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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いつの間にか別の物に

2014-08-05 07:24:11 | Weblog

「いつのまにか」8月1日
 論説委員の福本容子氏が『JETパワー』という表題でコラムを書かれていました。JETとは、日本政府の「語学指導等を行う外国青年招致事業」というプログラムのことだそうです。コラムの中で福本氏は、『JET参加者の約半分がアメリカ人で、カナダ人、イギリス人、オーストラリア人、ニュージーランド人を加えると全体の9割。中国人と韓国人は、どっちもアイルランド人より少ない』という現状を紹介し、『もうちょっとお隣の言葉があっていい~(中略)~仲良しじゃない国にこそ、誤解たっぷりの日本報道に「ホントは違うよ」と反論してくれる仲間がほしい』と結んでいらっしゃいます。
 同感です。私は国家目的があり、教育がそれに奉仕するという形は好きではありません。しかし、そうした側面を完全に排除することが難しいということも理解できます。我が国では近年、産業界の意向を受けた官邸が主導する形で学校教育改革が進められています。小学校への英語教育導入、理科教育の充実、大学における教養教育の縮小など、いずれも企業にとっての即戦力、国力増強に資する人材育成という思惑が透けて見えます。
 しかし、本当に国家にプラスになるということでいえば、福本氏の主張のように、韓国や中国といった「腐れ縁」関係にある国々との関係構築に貢献する人材育成という視点が必要であると思います。もう少し視野を広げれば、アジア全域ということになるかもしれません。戦略的に英語教育を充実させるのであれば、同様に中国語や韓国語などを学校教育に取り入れるという発想があってしかるべきだと思うのです。
 実は、「総合的な学習の時間」が導入されたときには、そうした萌芽がみられたのです。例示された「国際理解」分野の学習として、地域の実情に応じた異文化理解、国際交流という考え方が示されていたのです。ブラジルからの労働者の多い北関東では、ブラジルの人との交流や文化の理解、インド人やパキスタン人の居住者が多い某区では、インドの「九九」やヒンズー文化に触れるんどの事例が見られたものでした。中国や韓国の場合は、もっ多くの地域での取り組みが可能でした。
 しかし、英語教育重視の掛け声とともに、「総合的な学習の時間」の国際理解は、英語教育に置き換えられてしまったのです。国際化=英語という狭い視野、短期的見通しでしか考えることができない人々の声の前に、本来の目的が歪められ、国力増強への道も細められてしまったのです。
 今、学校に、中国語と韓国語を、と言ったら、袋だたきに遭うでしょうか。

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学校に金はかけません

2014-08-04 07:31:54 | Weblog

「学校に金はかけません」7月29日
 1級建築士の福永博氏が、『夢広がるシニアタウン』という表題でコラムを書かれていました。シニアタウンとは、『介護サービスなどもしっかりとした郊外のシニア専用の住宅街』のことで、このコラムは、福永氏が設計し福岡県朝倉市に造られた我が国で初となるシニアタウンについて書かれたものです。
 『リタイアした人たちが遊べる場所がある』『安全面にも配慮し、敷地内では歩道と車道を緑地帯で分離』など、シニアタウンの素晴らしさを紹介した後、福永氏は、『全国には数多くの過疎の町がある。それらの地域に「シニアタウン」に手を挙げてもらい~』と将来構想を述べていらっしゃいます。
 私も、初老といわれる年齢になり、老後の生活には関心があります。ただ、「シニアタウン」構想には大きな問題点があると思います。それは学校教育の衰退という問題です。「シニアタウン」が広がった自治体を想像してみます。住民のかなりの割合が、都市部から快適な老後を送るために来た、経済的にある程度余裕のある高齢者ということになります。彼らの関心は快適な老後生活であり、地域への愛着や他の住民への配慮はあまり期待できません。
 そんな彼らは、その自治体内の有力な「圧力団体」になり得ます。彼らは、福祉政策、高齢者対策の充実を求めるでしょう。当然のことです。一方で、小中学校の教育への関心は乏しいはずです。自分の孫が通うわけでもなく、長年生活してきた地域で感じるような、「地域の子供」というような感情ももてないはずですから。
 そして、比較的経済的に恵まれた状態にある彼らは、自治体のとっては無視できない「お客様」です。首長は彼らの意思を無視できなくなるはずです。そこに、現在進行中の地方教育行政の首長への権限集中という制度改革を重ね合わせると、「シニアタウン」が広がる自治体では、「シニアタウン」住民への心理的迎合現象が起き、小中学校への予算配分は必要最低限度に削られてしまう、という構図がみえてきます。
  荒唐無稽な想像ではありません。現に「シニアタウン」先進国である米国では、教育予算の増額が否決されるという事態が起こっているのです。教育は未来への投資です。目先に利便性にとらわれ、長期的に大きな損失を被るということがないよう、学校教育の充実と両立する「シニアタウン」構想を練り直す必要があると思います。

