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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

人をつくる

2014-07-26 07:27:47 | Weblog

「管理職」7月20日
 元世界銀行副総裁の西水美恵子氏が、『「人をつくる」管理職』という表題でコラムを書かれていました。どの部分を引用しようかと思い悩んだのですが、私が言いたくても語彙や表現力の不足のためにうまく言えなかったことをことごとく代弁していただいたようで、量が多くなってしまいます。
 『管理職は、(経営の神様)松下氏が言われた「人をつくる」仕事。部下の可能性を最大限引き出すのが最高使命』『世銀融資の成果は、発展途上国の子供たちの笑顔~(中略)~世銀の融資は長い。今日の融資を返済し終えるのは、社会人となった子供たち』『笑顔の成果を追う仕事は、同じ笑顔の職員にしかできない』『「笑顔」の成果を追求するなら、人を大切に育てる組織でなければならない』『年に1度の勤務評定だからこそ、人づくりに欠かせない貴重な対話の時間だ。心ゆくまで話すために時間を制限せず、部下1人につき半日のスケジュールを組んだ』等々、です。
 以前もこのブログで書いたことですが、校長などの学校管理職において、10年くらい前から、「経営者」としての側面が重視され、学校経営目標を数値化して示させるというような改革が行われてきました。そこには人材育成の視点が乏しかったのです。教員の指導力を数値化しにくいという事情もあったと思いますが、そもそも視野に入っていなかったというのが本当のところでしょう。しばらくして、OJTの重視など、教員育成にも力を入れなければならないということが、教育行政関係者にも理解されてきましたが、それまでは、「教員なんだから授業が出来て当たり前」というような認識の幹部も少なくなかったのです。
 また、本来、学校教育の成果は、上級学校への進学率や学力テストの数値などの短期指標で示すべきものではありません。教育は未来への投資と言われるように、子供が社会人となり社会を担うようになったときに、初めて成果が明らかになるという性質をもっています。世銀の融資と同じなのです。ですから、笑顔には笑顔という原則は、学校教育においても成り立つのです。教員が心身ともに充実感を得ながら職務を遂行できるという状況をつくってこそ、子供が成長することが出来るという発想が貴重なのです。
 さらに、管理職は、一人一人の教員と十分なコミュニケーションの機会をもたなければ、適切な評価・指導はできないという指摘も重要です。実際には、校長と教員の面接は、30分程度で終わってしまっています。これでは足りません。教委は、このコミュニケーションズ機会の確保のために、会議や行事を見直し、年2回、3週間程度の面接集中期間を設けるようにすべきです。

 

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ねらいはどのレベル?

2014-07-25 07:37:33 | Weblog

「焦点化ということ」7月19日
 『人呼んで「ハイブリット留学」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、「ハイブリッド留学」とは、『講義は日本語で受け、現地の生活で英語力を身に着ける。英語力ゼロでも異文化体験ができるプログラム』なのだそうです。要するに、欧米に留学して『教室内は日本語、ホームステイ先などでは英語』という生活を送るというシステムです。
 『語学力というハードルを下げ、「内向き志向」といわれる学生に「まずは海を渡らせる」のが狙い』ということなのですが、賛否両論があるようです。私は、大学教育については全く分かりませんし、英語教育についても素人です。ただ、「ハイブリッド留学」をめぐる賛否は、我が国が目指す英語教育の到達点をどのように設定するか、という問題意識が共有されていないからではないか、という思いを抱いています。
 例えば、東京五輪が開催される6年後、その時点で大学を卒業した若者がどの程度の英語力を身に着けていればよいのか、と考えてみるのです。「来日した外国人に英語で道を尋ねられたとき英語で教えることが出来る」、「観光業や販売業、飲食業に就いた若者が、来日した外国人の英語の質問に答えるとともに簡単な説明が出来る」、「英語で書類を作成したり、ビジネスの交渉をすることができる」、「学術会議等でも英語の専門用語を駆使し、堂々と渡り合うことが出来る」など様々なレベルが考えられます。
 初めの道を教えるレベルであれば、「ハイブリッド留学」で十分です。小中学校で、外国語しか話せない子供を受け入れるとき、年齢が低いほど、日本語を使った日常的な意思疎通は早くにできるようになります。それに安心して、通訳をつけずに授業を受けさせると、授業内容を全く理解できないという状況に陥ってしまいます。これは、具体的な事物についての内容が多い日常会話と、抽象概念を扱う授業との違いによるものです。どの言語においても、日常会話は「慣れる」ことが習得のポイントになります。つまり、ホームステイ先での会話を重ねればOKなのです。
 一方、大人と対等に日常会話が出来る日本人の小学生に、日本語で法的な内容を含む契約書を作成させようとしてもできません。抽象的な概念とそれを表す言葉や文脈を会得し習熟していないからです。英語である分野について説明したり討論したりできるようになるためには、いくら日常会話を積み重ねても、それだけでは無理なのです。そのためには、専門的に学ぶ講義において英語を使ったコミュニケーションを体験する必要があります。つまり、「ハイブリッド留学」では効果がないのです。
 狙いを明確に設定しなければ、正しい評価はできません。私見では、中高生にこそ「ハイブリッド留学」は相応しいように思います。

