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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

集団走

2014-07-07 06:08:41 | Weblog

「世代論」7月3日
 『羽生氏復位第72期名人戦座談会』という特集記事が掲載されました。その中で羽生氏は、羽生世代の強さの理由を訊かれ、『同世代でトップクラスがたくさんいるのは、気持ちの面でも非常に心強い。将棋の世界はマラソンを走っているような感覚があります。一人で速く走るのはきついけれど、グループの中で走り続ける方が速く走れます』と答えています。
 将棋界に詳しくない方のために補足すると、将棋界ではこれまで強さのピークは20代から30代前半と言われてきました。しかし、その常識がひっくりかえったのです。羽生氏と同じ世代の43~45歳の、森内竜王、佐藤永世棋聖、郷田前棋王、藤井元竜王、丸山元名人らが今もトップクラスを形成しているのです。
 さて、ここで注目したいのは、羽生氏の「グループの中で走り続ける」という言葉です。私は自分の教員生活を振り返ったとき、教員にも当てはまると思いました。私は、教員としてそのほとんどの期間を社会科の研究に費やしてきました。初めて教員になった品川区では、社会科研究部に所属しました。名簿上は60人以上の部員がいることになっていましたが、毎回出席するのは20人ほどでした。その中に、私と同時採用された新任の教員が4人いました。この4人組は研究はもちろん、研究会後の飲み会でも一緒でしたし、その後に4人だけで2次会に行って話し込むこともたびたびでした。私の所属校はお世辞にも研究熱心な学校ではなく、授業案づくりや教材研究はここで切磋琢磨しました。
 また、このブログで再三触れてきた「社会科勉強会」でも、私と同じ年の教員が、4人いました。もちろん、他にもいたのですが毎回出席するのはこの4人だったのです。いい意味でのライバル意識もあり、例会では、お互いの「社会科観」をぶつけ合いました。
 こうした「集団走」は、それぞれが管理職になり、授業から離れ、実践をぶつけ合うことができなくなって自然消滅してしまいましたが、怠け者で人見知りな私が、十数年も「学び合いの場」をもつことができ、教員としての骨格を作ることができたのは、「集団走」の仲間がいたからだと思います。
 今の若い教員の皆さんは、ともに走る仲間がいるのでしょうか。実は、先ほどあげた羽生世代の中でも中核をなす、羽生・森内・佐藤の3人にはある共通点があります。それはまだ一人前のプロ棋士でなかった十代の頃、彼らの才能を見抜き、共同研究の場通称「島研」を作り彼らの才能を伸ばした島朗初代竜王との接点です。島氏の存在がなければ、羽生世代の集団走が実現したかは危ういものがあります。先輩世代の教員は、あるいは管理職は、教委は、若い教員が集団で走ることができる環境を作ることを自らの使命としてほしいと思います。

 

