非行問題を担当する各警察署の生活安全課の担当者も同じ見解です。地域住民の経済状況は低所得者が多く、家庭の教育力は低いと言わざるを得ません。
 この3区において、地域の状況に基づく独自性を出し差をつけるのは不可能です。でも、地域ごとの独自性を求められれば、無理矢理に屁理屈をこじつけることになります。本音では、「隣が5・4制だからうちは4・3・2制」だというところに、無理矢理理由を後付するような形での導入が増えざるを得ないことになってしまいます。
  そもそも、小中一貫校制度導入を唱えている人たちは、どのような状況であれば「6・3制」のままが適切で、どのような状況下では「5・4制」が望ましく、どのような状況の場合「4・3・2制」が効果的だというイメージがあるのでしょうか。はっきりと違いが分かりやすい、東京都港区と足立区を例に、どういう理由でそれぞれの区にはどの制度が望ましいというシミュレーションができるのであれば、それを示してみてほしいと思います。
 今のまま小中一貫校制度を導入すれば、予算的な制約、首長の改革姿勢アピール、近隣自治体との差別化など非教育的思惑で決定された仕組みを教育的配慮という化粧で隠すという状況が各地でみられるようになるはずです。

 

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小学校にも不満はある

2014-07-10 07:45:36 | Weblog

「授業観と教員観」7月6日
 書評欄に『動物たちはぼくの先生』(日高敏隆著)が取り上げられていました。書評を書かれた村上陽一郎氏は、その中で、『教育とは、何かを教えることではなくて、学ぼうとする意志と心を育てることだ、という日高さんの考えは、まことにその通りだと思う』と述べています。さらに、『文部科学省でも、初等・中等教育から大学教育に至るすべての現場で、「教えることから学ぶことへ」という発想の転換を言い立てるようになっている』とも書いています。
 日高氏の考えには私も同感ですし、文部科学省の動きも指摘の通りです。しかし、現場がそうなってはいないのです。正確に言えば、小学校では「学ぶ」への傾斜がやや行き過ぎており、中高では、以前として「教える」が大きな比重を占めているのです。
 とはいっても、日常の授業は、小中高ともに「教える授業」を脱却できていません。大きな違いがみられるのは、いわゆる研究授業です。小学校では、体験・話し合い・調査・表現・自己及び相互評価といった場面が頻繁にみられます。熱心で力のあるといわれる教員の授業ほどそうですし、研究指定校など新しい教育課題への対応がより求められてる学校の授業ほどそうした傾向が強まります。そこでは、子供を活発に動かし、子供が学んでいる姿を見せることが出来る教員が評価されるのです。
 一方、中高では、研究授業で教員が力を入れるのは「教材研究」もしくは「教材開発」です。奈良時代の学習であれば、従来の授業ではそこまで掘り下げられていなかった歴史解釈を専門的な資料を使って示したり、どの教科書も教員も取り上げていなかった歴史事象を中心に据えたりすることに、生きがいを感じる教員が多いのです。
 この小学校と中高の間にある、良い授業観、優れた教員のイメージギャップは、何十年経っても埋まりません。私は小学校の教員でした。それも、かなり偏った「学ぶ」派でした。そんな私が、小学校の「学ぶ」重視授業を高く評価しているかといえば、そうではありません。不満があるのです。
 そのキーワードは、村上氏が引用した日高氏の言葉の中にあります。「学ぼうとする意志と心」という言葉がそれです。意志も心も同じことです。教育用語でいえば、学ぼうとする意欲ということです。確かに大事なのですが、それだけでは学ぶ人間に成長することはできません。「学び方を身に着ける」ことが重視されてこそ、学ぼうとする意志と心が意味をもつのです。
 子供の学びへの意欲を刺激することは比較的容易です。多くの小学校教員が得意とするところでもあります。しかし、子供の意欲は萎むのも早いのです。意欲をもって取り組んだ学習がいつまでたっても成果を上げないとき、子供の意欲は萎み、「先生、早く結論を教えてよ。知っているんでしょ」となってしまうのです。小学校の教員に足りないのは、学び方考え方、問題解決の仕方を身に着けさせる授業の確立なのです。そこまでできてはじめて、中高の授業を批判的にみることが許されるのだと思います。また、自分の実践を見せて、中高の教員の授業観を転換させることもできるのです。私自身はそこまでいけませんでしたが。

 