 

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何をさせたい?

2014-07-24 07:40:37 | Weblog

「何をさせたい?」7月19日
 東京都の舛添要一知事の記者会見での質疑の概要が掲載されました。『若者の脱法ドラッグの乱用を防止するために何ができるか』と問われた舛添氏は、『学校が休みになっても教育庁から都内の学校に重々注意できると思う』と答えていました。しかし、私には、教育庁が都内の学校に注意する、とはどのような行為をイメージしているのかが分かりません。
 おそらく脱法ドラッグを使用しようとする生徒は、いわゆる「問題行動」の多い生徒であると考えられます。そして、そうした生徒の多くが、夏休み中に学校には来ないでしょう。つまり、学校としては、生徒との接点をもつことが出来ないのです。接点なしにどのような指導をし、効果を上げることが出来ると考えているのかが分かりません。
 教育長から、各学校長に対して、「生徒の脱法ドラッグ使用に関する指導について」という通知文をだすことは簡単です。緊急に啓発資料を生徒数分作成し、配布するよう求めることもできます。また、臨時校長会を開催し、その場で指導の徹底を指示することもよく行われます。さらに、教育庁指導部の指導主事を全校に派遣し、具体的な取り組みを促すとともに、その実施状況を確認するということだって不可能ではありません。
 しかし、それらはいずれも、教育庁が、もっと言えば東京都として対策を考えて実行していますというアリバイ作りにしかなりません。学校にやってこない生徒、自宅に不在で連絡も取れない生徒に対して、指導する場と時間を確保しなければ単に「絵に描いた餅」に過ぎないのです。
 脱法ドラッグ対策は、既に計画され行われていなければいけないのであり(実際に実施されているはず)、その場の思い付きで形だけ整えるようでは、成果は期待できません。また、もし、現時点できちんとした指導がなされていないのであれば、そのことを隠さずに話し、夏休み中の可能な警察等との連携などの緊急策を提示した上で、今後の取り組みについて、タイムスケジュールを示すというのが責任ある教育行政のあり方です。首長が、深い考えもなく、できる、やる、と言ってしまい、事務局が辻褄を合わすことに奔走するという図式は勘弁してほしいものです。

 