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そこにいるだけで

2014-07-06 08:14:10 | Weblog

「結城秀康」7月3日
 『いじめかばい同級生から暴行』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『3年生の女子児童が、いじめられていた同級生の女児をかばって男女3人の児童から跳び蹴りされるなどし、首や腰に1週間のけがをした』ということです。気になるのは、この事件に対する「解釈」です。
 記事では、『担任の男性教諭がその場で制止したが、男性教諭は新任で、いじめをからかいや遊びと見ていたという。市教委の宮崎正道・学校教育課長は「経験の浅い担任を支える態勢が十分でなかった」としている』と書かれています。他のメディアの情報を合わせてより詳しい状況を再現してみると、この教員が教室に入ったときに、女児を押さえつけ跳び蹴りをするという暴行は既に始まっており、そのまま続いていたということです。ここに最大の問題点が隠れています。
 3年生の子どもであれば、複数で一人を押さえつけ蹴るという行為が「いけないこと」であることは理解しています。その理解の程度が「先生に怒られる」というような表面的で利己的なレベルであったとしても、必ず理解しているものです。ですから、教員がいないところで暴行が行われることはあっても、教員の姿が目に入った途端、暴行をやめるのが「普通」なのです。それなのに、この学級では、教員が教室に入ってきても暴行は続いているのです。つまり、暴行を続けた子供たちの意識は、「友達に暴行したぐらいでは先生は僕たちを怒ることはできない」というものだったのでしょう。あるいは、「先生が起こったって大したことはない」と思っていたのかもしれません。つまり、この教員は、なめられていたのです。
 そして、教員自身もなめられていることを自覚していたからこそ、いじめではなくからかいや遊びであると話したのです。いじめだと認めてしまえば、指導しなければならない、でも指導しても無視されてしまう可能性が高い、そうなれば教員としての自分を否定しなければならなくなる、だからこれは遊びでいじめだとは気付かなかったことにしよう、という自己欺瞞をしていたのです。
 私が新任教員の指導を担当していたとき、5年生を担任していたT教員から「クラスが煩くて授業が進まない」という相談を受けたことがありました。そのとき私は、教育とは関係のない結城秀康の話をしました。T教員が歴史小説のファンだと聞いていたからです。弟である2代将軍秀忠に比べ、豪気な戦国武将の風格をもち続けた秀康、彼が諸大名が集まっての相撲大会でとった行動についてのエピソードです。
 好勝負が続き興奮した大名たちが立ち上がり、大声を出して収拾がつかなくなったとき、秀康が黙って立ち上がるとそれを見た大名たちが一人また一人と座り、場内はしーんとした静寂に包まれたのです。その場にいた大名は、秀康の威勢に圧倒されてしまったのです。
 私は、教員にも同じような「存在感」が必要だと話しました。ざわついていた教室が、教員が扉を開けた途端、静かになる、席を立っていた子供は慌てて席につき、後ろを向いておしゃべりしていた子供は前を向き直す、席に着くのが少し遅れた子供は顔を伏せ頭を掻いてしまったという顔をする、という程度の存在感がなければ、何を話しても注意をしても「蛙の面に小便」です。こんな状態で教員が必死になって注意しても、「先生何慌ててんの」と見下され、子供は教員をからかうことに楽しみを見出してしまうのです。これが、学級崩壊なのです。
 学校教育課長の話のように、「支える態勢」の問題ではないのです。ここまで教員がなめられ、存在感をなくしてしまっていては、支えることはとてつもなく困難です。新任教員を迎えた学校の管理職は、4月5月のスタートダッシュの時期にこそ「存在感」をキーワードに、あらゆる手立てを尽くさなければならないのです。若い教員だからといって、友達でもお兄さんでもないのですから。

