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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

竹富町教科書問題を語る前に

2014-05-28 07:35:04 | Weblog

「竹富町問題の陰に」5月22日
 『教科書問題 竹富に「満額回答」』という見出しの記事が掲載されました。沖縄県教委が、竹富町単独での教科書採択を認めたことを報じる記事です。このことについては再三触れてきているのですが、今回はある単語が気になりました。それは、『調査研究』という言葉です。
 『沖縄県教委も「町単独の調査研究は可能」と判断』、『将来は学校ごとに教科書採択の研究調査をすることも考えたい』(竹富町教育長)、『町単独で教科書の調査研究をするのは困難と指摘』(前文科政務官)、など記事の中に何回も「調査研究」という言葉が登場します。
 発言者は、県教委や町教委、前文科政務官など、一般的な印象として教科書採択の「調査研究」についてよく知っていると思われそうな肩書きの方ばかりです。しかし、私はこうした方々がどのようなイメージで「調査研究」を捉えているかが不安なのです。
 私自身は、校内の一教員として、地域における社会科の専門家として、指導主事として、指導室長として教科書採択の調査研究に関わってきました。そうした経験からすれば、学校単位での調査研究は不可能です。私がよく知る小学校の場合でも、約300冊の教科書を研究調査しなければならないのです。少子化が進んだ今ではほとんどない18学級規模の学校であっても、教員は25人程度です。単純計算でも、一人当たり12冊以上の教科書を調査研究しなければなりません。実際には、1人の教員の意見で決定するわけにはいかないのですから、1冊の教科書について3人で担当するとすれば、36冊以上になるわけです。そして、実質的調査研究の時間はせいぜい1か月しかありません。授業をし、それ以外の校務も通常通りに行いながら、説明責任を果たすことが出来るレベルにまで調査研究を深めるということが可能であるとは到底思えません。しかも、実際には12学級以下の学校がほとんどなのですから。
 では、町単独は可能かと言えば、これも困難な作業なのです。町での決定ということになれば、5人の教育委員が300冊ずつ調査研究しなければならないことになります。実際には、教委で構成される各教科ごとの調査委員が下調べをするわけですが、それでも300冊分の資料に目を通しその内容を理解しなければなりません。しかも、そのために使える時間は、教員が下調べをした後なのですから、実質2週間もありません。さらに、教育委員は授業の素人なのですから、資料の読み込みにも時間がかかります。採択単位が大きければ、教員の数も多くなり、下調べに費やす時間が少なくて済みますので、教育委員が資料に目を通す時間はそれだけ多く確保することが出来ます。もちろん、教員が作成した資料を読むだけでなく、教育委員自身が教科書そのものに目を通すことが必要なのは言うまでもありません。小さな町では、相当な苦労が予想されます。
 私が指導室長の職にあったとき、教科書採択がありました。そのときの教育委員長さんが言った言葉、「もっと簡単なことかと思っていた。これじゃ徹夜しても終わらないよ」が印象に残っています。きちんとやればそうなるのです。そうした実態を知らずに、あるいは中学校の歴史と公民など、注目される教科だけ力を入れあとは事務局の言いなりに、と考えているのではないかと疑いたくなってしまいます。
 社会科の専門家などと言っている私自身、社会科の教科書だけでも、1週間では調査研究を終える自信はありません。教科書採択における調査研究とは、本当に責任を果たそうと思えば、現行制度下では難しく、半年ぐらいかけて行わなければ難しいものだということを理解して発言してほしいものです。

 