 

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「分かりやすく」の落とし穴

2014-08-03 07:40:46 | Weblog

「分かりやすくの落とし穴」7月28日
 三木陽介記者が、『STAP細胞再現実験』という標題でコラムを書かれていました。その中で三木氏は、『STAP細胞を「ネッシー」に置き換えてみる』として、次のようなたとえ話を紹介しています。
 『ある国の研究員が「ネッシー」を発見し、体の一部を持ち帰ってと論文に発表した。世界中の話題をさらい、研究員は一躍時代の寵児に。しかし、間もなくして、論文の大半の画像に操作の後が見つかった。それでも、涙を流し「単純ミス。ネッシーはいる」と主張し続ける研究員~(中略)~この研究員を信用し、ネッシー捜索の続行を支持しますか』と、税金を投入しての再現実験に疑問を投げかけています。
 巧みな「たとえ話」です。専門的で分かりづらくもやもやしていた気持ちが晴れるようです。しかし、私は三木氏の主張に同意はできません。STAP細胞を「ネッシー」に置き換えた話は、分かりやすく論理展開にも欠陥はありません。しかし、そもそもSTAP細胞を「ネッシー」にたとえること自体が不適切だと思うからです。
 格別特殊な自然条件下にあるわけでもないネス湖にだけ恐竜が生息し続けていること、狭い環境の中で1000万世代も世代交代が継続してきたことなど、中学生でも判断できる荒唐無稽な「ネッシー」、現在ではほとんどすべての生物学者などの専門家が存在の否定で一致している「ネッシー」、「ネッシー」型恐竜に限らずその近辺に位置すると思われる生物群の存在が確認されていない「ネッシー」と、類似の機能を持つES細胞やiPS細胞の存在が確かめられているSTAP細胞とを同一視することは、適切ではないと考えるのは私だけではないと思います。
 「たとえ話」は、分かりやすい情報伝達の有効な技法です。授業の巧みな教員は、「たとえ話」が巧みな教員でもあります。「たとえ話」を適切に使えば、眠そうな顔をした子供の顔を「分かった!」という輝く目に変えることができます。しかし一方で、「たとえ話」をするということは、その事象のある要素を捨象するということでもあります。そのために、安易に「たとえ話」を乱用した説明は、事象を単純化し、物事の本質をゆがめて伝えることにもなるのです。ヒットラーに代表される煽動者は、みな巧みな「たとえ話」の使い手だったのですから。
 教員は、丁寧に分かりやすく説明する労を惜しみ「たとえ話」に依存してはなりません。

 

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最良の教材

2014-08-02 07:13:39 | Weblog

「最良の教材」7月28日
 『第一次大戦100年 歴史の教訓に学びたい』という表題の社説が掲載されました。その中で、『日本では遠い欧州の戦争という印象があるが~(中略)~後の中国大陸侵略への一歩を踏み出した戦争だった』と我が国にとっても関わりがあることを指摘しています。そして、『「爆発(開戦)」まで目覚めない「夢遊病者(各国指導者)たち」にならないよう、歴史を振り返り、教訓に学びたい』と結んでいます。
 大賛成です。我が国の学校における近現代史の学習では、第二次大戦に比べて、第一次大戦について学ぶことは軽視されています。量的にもわずかです。しかし私は、第一次大戦こそ、深く学ぶべきだと考えています。ただし、歴史教育としてではなく、「平和教育」としてです。
 私はこのブログで、従来の、戦争の悲惨さを強調し情緒的に戦争反対を植え付ける「平和教育」を批判してきました。本当の平和教育は、戦争に至る経過を客観的に検証し、その分析から戦争に至る道筋を知り、その道を阻止するための方策を理解するという「社会科学」でなければならないと考えているからです。
 とはいえ、人は感情を捨てきることはできません。第二次大戦は我が国が枢軸国側の中心国として、特にアジア太平洋地域の戦闘の中核を担いました。多くの被害者を出し、多くの国や地域の人に多大な迷惑を及ぼしました。そして、その影響は現在にも及び、中韓を中心とする近隣諸国との間で今も様々な軋轢を生じさせています。こうした現状では、客観的に、冷静にといっても限界があります。
 しかし、第一次大戦については、我が国の国民は、保守進歩という立場にかかわらず比較的「冷静に」見つめることが可能です。社説がわざわざ注意喚起するように「遠い欧州の戦争」という意識なのです。そこを逆手にとり、『各国が自国の安全保障のために結んでいた同盟関係が、逆に連鎖的な戦争拡大を招く結果となった』『指導者の誰も戦争を望んでいなかったのに行き違いを重ね、意図せぬ道へ踏み出していた』という第一次大戦を社会科学としての「平和教育」の優れた教材として活用すべきなのです。