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昔のことでも許せない

2014-07-05 07:21:40 | Weblog

「同じでしょ」7月2日
 田村佳子記者の『嫁に行け!』という表題のコラムが掲載されました。田村氏はその中で予備校時代の恩師の講義について触れ、『この先生の日本史は受験後も通いたいほど強烈に楽しかった。毒舌の先生の決めゼリフの一つが「嫁に行け!」だった。簡単な質問に学生がとんちんかんな回答をすると「嫁に行け!」教室は爆笑の渦』というエピソードを紹介しています。
 四半世紀前のことだそうです。だからでしょうか、田村氏は、『教室を笑いに包んでくれた先生の一喝と、東京都議のヤジは、似ていてまったく違う』と書かれています。どこが違うのでしょうか。
 時代によって、人々の意識や価値観は異なります。昔を今の感覚で裁くのは間違いだと思います。それは、江戸時代は吉原などの遊郭を公認していたから日本は女性差別の国だというようなもので、当時の諸外国における売春制度との比較を通して出なければ、それは誤った断定となってしまうのです。でも、遊郭という女性を金銭で売買し売春を強要するという存在や制度自体は、否定するというのが現在に生きる人間の人権感覚というものです。
 ですから、田村氏の鈴木都議と恩師の発言は違うという括り方に疑問を感じてしまうのです。私の高校時代の恩師も個性的な方が揃っていました。指名されて間違った解答をしようものなら、「何たる無知」「無知蒙昧の輩」などという決めゼリフが浴びせられたものです。40年以上前のことですが、正直懐かしい思いがします。でも、私はこの恩師のことはこのブログでも再三取り上げ、「今の時代ならば問題教員」であるという指摘をしてきました。懐かしさや恩義という感情とは別に、行為そのものについては、きちんと否定しておきたいと思ったからです。特に、教委勤務中に人権教育を担当し、また、様々な形で処分を受けたり、研修を命じられたりしてきた教員への指導や処分に関わってきた者としては、それも義務だと考えてきたからです。
 教員と教え子という関係は、外部からは見えない特殊な面があります。暴言もスキンシップも、愛情表現として肯定的にとらえられる場合もあれば、人権侵害、体罰やわいせつ行為として大問題に発展してしまうこともあります。
 そんなとき、「運が悪かった」と言う教員がいます。「今までは問題にならなかった」という言い方をする教員もいます。しかし、それは間違いなのです。教員はどこから見ても問題点を指摘されるような言動、特に人権感覚を疑われるような言動は慎むべきなのです。もちろん、時代による影響を完全に排除することはできませんが、常にその時点で最高レベルの人権意識をもっていなければならないのです。
 教え子が社会に出て活躍する10年後、15年後の社会でも通用するような先進的な人権意識の持主でなければ、結果として教え子に差別と偏見を植え付けたことになってしまうのです。あなたは大丈夫ですか。

 

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選ぶな!ではなく

2014-07-04 07:14:23 | Weblog

「それは間違い」6月30日
 『戦場に教え子送りたくない』という見出しの記事が掲載されました。『集団的自衛権の行使を認める閣議決定を前に、生徒の進路指導にあたる高校教諭らが苦悩している』という書き出しで始まる記事は、日教組中央執行委員の瀧本司氏の『生徒自身がその危険性を認識し、再び戦場に行く選択をしないように掘り下げた平和教育を進めなければならない』という言葉で締め括られていました。
 私は、今回の閣議決定には反対です。戦後最悪の選択だとも考えています。しかし、瀧本氏の発言には納得できません。自衛隊員という公に認められた職、それはやくざのような反社会的な存在でもなければ、詐欺師やすりのような犯罪者の仕事でもありません。その職に対して、選択しないように勧めるような指導が許されてはいけない、というのが公務員である教員の立場であると思うからです。
 自衛隊には行くな、という指導は自衛隊員という職を賤業扱いするものです。現職の自衛隊員及び市永代OBの方々、その家族に対する誹謗中傷でもあります。職業に貴賎なし、に反する考え方です。平和教育という言葉を使っていますが、特定の職を賤業視することが、平和教育の名の下に許されてはならないのです。こんな発言は、安倍首相と同じ立場の人たちに、「偏向教育」という批判を許す口実を与えるだけの効果しかありません。
 今までも、そして仮に今回の閣議決定がなかったとして今後も、自衛隊員は、個別的自衛権の下、我が国を守るために自らの命を危険にさらす可能性が高い職であることに変わりはありません。だからこそ、私はその職にある人、その職に就こうとする人の使命感の高さ、崇高な精神に敬意を表しています。警察官や消防士といった職も同じです。ですから、自衛隊員という職について貶めるような発想での指導はやめてほしいのです。危険だから選択するな、では自己中心的な功利主義者を育ててしまうことになります。反自衛隊では、自衛隊員の子供の入学を拒否したかつての愚行を繰り返すことになります。
 そうではなく、今回の閣議決定のインチキさ、胡散臭さをきちんと体系的に指導することこそ重要です。憲法と統治の問題、法治国家に基本原則、第9条のもたらしていた我が国の国際的イメージ、その功罪、NPO等で海外で活動してきた人の体験談、太平洋戦争に至った政治の動き等々、総合的な学習を構想することこそ、教員の務めだと思います。
  それでも自衛隊員への道を選択するのであれば、それは教育の範囲を超えていると考えるしかありません。