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分析学習へ

2014-07-09 06:57:45 | Weblog

「意志とは」7月5日
 以前も取り上げた『いま靖国から』の連載25回目に『修学旅行の「新顔」台頭』というタイトルの特集が掲載されました。その中に、広島や長崎、沖縄への修学旅行が減り、代わりに知覧などへの修学旅行が増えている事実を示し、『特攻が、原爆や地上戦に代わる平和教育の「主役」になろうとしている』という記述がありました。
 そして、『特攻の展示が強調するのは、理不尽・悲惨・人道・反戦よりも、純粋・勇敢・忠誠・殉国・美・愛である』とし、『清らかな「聖地」で説く道徳的な戦争は、子どもたちに平和へのどんな意志を植え付けるだろうか』と危機感を示しています。
 私も記者の危機感を共有します。私は保守派ですが、それでも、特攻はかっこいい、特攻隊員の純粋さに感激したというような感想を子供たちにもたせてはいけないと思っています。ただ、私の危機感の中身は記者氏とは少し方向が違っています。
 記者氏は、『戦後の学校での平和教育といえば、戦争の悲惨さを知って「二度と戦争をしてはならない」と学ぶこと』と規定しています。その通りです。そしてそれが間違いだったと思うのです。記者氏は、このことを「子供たちに平和への意志を植え付ける」という表現で言い換えています。学習の目的は「意志」だったのです。意志とは、辞書風に言えば、「物事を進んでしようとする心の動き。意欲」です。そこには、「心」はあっても「頭」はありません。別の言い方をすれば、感性の教育であり、知識軽視の教育であるということです。
 人間は、様々な願いや欲求をもっています。長生きしたい、金持ちになりたい、結婚したい、よい職に就きたい等、です。言い換えればそうした「意志」をもっているということです。しかし、意志だけあっても、願いを実現させることは不可能です。長生きするためには、体の仕組みや疾病についての知識が不可欠ですし、金持ちになりたいと念じているだけでお金が入ってくるはずもありません。自分の消費性向の問題点を知り、投資や運用、税制についての知識もある方が有利です。
 平和についても同じ事です。平和を願う意志だけでなく、平和を実現するための方法について詳しく知ることこそが平和教育の柱でなければならなかったのです。先の大戦においては、天気予報さえ国家機密とされ仮想敵国との国力比較といった情報や戦争の進行状況についての情報などが「秘密」にされたこと、アジア解放というこれ以上ない立派な大義名分の下に戦争が行われたこと、独裁政権が一方的に戦
争を始めたのではなく情報不足の国民が戦争に賛成し後押ししたこと、こうしたことをしっかりと論理的に学んでいれば、特定機密保護法も集団的自衛権容認閣議決定についても、もっと異なる国民の反応があったはずです。若者の多くがこうした改革に賛意を示していることこそ、情緒と感性の平和教育の限界を示すものです。
 問題なのは、広島の原爆ドームから鹿児島の知覧特攻平和会館に修学旅行の行き先が変わったことではなく、情緒的な平和教育しか行われてこなかったことなのです。情緒対情緒であれば、人道や反戦よりも純粋や美、愛の方が、中高生に対して訴える力が強いのは当たり前の話です。
 今までの平和教育を、戦争分析学習に衣替えすることが急務です。

 

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論理的整合性

2014-07-08 07:32:00 | Weblog

「論理的整合性」7月3日
 『小中一貫校を提言』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、教育再生実行会議が、『「小中一貫教育学校」を制度化し、現行の小学校6年、中学校3年の「6・3制」を市区町村の判断で「4・3・2制」「5・4制」など地域の状況に合わせて決められるよう提言』したということです。
 この学校制度改革が必要な理由として、記事では、『中1の壁』への対処であると書かれています。具体的には、『学級担任が基本的に全教科教える小学校に対し、中学校では教科担任制に変わり、学習内容も高度になる。そのため、環境の変化に適応できず~』という点と、『子供の体の発達が、6・3制の導入時に比べ2年程度早まっている~(中略)~小、中の切れ目に第2次性徴があたり、これを円滑に乗り切る』の2点が挙げられています。
 さらに、既に特例校として実施している学校で検証されているメリットとして、『中学1年に当たる7年生の学習内容の一部を6年生で先取りすることで、8~9年生の授業に余裕が生まれ、柔軟な授業編成が組める』『上級生は下級生に見られていると意識するのか。子供の問題行動は少ない』が挙げられています。
 必要な理由もメリットも、長年教委に勤務した者として、「間違ってはいない」と思います。しかし、論理的整合性に欠けているとの思いも抱きます。教科担任制と学級担任制の切れ目ということであれば、「6・3」であろうが「5・4」であろうが、時期がずれるだけで、変化はないはずです。私が知る限りでは、12歳で切り替わるよりも11歳で切り替わった方が適応しやすいという研究結果は出ていないはずです。学習内容が高度になる、という点についても、学習内容を規定しているのは、学習指導要領であって「6・3制」か「5・4制」かという問題とは関係がありません。
 メリットについても、学習内容の先取りについては、特例だからこそできることで、現行学習指導要領の趣旨は、基本的に先取りを望ましいものとしないということになっています。もし、先取りが望ましいということになれば、1年生から各学年で、1/10ずつ先取りを行い、9年生では、授業のほとんどを受験対策に費やすというような教育課程が容認されることになってしまいます。実際問題として、「名門校」への進学を願う保護者はこうした措置を望むでしょうし、それを特色にする学校が生まれるでしょう。それをよしとするのであれば話は別ですが。
 上級生としての自覚問題において、学校の区切りは中立的にしか作用しません。現行制度下では、6年生は最上級生としての自覚をもって校内行事などでも責任感をもって行動しますが、一貫校で9年生がいる状況になれば、そうした自覚やリーダーシップは発揮されなくなってしまいます。
 記事では、公平性を保つためか、小中一貫校の問題点も掲載していますが、どんな改革にもメリットデメリット双方があるのは当然であり、ここでは問題点を強調して反対するつもりはありません。ただ、理由やメリットについては、きちんとした理論的整合性が求められると考えます。そうでなければ、そもそも理由として、メリットとして成り立っていないことを前提にした間違った議論になってしまうからです。
 なお蛇足ですが、「中1の壁」問題についていえば、記事の仮説が正しいとすれば、小学校6年段階における専科授業の実施率が高い自治体ほど、適応が容易で不登校やいじめの発生割合が少なくなるはずです。例えば、東京都は専科率が高い地域ですが、不登校やいじめの発生割合も低いのでしょうか。そうした検証なしに安易に「中1の壁」を持ち出すのは疑問です。

 

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