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スポーツだけではない

2014-07-23 07:22:38 | Weblog

「スポーツだけではない」7月18日
 石井朗生記者の『敗者の校歌』というコラムが掲載されました。その中で石井氏は、高校野球の地区大会を取り上げ、『試合後に勝者の校歌が流れる。勝利の「栄誉をたたえて」行われる儀式だ。この儀式、逆ではダメだろうか』と書かれています。そして、その理由について、『スポーツでは勝利を目指した練習をさんざんやるが、敗戦の価値や意義を考える指導は、まずない。実は大半の選手が負けを味わうのに、その時への備えが何もなく~』と述べています。
  私はこのブログで、夢を捨てさせるのが教育だと述べてきました。可能性は無限大だなどという現実離れしたことを言い、子供を煽り立てるような指導へのアンチテーゼのつもりでした。スポーツの世界的選手という夢をもったところで、田中投手やイチロー選手になれる子供は、0.0001%もいないのですから。そこまではいかなくても、弁護士を目指し50歳を過ぎてもアルバイトをしながら司法試験を受け続けたり、画家として大成することを夢見て40歳でも親のすねをかじり続けているような人を見てきただけに、無責任に「夢」のある人生を礼賛することには疑問をもっているのです。特に、卒業後の子供の人生に寄り添い続けるわけではない学校や教員が、そうした無責任な行為をすることには懸念を抱いていたのです。
 膨大な資産や収入、国際的な名誉、歴史に名を刻むような名声は、1/100000000の天才且つ幸運児だけがつかむことができるものです。彼らの陰に無数の敗者、挫折者がいるというのが人の世の習いです。高校野球だけでなく、圧倒的多数は、何らかの敗者なのです。ですから、学校は、教員は、良き敗者たる人を育てることに力を注がなければならないのです。
 全力を尽くす過程への敬意、敗者への敬意、価値ある敗戦という価値観、勝敗を超越した人間の存在意義、そういった概念を学校教育の根本に据える必要があると考えます。全力を尽くした敗者にエールを贈る、そんなことではグローバル社会を生き抜けないと言われてしまうのでしょうか。

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スポーツだけではない

2014-07-23 07:22:38 | Weblog

「スポーツだけではない」7月18日
 石井朗生記者の『敗者の校歌』というコラムが掲載されました。その中で石井氏は、高校野球の地区大会を取り上げ、『試合後に勝者の校歌が流れる。勝利の「栄誉をたたえて」行われる儀式だ。この儀式、逆ではダメだろうか』と書かれています。そして、その理由について、『スポーツでは勝利を目指した練習をさんざんやるが、敗戦の価値や意義を考える指導は、まずない。実は大半の選手が負けを味わうのに、その時への備えが何もなく~』と述べています。
  私はこのブログで、夢を捨てさせるのが教育だと述べてきました。可能性は無限大だなどという現実離れしたことを言い、子供を煽り立てるような指導へのアンチテーゼのつもりでした。スポーツの世界的選手という夢をもったところで、田中投手やイチロー選手になれる子供は、0.0001%もいないのですから。そこまではいかなくても、弁護士を目指し50歳を過ぎてもアルバイトをしながら司法試験を受け続けたり、画家として大成することを夢見て40歳でも親のすねをかじり続けているような人を見てきただけに、無責任に「夢」のある人生を礼賛することには疑問をもっているのです。特に、卒業後の子供の人生に寄り添い続けるわけではない学校や教員が、そうした無責任な行為をすることには懸念を抱いていたのです。
 膨大な資産や収入、国際的な名誉、歴史に名を刻むような名声は、1/100000000の天才且つ幸運児だけがつかむことができるものです。彼らの陰に無数の敗者、挫折者がいるというのが人の世の習いです。高校野球だけでなく、圧倒的多数は、何らかの敗者なのです。ですから、学校は、教員は、良き敗者たる人を育てることに力を注がなければならないのです。
 全力を尽くす過程への敬意、敗者への敬意、価値ある敗戦という価値観、勝敗を超越した人間の存在意義、そういった概念を学校教育の根本に据える必要があると考えます。全力を尽くした敗者にエールを贈る、そんなことではグローバル社会を生き抜けないと言われてしまうのでしょうか。