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「授業に自信のない教員が多い」のは

2014-07-03 07:36:59 | Weblog

「厳しいようですが」6月26日
 『世界の中学OECD調査 日本の教員勤務時間最長』という見出しの記事が掲載されました。私がこのブログで再三指摘してきた「サービス残業」の多さを裏付ける記事で、そのことについてまたここで論じるつもりはありません。私が気になったのは、記事のもう一つの見出しにもなった『指導力 自己評価は平均以下』ということについてです。
 記事によると、『「生徒に勉強ができると自信を持たせる」も同様に、日本は(「非常によくできている」「かなりできている」)合わせても17.6%と参加国平均の85.8%を大きく下回った。「勉強にあまり関心を示さない生徒に動機付けをする」も同1.9%で、参加国平均を50ポイント近く下回り、教員の基本的能力に対する自己評価が著しく低かった』のだそうです。そしてその理由として、『指導力を向上させるための研修には参加意欲が高いものの、多忙で参加できていない』という文部科学省の担当者の見解を紹介しています。
 正直なところ、見当違いな分析だと思います。多忙は事実です。その解消のための手だてが必要だという指摘もその通りです。しかし、中学校教員の研修意欲が高いというのは事実に反します。私が教委に勤務していたとき、研修会への参加者を募るとき、小学校はすぐ定員を超えてしまうのに対し、中学校では校長に声をかけてやっと集めることができるというのが実態でした。中学校教員の研修意欲は元々低いのです。
 その背景としては、教科担任制下における「お山の大将」にあります。学校の小規模化が進み、校内で同一教科の教員が自分だけ、もしくは2人だけというような状況が珍しくありません。理科の教員が2人いても、1人は物理、もう一人は化学を大学で専攻し、お互いの専門には立ち入らないというケースも少なくありません。そうなると、自分の授業を批判する人もなく、比べる対象もなく、「お山の大将」になり、自己満足に陥ってしまうのです。
 また、拙著「教員改革」でも述べたことですが、中学校教員の多くが、「その教科(歴史や数学、物理など)が好き(得意)だった」ことを教員志望の理由に掲げており、指導力=親学問の知見というとらえ方をする者が多いのです。彼らは、歴史や物理の研究には熱心ですが、授業法の研究には大変不熱心です。そもそも、生徒の実態に合わせて導入を工夫し、授業中に評価場面を設け、評価結果を受けて指導計画を修正するというような発想自体大変乏しいのです。
 私が小中合同の研修会を担当したとき、小学校の教員が作成してきた学習指導案は、A4用紙で8~10枚程度のものがほとんどでしたが、中学校の教員は2~3枚でした。内容も、中学校教員は、指導内容の羅列が中心で、子供の実態、学習活動、評価の視点と基準及び方法、指導上の留意点、予想される反応などについての記述はないのが通例でした。
 つまり、日頃から「意欲を高める」といえば、「テストに出るぞ」と点数を餌にしたり、「こんな事が分からないようじゃどこの高校も行けないぞ」と脅すくらいのことしかしておらず、自信をもたせるどころか叱責と脅しで自信を失わせる指導をしているのですから、改めて訊かれれば自己評価が低いのは当然です。中学校教員の授業観事態を変えない限り、今回の調査結果が劇的に変わることはありません。
 なお、公平を期すために中学校教員の授業観は、高校教員よりもはましであること、親学問についての知見は、小学校教員とは比べものにならないほど深いことも指摘しておきたいと思います。

 