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伝える専門家

2014-05-27 06:53:06 | Weblog

「伝える専門家」5月21日
 『14春 ヒバクシャ5 今こそ語り続けねば』という見出しの記事が掲載されました。長崎で被爆の継承に取り組み、年間300回以上も修学旅行生などを相手に講話を行ってきた下平作江氏を取り上げた記事です。その中に『講話を聞いた子どもから「どうしてコンビニに行かなかったの」と問われた。「バラック」の意味が通じず、できるだけ言葉を補いながら説明するが、それでもきょとんとしている子どもがいるという。被爆の実相や自分の気持ちがうまく伝わっているのだろうか。下平さんは悩んでいる』という記述がありました。
 下平氏は、貴重な価値ある体験とそれの基づく知識をおもちです。でも、だからといってその貴重な価値ある講話の内容だけでは、子供に影響を与えることは難しいと言っているのです。つまり、子供に何かを伝えようとする場合、その何かの内容だけではなく、どのように伝えるかということが大きな意味をもつということなのです。
 しかも、下平氏は、年間300回以上も講話を繰り返している、講話のプロなのです。それでもなお、悩んでいらっしゃるのです。学校の教員は、年間に300回も同じ授業をすることはありません。中高の教員や小学校専科教員の場合、年間3~9回程度、小学校の学級担任教員であれば、1回だけです。300回繰り返し、これまでに10000回以上も講話を行ってきた下平氏でさえ、伝え方に悩んでいるのですから、教員はその何倍も悩まなければならないはずです。
 しかし、教員の中には自分の話した内容が目の前の子供に伝わっているか、伝わっているとしてもどのように、どの程度伝わっているのか、そこに誤解はないか、ということを気にしない者がいます。自分は正確に話しているのだから、理解できないとすれば理解しない子供が悪いといわんばかりの自分勝手な教員さえいるのが現状です。
 子供のもっている知識、生活体験、興味関心のあり方、理解力などを把握し、与えられた時間の中でどのように伝えるか、というのは教員にとっても重要なことです。私は、教委に勤務し指導力不足教員の研修を担当していたとき、授業の前には、この場面でどのように発問するか、このことについてどのように説明するか、音声原稿を作るように指導してきました。彼らの多くが、音声原稿を作って授業に臨んだ経験がありませんでした。当初、彼らは「そんなこと簡単。何でわざわざ書き出す必要があるのか」という態度でしたが、実際に書かせてみると、子供が理解できない用語を使ってしまったり、子供が知らないことについて知っているという前提で説明していたり、小学校の低学年の子供に5分以上も説明が続いてしまったりと、満足のいくものは作れませんでした。
 授業のプロは、伝えることのプロでもあります。毎日の授業の前に、どう伝えよう、伝わらなかったどうしようと悩むことは、教員の授業力向上に不可欠なのです。

 

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お洒落な副校長

2014-05-26 07:34:00 | Weblog

「魅力ある先達」5月20日
 『「役員メーク」いかが』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『アベノミクスを背景に企業の女性役員登用の動きが広がる中、化粧品国内最大手の資生堂が今月下旬から、企業の<顔>としてふさわしいファッション「役員メーク」のノウハウや技術を紹介する取り組みを始める』のだそうです。
 20年前のことを思い出しました。女性教員のNが副校長に昇任することになり、赴任予定の小学校に引継ぎに行ったときのことです。Nは身なりに構わないタイプで、白髪交じりの髪を無造作に縛り、口紅以外はスッピンに近い顔で、化繊のペラペラのブラウスによれよれのスカートという姿でした。それでもNにすれば、普段のジャージ姿ではまずいという配慮の結果でした。引継ぎの打ち合わせを終えた校長は、「管理職になるのですから、それに相応しい服装や身だしなみをしてください」と遠慮がち伝えました。Nは頷いたものの怪訝な顔をしていました。
 Nがよく理解していないと判断した校長は、「きちんとしたスーツを着てくること、派手ではなくきちんと化粧をしてくること、髪は黒か濃い茶色に染めること」を指示し、化粧品もスーツももっていないのであれば今日の帰りに購入することと言い渡したのです。小学校の女性教員は、丸の内で働くOLさんに比べておしゃれではありません。様々な原因があるのでしょうが、とにかく事実としてあまり「美」に気を遣わない方が多いのです。ですから、中年の女性教員の場合、Nのような人は珍しくないのです。
 小学校教員の世界は、企業に比べ女性管理職が多いということは周知のとおりです。しかし、企業等と異なるのは、企業等では女性管理職が増加傾向にあるのに対し、小学校では顕著な増加傾向がみられないことです。女性教員が過半数を占めているのに、女性管理職を目指す女性教員はごく一部です。管理職登用に男女差別はなく、むしろ教委は積極的に女性登用を進めているにもかかわらず、微増に留まっているのです。
 様々な理由があるとは思いますが、中堅や若手の女性教員から見て、女性管理職が魅力的に見えないということも理由の一つだと思います。もちろん、校長や副校長。指導主事といった職自体を魅力あるものにすること、その魅力を伝えることが重要なのですが、同じ職場にいても、管理職の職務内容というのはなかなか理解しにくいものなのです。そこで、安易な発想と言われそうですが、女性管理職の外見を魅力的に見せるということも必要なのではないかと考えます。
 毎年、「理想の上司」が発表されますが、上位にランクされるのは、天海祐希さんのようないわゆる「カッコイイ」女性です。教委も、「校長メーク」のノウハウを学ぶ講習会を開催してみてはどうでしょうか。現状では、批判の方が多いかもしれませんが、そんな柔らか頭も必要になってきているのかもしれません。