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木に竹を接ぐ

2014-07-22 07:23:29 | Weblog

「新たな批判が」7月17日
 『文科省 多忙な先生を支援 外部人材大幅増員へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文科省は、『教員の勤務状況を改善するため、学校活動を担う外部人材を大幅に増員する方針を決めた。「チーム学校」と名付け、福祉の専門家のスクールソーシャルワーカーや外部の部活動指導者、事務職員を増員し、教員の負担を軽減。授業に専念できる環境を整備』するのだそうです。
 狙いは悪くありません。教員は教えることの専門家、授業のプロと言ってきた私の主張にも沿うものです。ただ、その実施には、学校の実態に即した十分な配慮が必要だと思います。
 記事では、SSWやSC、部活外部指導員などを『専門家の非常勤職員』として考えているとされています。おそらくそれではうまくいきません。子供が相談したいときに学校にはおらず、手助けがほしいときに兼務で他校で勤務しているのでは、実際の役に立たないケースが相当数に上ることが予想されます。さらに、SSWやSCがいない間に対応した教員は、結局そのことに要した時間以外に引き継ぎの時間が必要になり、多忙は解消されません。
 しかし、常勤化は難しいでしょう。人材がいないこともありますし、常勤としても常に授業という「仕事」がある教員と違い、SSWやSCには、第三者が見ると「遊んでいる」としか見えない時間が生じてしまうからです。公務員バッシングが激しい昨今、こうした状況や許されず、学校教育全体が激しい批判を浴びることは、火を見るより明らかです。
 また、記事では、『事務作業は、正規の事務職員を増員。さらに複数の学校で作業を共同化』という改善案も紹介されていましたが、これも学校の実態、少なくとも小中学校の実態にはそぐわないのです。小中学校の教員が行う事務のほとんどは、直接教育に関する事務なのです。例えば、学級の子供や保護者を対象にアンケートを取り、それを集計分析するというとき、事務職員にゆだねるのは難しいでしょう。教委からの調査等への対応も、事務職員が単独で行うことはできないものがほとんどです。いじめや不登校、学習状況の調査の場合、その状況や対応は、いちいち教員に聞いて回らなければ、事務職員では把握できません。通知文書の作成にしても、事務職員が機械的に書式に当てはめれば済むというものではありません。家庭訪問や個人面談の日程調整も同様です。
 もちろん、直接教育にかかわらない事務もありますが、それは管理職が担っているので、一般の教員の負担軽減にはつながりません。それでも、校長や副校長が事務負担を軽減され、その分を教員の指導に振り向けることができれば、それは結果として授業の質の向上に資することになるので、意味がありますが、そうした部分はごくわずかです。
 小学校を例にとれば、校長がいて、副校長がいて、養護教員がいて、専科の教員がいて、担任の教員がいる。主事室には用務主事がいて、給食調理室には調理主事がいるというような学校の形は、万国共通のものではありませんし、我が国においても、せいぜい戦後数十年の歴史しかないものです。今回の支援策は、こうした学校の形、人々が学校に対してもっているイメージを根本から変えるくらいの意気込みで取り組んでほしいと思います。そうでなければ、木に竹を継いだような歪で不安定なものになり、新たな弊害や批判を生じる結果になってしまうと思います。

 