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『新時代』なのに

2014-07-02 07:36:39 | Weblog

「新時代なのに」6月26日
 29日に投票が行われる東京都杉並区の区長選について、有力4候補の政策が紹介されていました。私は、同じ東京都の住人として、来年度から実施される教育委員会改革、即ち首長が教育行政の権限を掌握するようになったときに首長がどのような行動をとるのかを占う意味で、候補者の教育政策について注目していました。杉並区は山田元区長(現衆院議員)が教育改革にも影響力を行使し、ある意味都内の自治体の中でも先駆的な存在であった上に、連れ合いが学校管理職を務めていたこともあり、そんなことからも注目だったのです。
 ところが、4人の候補者の中で、教育政策らしきものを訴えているのは、新人で元区議の堀部康氏が、『公立中学校を隣接校から選択できる学校選択制を復活させる。経済的に私立に行けないと、学校を選べないというのではフェアではない』と述べているだけなのです。こんなものなのでしょうか。
 来年度はすぐそこに迫っています。新首長は、その前に自分の考える学校教育の在り方を明示しなければなりません。それなのに、そのことについての言及がないのです。新しい仕組み、それも安倍政権が鳴り物入りで導入し、自民党に限らず、公明党も、維新の会も、みんなの党も首長への権限集中を支持してきた中でなされた、戦後の教委制度を変える一大変革なのに、です。新しい制度に変わったばかりということは、大胆な策を打ち出し注目を集めやすいということです。これに、政治家が飛びつかないということは、よほど関心が薄いとしか思えません。
 首長の学校教育への関心が低く、政策は丸投げで、いじめなどが問題になったときだけ、正義の味方の役割を引き受け、教委を糾弾してヒーローを気取るということになってしまうのではないかと危惧します。
 そういえば、隣の国では、大統領が不手際は首相以下の部下のせいにして自分は国民の味方というふりをしていましたが、結局最後は謝罪に追い込まれました。同じような意識の首長が多いのではないでしょうね。

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4回目ですが

2014-07-01 07:48:48 | Weblog

「4回目ですが」6月23日
 子ども相談室欄に、『共学、女子校どちらに進ませるべきか』という相談が掲載され、育児・教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が回答していました。その回答の中に、『米バージニア大学は「男女別学は性別による固定観念を打ち崩しやすいが、共学はそれを強化する」という研究成果を発表しています。共学では、世の中の既存の男女の役割意識が、教室の中にも入り込んでしまうからだと考えられます』という記述がありました。
 私もこのブログで、過去3回男女別学について触れてきました。2009年の「男女差別か、それとも」、2010年の「繰り返されてきた主張」、2013年の「無用な関心」の3回です。2009年には、脳科学の最新研究結果から男女の違いについての学校教育における考え方、2010年には、我が国の公教育でタブー視されてきた別学について、2013年では、男女の学力差の視点から、それぞれ論じたものです。関心のある方は目を通してみてください。
 正直なところ、進路相談という形で、男女別学についての知見が語られることに驚いています。我が国では、教育基本法が男女共学を基本としていることから、男女別学の公立学校導入について、正面から語られることはありませんでした。公の立場にある者がそんな発言をすれば、男女差別、などと批判を浴びせられことが予想されるからです。
 ですから、様々な教育改革策が叫ばれても、義務教育において男女別学を打ち出す自治体や教委はなかったのです。一部の研究者やメディアの方々が、ときおり観測気球を打ち上げる程度で、議論の深まりはなかったのです。
 進学相談でも、思春期に異性に余計な関心が向かず学業に集中しやすい、別学の私立校には独特の伝統があり、それを評価するのならば別学もあり得るというようなニュアンスで語られることが多く、おおた氏の回答のように、性別役割意識の視点から、はっきりと男女別学のメリットを指摘する行為は、珍しかったのです。
 私は、男女別学支持者ではありませんが、タブー視せず、論じるべきだと思います。私の考えは、2013年に述べた「男女別という視点で分析を行うのであれば、多くの批判を乗り越え、公立小中学校での男子校や女子校の設立、男女別の学級編制、男女によって異なる学習指導要領の編成などまで踏み込んで、議論する覚悟が必要です」であることを、再度主張しておきたいと思います。。

 