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針小棒大で誤誘導

2014-05-25 07:54:03 | Weblog

「転換点」5月19日
 作家半藤一利氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中に『今の日本は太平洋戦争へと突き進んだ最初の転機である31~33年の3年間に重なる、と指摘する。情報の国家統制、臣民教育を目指した国定教科書の改訂、5・15事件などのテロ。「今はまだ幸いなことに新聞各社が自由な論調を維持できているが、間もなくかもしれません。その証拠にNHKはすでに危うい。歴史教科書の問題も、仮想敵国が強調されるのも~」』という記述がありました。
 いわゆる左翼、進歩派が言うのではなく、あの半藤氏の言葉だけに気になります。転換点ということで言えば、教育への政治家の介入を容認する教委制度改革も、忘れてはなりません。個人的には、教科書問題よりもこちらの方が、後の時代に「あのときの改革が~」と言われるような気がしています。
 教委改革法案は、衆院を通過し今国会での成立が確実視されています。しかし、施行される来年の4月までには、まだ10ヵ月あります。改めてその危険性を、半藤氏のように歴史的視野で考えておくことは大切だと考えます。
 「転換点」になるかもしれない大改革が行われる契機は、3年前の滋賀県大津市の中学校におけるいじめ自殺問題への同教委の対応のまずさでした。この件についてはこのブログでも触れ、批判してきましたので繰り返しませんが、重要なのはあくまでも一地方自治体における教委の無能さが明らかになったことに過ぎない「事件」が、我が国全体の学校教育行政の問題にすり替えられてしまったということです。
 ある警察署での不祥事で警察機構が抜本改革されたり、自衛隊のある部隊での事件で自衛隊の存在自体が問題になったり、検察庁の隠蔽体質への疑問が警察庁解体につながったりするようなものです。いずれも近年実際に、組織内のいじめ自殺や証拠のねつ造などの事件を起こした組織ですが、それが制度全体の問題へと発展することはありませんでした。それなのになぜ教委制度だけが大改革されなければならなかったのか、きちんとした検証が必要です。
 私が上記の3つの組織を例に挙げたのは、単に不祥事があったというだけでなく、いずれも政治家と距離を置くことが期待される組織であるということがあります。警察や検察は政治家を対象に捜査を行う組織であり、真実や正義が政治家の力で捻じ曲げられることがあったはなりませんし、自衛隊という「軍隊」と政治家の癒着の悲劇は先の大戦の歴史が証明しています。私は、学校教育も同様に政治家と距離を置くべきだと考えています。半藤氏の指摘通り、外部からの圧力に屈した学校教育が我が国を戦争の道へと誘う役割を果たしたという歴史的事実があるからです。
 針小棒大、小さな事件を意図的に大事件とし、国民世論を誤誘導したと後世に判断されることがなければよいのですが。