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給料泥棒

2014-07-21 07:02:34 | Weblog

「給料泥棒」7月17日
 前国際エネルギー機関事務局長の田中伸男氏が、『石を投げろ』という表題でコラムを書かれていました。『石を投げろ』というのは、『政財官学、老若男女の内外専門家が参加したある勉強会でモデレーターの著名エコノミスト氏が、黙っている若い参加者に投げつけた言葉』なのだそうです。
 『若いからと臆さず、どんな場でもはっきりと自分の意見を言うべき』という意味の言葉だということです。確かに、会合に参加しても、熱心にメモを取るだけで一言も発言しようとしない参加者というのは、我が国の会議では珍しくない存在です。
 実は、私も20代のころ、同じ意味のことを言われたことがあります。大学生時代から参加していた社会科の勉強会で、会の主宰者であるM先生から、「勉強会に出るときは手ぶらで来るな。必ず1枚はレジュメを持って来ること」と約束させられましたし、「他の勉強会や研修会に参加するときには、必ず挙手して発言してくること」と厳命されました。
 M先生は人間通でした。易きに流れるという人間の性を理解していました。特に、私という怠け者の性格をよく理解していたからこその言葉だったようにも思います。
 勉強会や研修会という場は、そのことに関心のある人たちの集まりです。自分の隣に座っている人が、どれくらいの知識や経験をもっている人なのかはわかりません。もしかしたら、自分が知らないだけで、その会合には、有名な教育実践家が数多く集まっているかもしれません。そんな中で素人のようなことを言えば、失笑を浴び、恥をかく結果になるかもしれません。誰でも臆病になってしまうものです。そして、発言はしない代わりに必死でメモを取ることで、研修会に参加した責任を果たしたというように自分を納得させようとしてしまうのです。
 メモを取るだけなら、録音しておけばより正確な記録が取れます。それでは、その場に居る意味がないのです。未熟であっても発言しようとすることで、自分自身を追い込み頭をフル回転させることができるのです。また、会を活性化させることは、参加者の義務でもあります。いくらメモを取っても議論は深まりません。たとえ時間の関係で発言できなくても、挙手し発言を求めるのは、その義務を果たすことでもあるのです。
 月日は流れ、私は指導主事となり、様々な研修会で教員を指導する立場になりました。そのとき、M先生と同じことを口にしていました。「みなさんは、勤務としてこの研修会に参加しています。つまり、税金から給与が支払われているのです。人によって給与は異なりますが、往復の時間を含めれば、約4時間、最低でも5000円、平均して1万円の給与が支払われています。それなのに黙って座っていて時間をやり過ごそうとするのは給与泥棒、税金泥棒だといわれても仕方がありません。今、この会場を、皆さんの学級の保護者が、市民が見ていたとして、うちの先生何も言わないわ、あれで給料もらえるなんて教員っていい商売ね、と言われないようにしてください」というような皮肉を言う、嫌味な指導主事になっていたのです。
 私の言い方については問題があるかもしれません。しかし、教員は、その経験や年齢に関係なく、勉強会や研修会では意見を述べ、質問し、主体的に参加することが義務なのだという考え方は正しいと思っています。

 

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ローカル人材

2014-07-20 07:46:51 | Weblog

「矛盾していないか」7月15日
 高橋龍介記者による『若者会議』という表題のコラムが掲載されました。その中で高橋氏は、『信州若者1000人会議』という取り組みを紹介しています。『県から若者がいなくなってしまうと危機感を抱くようになった』、これは参加者の言葉です。そして、『世界で活躍するのも悪くはない。しかし県に戻ってくれる人、応援する人もほしい。協力してほしい』は、県知事の言葉だそうです。
  私には、長野県に親戚がおり、そこには2人の若者が過疎化が進む故郷で、働いています。だから他人事とは思えませんでした。東京など一部の地域を除けば、こうした思い、懸念は全国共通のものだと思われます。将来には、人口減から消滅してしまう地域もあるという予想が示されている現在、それぞれの地域で根をおろし働く若者こそ、我が国にとって宝となるはずです。
 では、20年後、30年後の日本をつくることに貢献するはずの我が国の学校教育はどうなっているでしょうか。国際人の養成を掲げ、英語や理科教育に重点を置く一方、社会を支える地道な仕事の価値を知らせることは軽視されているように思えます。キャリア教育の充実が叫ばれていますが、そこでも、夢や自己実現が過剰に美化されているように思えてなりません。
 メディアも同じです。このブログでも取り上げてきましたが、「公務員になりたい、などつまらないことを考える人間にはなってほしくない」とか、「他人にはできない仕事をする人しか高収入は得られない」といった「識者」のコメントを繰り返し垂れ流しています。それでは、我が国の田舎はなくなってしまっても仕方がないと言っているようなものです。
 ちなみに、長野県の阿部知事は、この1000人会議で、『皆さんに県の職員になってほしいくらいです』と声をかけているのです。公務員志望をつまらないといった作家のH氏はこの言葉をどのように聞くのか、尋ねてみたいものです。
 地域を活性化し、人口の一極集中を排し、バランスの取れた社会を実現維持させていくことが重要だと考えるのであれば、学校教育もそうした方向性で微調整していくべきです。学校教育改革にそうした視点が不足しているように感じられてなりません。

 