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新発見と授業

2014-06-30 07:28:34 | Weblog

「新史料で歴史授業は変わるか」6月24日
 『本能寺の変に新史料 光秀謀反「長曾我部守るため」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『光秀の謀反で織田信長が自害した「本能寺の変」に動機ついて、土佐の武将だった長曾我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかった』ということです。大変興味深い記事です。長曾我部元親を主人公にした小説「夏草の賦」を思い出してしまいます。
 それはさておき、この新史料発見で歴史の授業は変わるでしょうか。少なくとも小学校6年生の社会科で行われる授業は全く変わりません。もちろん、まだ新史料に基づいて新見解が確定したわけではないということもありますが、理由はそれだけではありません。
 小学校社会科6年生の学習指導要領解説書では、本能寺の変は主たる学習内容ではないからです。織豊時代については、信長と秀吉による天下統一事業について、鉄砲の採用・楽市楽座などの先進性、検地や刀狩などの支配政策、南蛮文化の影響などを文化遺産や人物を中心に学ぶのであり、そこには長曾我部元親も島津義弘も宇喜多直家も毛利元就も斎藤道三も詳しく語られることはありません。明智光秀や柴田勝家、丹羽長秀といった織田家の武将も刺身のつま的な扱いにすぎません。
 大阪城や安土城はイメージ作りに使われますが、岐阜城や清須城、長浜城はどんな城であったか触れられることもありません。
 そんなことで戦国から天下統一の歴史がわかるのかという意見もあるかもしれませんが、そもそもそんなことは学習の狙いではありません。混乱していた時代が、信長と秀吉という2人の先進的なやり方で統一されていった時代で、ヨーロッパからからキリスト教の宣教師が新たな文化をもたらしたということを「イメージ」できればよいのです。
 小学校の社会科で学ぶ「歴史」は、あくまでも我が国の歴史について興味関心を高め、我が国の歴史について学んでいきたいという意欲をもたせることが主たる狙いであり、通史でもなければ、その時代の歴史事象を網羅するものでもないのです。ですから、本能寺の変の新解釈は、授業を変えないのです。
 もちろん、熱心な教員は、授業の合間に様々なエピソードを交え、それを授業を活性化する手段の一つとして使います。しかし、そこまでです。社会科の指導に熱心な教員が陥りやすい罠がそこにあります。歴史上の新しい発見や研究成果をすぐに授業に取り入れることが専門的な指導、熱心な教員と誤解し、教科書や資料集を排除して自作資料で授業を進めようとするのです。それは学習指導要領を逸脱した指導となってしまうのです。
 学習指導要領の趣旨に則って授業をする義務を背負っている教員は、新発見に飛びついてはいけないのです。現役時代の自分への反省を込めて。

 