 

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情けない

2014-05-24 07:26:40 | Weblog

「情けない」5月19日
 『大手塾が担う新人教員研修』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『足立区教育委員会が4月から、子供の学力向上を目指して小中学校の新人教員研修に大手進学塾「早稲田アカデミー」のeラーニング教材を導入した』ということです。記事で紹介された研修内容は、『やる気を引き出す授業を目指して、声量や目線、立ち位置、話し方など教科と関わりなく必要な基本動作』を学ぶ、でした。『同塾の基準のよる実技検定』も行われるそうです。
 情けない、の一語です。受講対象者が600人ということですから、教委の事業として研修を行うのであれば、eラーニングの活用は適切な判断です。ただ、こうした基本的なことは、本来であればそれぞれの学校において、OJTという形で指導がなされるべきであると考えます。再三同じことの繰り返しで恐縮ですが、私は「教師の仕事は職人芸。いくら本を読んでも授業はうまくならない。手本となる人を決めて技を盗む、何回も試行錯誤を繰り返す、そして体で覚えていくのが教師という仕事なのだ」(拙著「教師誕生」帯書きより)と考えています。
 映像の中の講師からは、技を盗むことが出来ません。eラーニングの解説書を読んでもコツはつかめません。それらは体で覚えることとは異なるのです。それは、落語家が師匠に教わらずに、テープを聞いて修業するようなものです。それでは落語を覚えることはできても、聞き手の心に届く話はできないでしょう。また。伝統工芸の職人先人の作業VTRを見て技能習得を図るようなものでもあります。それでは、精密機械も及ばない微妙な感覚を体得するのは無理です。
 そもそも学校に限らず組織というものは、後輩を育成する機能をもたなければなりません。その中で、教える側の技術も磨かれ、新しい試みが生まれ、伝統の上に創造性が加味されていくのです。授業についても、そうした長年の積み重ねで、新しい工夫や発想が生まれ、各教科の指導法が確立され更新されてきたのです。
 上記のような伝承は研修会という形ではなく、日常的にOJTという形で行われるのが自然であり最善です。足立区教委の試みは、現状では仕方がないのだと思います。しかし、それは教委や校長が意図的に「教員の指導ができる教員」の育成を怠ってきたことの証明でもあります。教員を育てる学校でなければ子供を育てることはできません。

 