 

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大学でさえ「量」なんて

2014-08-01 07:51:05 | Weblog

「大学にまで」7月27日
 仏文学者の鹿島茂氏が、『ブラック化の果てにコンビニ大学誕生』という表題でコラムを書かれていました。その中で鹿島氏は、大学の専門教育重視(一般教養の軽視)や、大学院増設などを批判しています。大学教育については素人なのでこうしたことについては触れませんが、次の一文が気にかかりました。『休講した場合には補講を義務づけ、授業時間も年間最低三十コマとした。文科省が依拠しているのは労働価値説だから授業時間を増やせばその分、大学生のレベルも上がるということになる』というものです。
 講義のコマ数がどのくらいが適正なのかはわかりませんが、「文科省が依拠しているのは労働価値説」という見方に対しては、我が意を得たりという思いがしました。これは、私流の言い方で言えば、習得主義ではなく履修主義ということになります。履修主義批判は、今までにも、このブログで再三述べてきました。
 小中高と、我が国では、何時間授業を受けたかということだけが問題にされます。既定の授業時間が確保されているかということについて教委は厳重なチェックを行いますし、子供の進級や卒業についても、全体の何割出席したか、が問題にされます。小中学校では、授業中教室にいて椅子に座ってさえいれば、中3で二ケタの引き算ができなくても、問題なく卒業していくのです。指導力不足教員が、低レベルの授業を繰り返していても、コマ数が足りていればよいのです。
 そこには、授業の質という発想はありません。あるのは「量」の概念だけです。そうした意味で、鹿島氏が言う「教員の労働=授業時間を増やせば学生のレベルが上がる」という指摘と共通性があると考えたのです。
 私は、義務教育においては画一性が大切だと考えています。一方で、大学教育には多様性が求められているはずだと考えています。そして、画一性と多様性を比較したとき、履修主義(=教員の労働価値説)と親和性があるのは、画一性の方なのです。それにもかかわらず、大学においてさえ履修主義(=教員の労働価値説)が適用されるのであれば、我が国の学校教育において、特に義務教育段階において履修主義を脱却することは不可能に近いと考えざるを得ません。
 教育改革においては、当然のことながら「量」の概念からのアプローチだけでなく、「質」の面からのアプローチが不可欠です。そのためには、強固な「労働価値説」を一度捨てて考えてみることが必要だと思います。

 