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同じことの繰り返し

2014-07-19 07:19:00 | Weblog

「同じことの繰り返し」7月12日
 『幼児に小1学習内容 文科省方針 生活科を想定』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『文部科学省は次期学習指導要領の改定で、現行の小学1年生の学習内容の一部を幼稚園や保育所での教育・保育内容に移行させる検討を始める。幼稚園・保育所から小学校へ接続を円滑に進めることや質の高い幼児教育が将来に好影響を及ぼすという研究成果もあることから、幼児教育義務化を見据えた「学制改革」の一環』とのことです。
 小中一貫校制導入と同じような議論が行われていることに落胆しました。この方針から、学校制度改革は2つの考え方が基盤となるということが明らかになったように思います。
 まず、「国語のひらがなの読み書きのほか、算数の足し算、引き算も検討対象」というように、小学校の学習内容を幼児に対しても行うことが、「質の高い幼児教育」であるという考え方です。前倒しの発想です。小中一貫校制度においても、中学1年の内容を小6で、ということが利点として挙げられていました。全く同じです。
 もう一つは、「壁」の解消は、時期をずらせばよいという考え方です。学級担任制から教科担任制という「中1の壁」問題は、小学校段階段階での教科担任制導入で解消するという発想と、『「集団生活」や長時間座った授業になじめない「小1プロブレム」』を幼児段階で小学校の授業をという発想はまるで双子のようです。
 もちろん、それぞれの段階における教育内容を固定し、絶対に動かしてはいけないというつもりはありません。時代の推移や子供の実態の変化に応じ、あるいは将来を見通した教育政策の転換に伴って変えていくことについては異存はありません。ただ、子供の教育には適時性があります。ある年代の子供には、どのような学習形態が望ましいか、どのような学習経験が適切かということについて、それまでの積み重ねも基に、発達心理学や成長心理学などの知見があるのです。そうした教育的見地から、検討と決定がなされることが必要だと思います。今回の方針には、そうした痕跡が感じられないのです。
 ある幼稚園では、チャイムもない中である子供は走り回り、ある子供は床に座り楽器を鳴らし、別の子供は庭でカメを見つめている、一方で別の幼稚園では、幼児が静かに椅子に座り、ノートに字を書いたり、計算ドリルに取り組んだり、本を読んだりしているとき、前者が遅れていて公社が進んでいるというような価値観で幼児教育を語ってはいけないのです。

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なぜ固執する?

2014-07-18 07:25:42 | Weblog

「なんで固執する」7月12日
 『熱中症と部活動 気付いてからでは遅い』という見出しの社説が掲載されました。その中に、『体育の授業などで子どもたちが体の不調を訴え、病院に救急搬送されるケースが先月から相次いでいる。運動部活動でスポーツをする機会が増える夏休みを前に改めて注意を促したい』という記述がありました。
 この記述は何気なく読みすごしてしまいそうですが、そうではなく、大きな問題が含まれています。「体育の授業などで~」と書かれていますが、体育の授業で熱中症による事故が起きることは非常に少ないのです。それは、東京都で言えば、6月中旬からプールでの水泳の授業が始まり、炎天下の高熱の中で体を動かすような機会がほとんどなくなるからです。
 各校は、前年度末に次年度の教育課程を作成します。そして教育課程に基づいて、各教科・道徳・特別活動・総合的な学習の時間についての年間計画を作成します。さらに、校長は自校の年間計画に基づいて一人一人の教員が毎週作成する週案を点検し、授業の許可を与えるのです。ですから、熱中症が懸念される時期に校庭でサッカーやラグビーを指導するというような計画がなされるはずはありませんし、校長が許可することもあり得ません。
 しかし、部活動は別なのです。だからこそ、『計74件の死亡事故があり、競技別では野球をはじめラグビー、サッカー、陸上のほか、屋内でも柔道や剣道など厚手の衣服や防具を着用する競技で多く発生している』という現実があるのです。
 つまり、体育の授業での熱中症の危険性と運動部活動における危険性には大きな違いが、それも本質的かつ構造的な違いがあるのです。それを同一視するような記述は、議論を間違った方向に導きかねません。
 熱中症対策において最重要かつ喫緊の問題は、運動部活動なのです。部活において、勝利至上主義から脱しきれない現状を考えると、7月8月は野球部もサッカー部も活動しないということは難しいでしょう。何らかの形で自主規制をしたところで、有望校は冷房施設完備の練習施設を造るなどして、抜け駆けを図るでしょう。
 生徒の命を守るためには、部活を廃止すべきなのです。

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