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『結婚しろ」を講義の素材に

2014-06-29 07:36:59 | Weblog

「授業がしたい」6月23日
 『ヤジは鈴木章自民都議』という見出しの記事が掲載されました。セクハラヤジ事件として、世界にまで我が国の恥をさらした事件についての記事です。記事では、『今回の「セクハラやじ」騒動。私は一切関係ございません』と自身のホームページにコメントを掲載した都議の例を紹介し、疑いをかけられた都議らが、真犯人に対して早く名乗り出るように促す動きが広まっていたことが述べられています。
 この騒動については、都民の代表たる都議がこのレベルかと嘆かわしい思いですが、それはここで述べようとしていることではありません。述べておきたいのは、社会科の教員として、教委勤務時代は人権教育を担当してきた者として、今回の騒動は、授業化もしくは研修会講義化してみたい「魅力的な素材」だということです。
 まず、人権教育の面からすると、「セクハラ」やじという表現に着目したいと思います。研修会に参加した教員には、「鈴木議員の発したやじはセクハラか」という問いを発してみたいと思います。例えば、電車の中で女性の臀部を触るのは痴漢であって、セクハラではありません。一方で、職場の上司が会社で部下の臀部を触るのはセクハラと認定される可能性が限りなく高い行為です。この違いは何でしょうか。こんな風に議論を進めていくことになるでしょう。
 こうした議論から。セクハラとはある集団内で人間関係などから抵抗しにくい状況下で相手に対し性的な不快感を与える行為であるということを把握させていきます。そして、今回の「早く結婚しろよ」という発言に戻り、父親が夕食時に娘に対し「早く結婚しろよ」と話した場合はセクハラか、と問いかけます。わが娘に早く結婚し家庭をもって幸せになってほしいという父親の思いから出た言葉も、セクハラかということです。父親の結婚=女の幸せという考え方に問題はありそうですが、議論は分かれるはずです。
 この父親を叔父に、会社の親しい上司に変えたら結論はどう変わるでしょうか。さらに、職場で大きな声で言われた場合と、アフターファイブの居酒屋で言われた場合、さらにその居酒屋に嫌々連れていかれた場合と自分から連れて行ってくれとせがんだ場合の違いは、と話は広がります。
 さらに、この上司が同性である女性だった場合はどうなのか、という展開もあります。そして、立場を入れ替えて、女性上司が男性の部下に言ったとしたらどうなのでしょうかという問いかけも成り立ちます。
 また、全く別の視点で、「早く結婚しろよ」と言われた女性社員が、実は昨日婚約をすませたばかりで、笑顔一杯で「ありがとうございます。実は私~」と結婚報告をする場面を想定したらどうでしょうか。多くの教員は、本人が嫌がっていないのだからセクハラではないという意見に傾くでしょう。しかし、セクハラとは1対1の関係だけで考えるべきものではありません。このやり取りを聞いていたもう一人の女性社員が、「職場で結婚の話なんてしないでよ」と不快に思っているかもしれないのです。どう考えたらよいでしょうか。実はこうした視点は、体罰が第三者の子供に与える負の影響を考える際に無重要な考え方になります。
 長くなってしまい、社会科の授業での扱いには触れられなくなってしまいましたが、もう一度「セクハラとは何か」という講義をしてみたくなった今回の騒動でした。なお、蛇足ですが、今回の騒動について、「セクハラ」という用語を使用するのは間違いだと思います。

 

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肝心なのは

2014-06-28 07:45:17 | Weblog

「肝心なのは」6月23日
 『高校教員「英語で授業」15%』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「英語の授業を英語で」の方針は、2013年度から導入された高校の学習指導要領に明記されたが、導入前から「英語だけでの授業は難しい」と不安視する声があった~(中略)~「発話をおおむね英語で行っている」と答えたのは15%だった。「半分以上を英語で」は38%。「半分未満を英語」は47%と半数近くを占めて最多だった』ということです。なお、中学では、同じ設問に対してそれぞれ、6%、35%、59%だそうです。
 不思議な記事です。何を伝えたかったのでしょうか。英語教育の目的は生徒の英語力の向上にあります。それが目的であって、教員が英語で授業をするというのは手段です。手段について実情を知らせるだけでは、手段の適否は判断できません。
 英語で授業をしている教員が担当している生徒の英語力が、英語をあまり使わずに授業をしている教員が担当している生徒の英語力よりも向上度が高いか否かという検証をしてこそ、意味があるのです。
 なお、このとき、単純に両者の英語力を比較してはなりません。教員が英語を使って授業できると判断する学級の生徒は元々英語力が高いことが予想されるからです。比較するのはあくまでも上昇「率」でなければなりません。
 そういえば、19日の朝刊にも、『先生の英語力県で大きな差』という見出しの記事が掲載され、英検準1級クラスの教員の割合が、高校では香川県がトップというような内容が掲載されていました。これも、教員に対する調査と同時に生徒の英語力を対比させなければ、意味がないばかりでなく、英語力が高い教員をそろえれば自然に生徒の英語力も高くなるという間違った認識を広める結果になってしまいます。
 私が指導力不足教員の研修を担当していたとき、英語の同時通訳も勤まるレベルと言われていた教員がいましたが、彼は授業が成り立たない教員でした。本人も自分は授業ができないことを認めていました。そもそも授業に先立って授業計画を作ることさえできなかったのです。教えるということ、授業をするということの意味すら分からなかったといってもよいでしょう。
 彼の例は極端かもしれませんが、教員の英語力は、あくまでも授業力の一要素に過ぎないことを踏まえた調査が必要です。

 

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