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不便でいい

2014-07-31 07:43:24 | Weblog

「見直しの姿勢」7月27日
 『「自動車偏重」を見直そう』という表題の記事が掲載されました。東京都の自転車政策についての記事です。記事は、桝添都知事が『自転車走行路について、歩道上で対面通行になる形態も許容していく』方向性を打ち出したことを批判するものです。
 その中で、自転車評論家疋田智氏の『車にとって都内は便利すぎる。知事が就任記者会見で表明した「交通体系の見直し」を達成するには、車が不便になる必要があります』という発言を紹介しています。
 すごい発言です。桝添知事が、自転車走行路を設けることで車が不便になるということで、折衷案を出したことを全否定しているのです。一見すると非現実的とも思えますが、長い年月をかけて、つぎはぎつぎはぎで奇怪な姿になってしまったものを変えようとするとき、AもBもではなく、ことの本質に立ち返り、大胆にAかBを選択するという考え方が、本当は必要なのではないかという提言には魅力を感じてしまいます。
  我が国の道路政策の変遷についてはよく知りませんが、人のための道が、高度成長期に車のための道という性格をもちはじめ、今また行き過ぎたモータリゼーションへの反省という動きが出てきているということは分かります。学校教育を巡る政策も、時代の要請や社会の変化を受け、そのときどきで様々な機能を付加され、今では「学校とは何か」という原点さえ、忘れ去られたようになっています。だからこそ、AもBもではなく、AかBかという考え方が有効だと思うのです。
 私が教員として、または教委の幹部として過ごした期間だけを見ても、学校には学力だけでなく、事故への法的対応の強化、経営感覚の浸透、地域の核としての機能、説明責任の拡大、子供の基本的な社会性育成への関与、子供の社会的経済的生活への関与、過大な教育課題への対応、教員の服務の厳正、第三者による評価の導入など、多くの改革が進められてきました。さらに、家庭と地域の教育力の低下や人間関係の希薄化を受け、基本的な躾まで学校が背負わされるようになってきました。
 その一方で、授業の改善に関する取り組みは等閑にされてきました。それは、教委の職務として教員の授業力の育成に関わる事項は増えず、教員研修の内容も、教科の指導力向上に関わるものが削られてきたことからも明らかです。
 教育に関する識者の中には、学力向上は塾や教育産業に任せ、学校や教員は部活や生活面での指導、悩み相談を職務とすべきという極論まで口にする者もいます。AもBもどころではなく、何もかも学校に、になっているのです。
 私は、「学校は便利屋になっている、学校改革を進めるには、学校は不便でいい、勉強以外については」というくらいの思い切りが必要だと思います。

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人間の技

2014-07-30 07:25:45 | Weblog

「人間しか」7月27日
 『手作業でクルマ 今も』という表題の特集記事が組まれました。トヨタ自動車が、『5年ほど前から、あえて手作業で行うラインを導入している』ことに関する記事です。ボタン1つ押せば43秒でできる作業をのべ40時間かけて行うというのです。この試みについて、同社の河合満技監は、『技術者のカンが鈍ってしまうのではないかと、心配だった。それで手作業のラインをこしらえたんです』と語っていらっしゃいます。また、『機械は自分で考えない。今よりよくしようと考える人がいなくなったら、日本のものづくりは終わりです。それに、機械に使われて、ボタンを押すだけならつまらないでしょう』『ロボットに移植しているのは、最も高い技術者の技です。生産工程の効率を高めてゆくには、さらに高いレベルの技術者が必要なんです』という言葉も紹介されています。
 今、学校教育においても、企業等が作成した教育ソフトを使って授業の質を確保しようという動きが見られます。教委ぐるみで企業とタイアップしている事例も珍しくなくなりました。最終的には、優れた教育ソフトをネットワークシステムの中で活用すれば、ほとんどの教員は不要になる、又は教員は生活指導や教育相談の役割を担うという未来像を描く識者もいます。
 私はこうした方向性には反対し続けてきましたが、世の中の趨勢には抗しきれないという悲観的な思いも抱いています。しかし、今回のトヨタ自動車の取り組みは、たとえ学校教育の根幹をなす授業が教育ソフトとネットワークシステムに取って代わられることがあったとしても、様々な指導技術と経験を有する教員が、自ら子供と接しやりとりをしながら授業をする場を確保しない限り、新しいシステムもやがて古びて時代遅れのものとなってしまうということを示唆しているのです。特に、小学校においては、です。
 すべての教員は、「手作業のライン」に残れるような技や芸、授業論をもった授業の職人を目指すべきです。一人一人の教員のそうした努力が、結果としてやはり授業は教員にしてほしい、という声を高めることにもなるともいます。私は、巨大スクリーンと机上のタブレットで学ぶ工場のような学校は目にしたくありません。老兵の感傷かもしれませんが。

 

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まねてはいけない

2014-07-29 07:33:10 | Weblog

「通じない」7月25日
 週1回の『人生は夕方から楽しくなる』で、毒蝮三太夫氏が取り上げられていました。毒蝮氏といえば、『くたばり損ないのジジイ』『佃煮みたいなババア』といった独特の語りかけで高齢者から人気のタレントです。その中に、『「考えてみれば、下町ではジジイもババアも日常の言葉。うちのおやじも「ババア、元気か」なんてあいさつするのが普通だった」。それまで「おじいさん」「おばあさん」と呼びかけていたけれど、どこかよそよそしかった。それ以降、自分らしい言葉を意識するようになり、今の名物トークにつながる』という記述がありました。
 考えさせられる話です。まず、言葉と人の関係です。「ジジイ、ババア」という暴言は、毒蝮氏だから許されているということです。別のキャラクターの人物が口にすれば、猛烈な反発が予想されます。
 また、立場ということがあります。もし毒蝮氏が、その人気を活かして国会議員になり、国会議員として「ジジイ、ババア」を口にした場合、やはり多くの非難が寄せられると思われます。
 さらに、第三者の視点という切り口もあります。毒蝮氏とジジイと呼ばれ『怒るどころか「待ってました」とばかりに大笑い』している男性とは別に、それを見ていたり、ラジオで聞いていたりした人の中には不快に感じる人もいるということです。
 そして最後に、スタイルの確立という視点も大事です。毒蝮氏の場合も、最初は苦情が殺到したそうです。しかし、繰り返すうちに支持者が増え、そうなれば少数派の不快に感じる人たちは黙ってしまうということです。
 教員も、他人に言葉をかけることで成り立つ職です。「毒蝮節」から学ぶことは少なくありません。教育公務員という公的な立場で子供や保護者に声をかけるとき、「毒蝮節」は禁物です。例えば、子供をあだ名で呼ぶ、というような行為がそれに当たります。どんなに目の前の子供や保護者と強い信頼関係で結ばれ、彼らがくだけた感覚の持ち主だとしても、「毒蝮節」を耳にした他の保護者や子供から、苦情が寄せられたとき、弁解のしようがないからです。
 実際には、子供を愛称で呼んだり、ちゃん付けで呼んだりしている教員がいます。そして、問題にもなっていない教員がいます。しかし、若い教員の皆さんは、それを真似してはなりません。いい悪いとは別にその教員ならではの個性が確立されているから成り立っている特例なのですから。
 そして何よりも重要なのは、「毒蝮節」も最初は苦情が殺到したという事実です。公務員である教員への苦情は、一人の教員への批判にはとどまりません。学校の、そしてその地域のすべての教員の、さらには全国の学校や教員の体質の問題として、議会やメディアで追及され、学校現場に大きな混乱をもたらす可能性があるのです。
 結論は、教員には「毒蝮節」はタブーであり、堅苦しいと言われようが、丁寧な言葉遣いが求められているということです。

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早く気付いて

2014-07-28 07:16:25 | Weblog

「早く気付いて」7月24日
 『指導の向上へ 国際組織』という見出しの記事が掲載されました。記事は、『ICCE(国際コーチング・エクセレンス評議会)が夏季五輪国際競技連盟連合などの国際スポーツ団体と協力してまとめた「スポーツ・コーチングに関する国際枠組み」』に関するものです。
 記事によると、『この枠組みが目新しいのは、これまで各国が独自で取り組むのが当然とされたコーチングの分野で「国際基準」を設けた点にある』のだそうです。この取り組みについて、日本体育協会のスポーツ指導者育成部長である岡達生氏は、『知識や技能に偏りがちだった指導者の資質を幅広く整理している』と評価しています。
 記事の副見出しも『知識、技能偏重見直し』であり、競技者としての実績と指導者として求められる資質を切り離して考える姿勢がうかがえます。大変よい試みだと思います。私は、こうした発想がスポーツコーチと同様に、人を指導する職である教員についても広がり定着していってほしいと思います。
 抜群のピアノの演奏技術をもつ人が、良い音楽教員になれるわけではありません。難解な数学の論理に通暁している人が良い数学の授業が出来るわけではありません。日本文学について博識な人が子供の興味関心を引き出す国語の授業が出来るかと言えばそうではないのです。今まで、このブログで繰り返し述べてきたことです。繰り返し述べてきたということは、教員の資質として知識と技能を偏重する見方が相変わらず主流であるということでもあります。
 スポーツのコーチが競技のプロではなく指導のプロであるように、教員は学問や研究のプロではなく授業のプロなのです(授業法の研究ではプロですが)。教員養成や教員採用、教員研修などにおいて、こうした考え方を浸透させていかなければ、授業の充実とそれを通した子供の学力の向上は実現しないのです。すべての人が、早くこのことに気付いてほしいものです。
 教員の資質については、今までにも様々な教育研究機関が研究に取り組み、その成果を発表していますが、今回の1CCEの取り組みから参考となる発想や視点を取り入れ、さらに説得力のある提言を期待したいものです。

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味方になってくれますか

2014-07-27 08:14:16 | Weblog

「味方になってくれる?」7月22日
 特集ワイドで、『とりあえず政治の話をしてみよう』という見出しの特集が掲載されました。集団的自衛権を巡り、政治無関心派が多い現状への危機感から組まれた特集です。私は、集団的自衛権行使可能という解釈改憲にはには大反対の立場で、記事を書かれた小国綾子記者と同じ思いを抱いている者ですが、その中で、学校における政治についての学習について書かれた内容には納得できませんでした。
 特集ワイドは、専修大教授の岡田憲治氏の、『都立の学校では教育委員会通知により教師は職員会議で挙手も採決もできない。教師が自由にモノを言えない空間で、子供が政治に関心を持てますか?』という発言を紹介しています。また、『岡田さんには忘れられない授業がある。1972年2月、小学3年の時だ。「浅間山荘事件の日、担任教師は「今日は下校までテレビをずっと見ます」とだけ言った。価値観を一切押し付けず、黙って映像を見せ続けた」』という体験を好意的に報じています。さらに、東洋大助教の林大介氏の『日本では教育の中立性を理由に模擬選挙を嫌う管理職や教育委員会がまだ多い』という「批判」も紹介されています。
  岡田氏の都立高における挙手と採決を巡る発言の誤りは、以前にもこのブログで指摘しているので繰り返しません。意思決定機関ではない職員会議において、採決をしないことが発言を封じていることを意味するのでないことは自明の理です。
 また、浅間山荘事件に関わる岡田氏の発言からすると、「何も言わずに1日中テレビを見せる」授業に問題はないということになります。岡田氏は、「自分の価値観を押し付けず」と言っていますが、ある特定の番組を見せられるということ自体が、教員の価値観に影響されることなのです。例えば、靖国の英霊を讃え、特攻隊員を美化した番組を見せ続けた教員がいたとしたら、岡田氏がその取り組みを賞賛したとは思えません。生中継と編集された番組は違うという方がいるかもしれませんが、生中継といっても、テレビ朝日とフジテレビでは、違う切り口や解説の放送になるのです。公立学校において、多くの教員が、それぞれの価値観に基づいて好ましいと考える放送を何時間も見せ続けることを、国民の多くが支持するとは思えません。
 さらに、林氏は、「中立性を理由に~」と述べられていますが、だからどうしろというのでしょうか。教委も学校も、別に自己保身のために模擬選挙を取り入れた授業を避けているわけではありません。それが「民意」だからなのです。「偏向教育だ」という声が住民団体から上がり、議会で追及され、左右どちらかかのメディアから叩かれるという状況を避けるための対応なのです。これは保身ではありません。こうした騒動が学校教育全般に及ぼす悪影響を考えてのことなのです。保護者が賛成派と反対派に分かれていがみ合い、メディアの記者が校門前で待ち構えている、副校長は全国各地からの苦情電話と激励電話の対応で時間を費やし、校長は連日教委と善後策を話し合い、教育長は首長に呼びつけられる、そんな状況下で正常な授業は行えないのです。
 私は社会科の研究に教員人生にほとんどを費やしてきました。特に「政治単元」と言われる我が国の政治を扱う6年生を数多く担任してきました。子供に討論させる授業も数多く行ってきました。それでも、自分の行為が自校全体を、その地域の各学校を混乱させることへの恐れは払拭できませんでした。
 林氏も岡田氏も、ある学校のある教員が集団的自衛権について質疑を行う国会中継を1日中見せ続けたとき、その学校の合う地域に出向き、批判する住民やメディア、政治家に対し、教員擁護の論陣を張ってくれるのでしょうか。教委や学校、教員にだけ蛮勇を求められても困ってしまいます。社会が変わらなければ、学校も変われないのです。まして、今後、政治家である首長が教育行政の権限を握るようになれば、益々首長の意向に逆らうことは難しくなります。

 

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