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幸せな職場

2014-05-23 07:44:47 | Weblog

「幸せな職場」5月18日
 日本医大特任教授の海原純子氏が、『まわりの人を信用できますか』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『社会的つながりの減少が孤立や抑うつのリスクになっている』と述べ、『周囲とのつながり、いわゆる社会関係資本は、心身の健康から生活満足感、経済状況にまで影響~(中略)~直接的に緊急時の支援になると共に情緒的な支援にもなる』としています。
 海原氏のコラムは、社会生活全般について触れる中で、特に東日本大震災の被災者に対する調査結果の分析として書かれたものですが、これは学校の職員室という狭い世界においても適用されるべき考え方だと思います。いわゆる「教員の孤立化」問題です。
 先日、都教委で長く教員人事に携わってこられた三田村裕氏と丸節子氏が代表を務める「学校のOJTを考える会」のブログでも、教員が同僚の教員に対して援助や支援を求めることが難しくなっている現状と、現在の状況下では「援助を求めることが出来る力」が教員力を左右するという考え方が紹介されていました。海原氏流の言い方をすれば、社会関係資本の有無がよい教員とダメな教員を分けるということになります。
 実を言うと、私は小学生のときから友達が少なく、いわゆる社会関係資本をほとんど持たない人間でした。人に対する好き嫌いが激しく、自分のまわりに壁を張り巡らしてしまうタイプであるのに加え、変なプライドがあり、弱みを見せることが大嫌いで、人に教えを乞うことが苦手だったからです。全く嫌な奴です。
 しかし、そんな私が教員になってからは、いつの間にか多くの社会関係資本、他の教員とのつながりをもつことができたのでした。今になってその理由を考えてみると、22歳のダメで無力な自分が、経験豊富な40代の先輩たちに囲まれていたという環境にあるような気がするのです。
 とにかく初めて子供たちの前に立つにあたって、何も知らないし、何もできないのです。いやでも訊かざるを得ません。おそらく仏頂面をしていたことでしょう。可愛げゼロだったかもしれません。でも、相手は20歳以上も年上の大人です。それまでにも多くの新卒の若造と接してきたはずです。私のような若者に対する際のコツをつかんでいたのでしょう。丁寧に具体的に教えてもらったものです。私の側から見ても、相手は大学生までは話したこともないくらいの年長者です。教えてもらうことに対する変なプライドやこだわりは感じませんでした。
 これは、学校内だけでなく、区の教育研究会や私的に参加(教育実習の教官に強制的に参加させられていた)していた勉強会においても同じでした。教わる立場であることが自然な環境の中で、生意気だけど熱心な生徒という立場に自分を置くことが出来るようになってきました。
 幸せだったと思います。しかし、現在の若手教員を取り巻く状況は全く違います。私が新卒で赴任した学校には、40代以上の教員が10人もいました。しかし、現在では、そもそも小規模校が増え1校当たりの教員数が減っていることに加え、大量採用された世代が一斉に退職し、ベテラン教員が少なくなってしまっています。その上、教員の多忙化が進み、自分のことで精一杯という先輩が多くなっています。さらに、教員研修において、教員のリーガルマインド育成や組織人としての在り方など授業以外の内容が増えたこともあり、自分なりの授業法を確立させている教員も少なくなっています。つまり、訊かれても自信をもって教えられないという先輩教員が、本当に役に立つ具体的な助言をすることができないため、若手も訊くことに消極的になってしまうという状況がみられるのです。
 そうしたことが複雑に組み合わさった結果、教員が孤立化してしまい易くなっているのです。つながりの復活は、教委や校長にとっても重要な課題となっているのです。

 

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常識のはずだが

2014-05-22 10:29:49 | Weblog

「常識、ではない?」5月17日
 『のど自慢か授業参観か 中部の50代女性教諭 年休取り出演』という見出しの記事が掲載されました。記事には、『今春、自分の子どもの入学式に参加するために職場の入学式を欠席した教諭の行動を巡り、賛否の議論が巻き起こったばかり。仕事と休暇について、今回はどう考える?』とあります。
 私はこの手の問題については極力触れないできました。これまでに、松尾貴史氏のコラムの記述について、仕事と休暇という視点ではなく論じただけです。しかし、今回の記事については、どうしても触れておきたいことがあります。それは、『労働問題に詳しい伊藤誠基弁護士の話』として掲載されたコメントについてです。伊藤氏は、『休暇は認められるべき権利であり、授業に支障がないよう配慮し、正式な手続きを経て上司から許可を得ているのであれば法律上の問題はない』と述べています。当然のことです。ただ、私は全国紙の記事の中で、その問題に関する専門家のコメントとしてこんな当然なことが掲載されていることに違和感を覚えるのです。
 常識的に考えれば、「専門家のコメント」というのは、一般の人々が知らないことについて解説したり、世間の常識とは異なる視点からの見解を伝えたりする役割を担うものだと思います。例えば、殺人事件について、「我が国では、人を殺すことは刑法上の規定によって犯罪とされています」というコメントを掲載することはないでしょう。もし、そんなコメントを掲載すれば、読者はそんなことも知らないと思っているのか、馬鹿にするなという批判が殺到するはずです。
 私は、伊藤氏のコメントは、「人殺しは犯罪」に匹敵する当たり前すぎるコメントだと思います。誤解のない用に述べておきますが、私は伊藤氏を批判しているのではありません。伊藤氏は、新聞社に求められたから解説しただけでしょう。私の感じた違和感は、記事を書いた記者が、休暇は認められるべき権利であり、授業に支障がないよう配慮し、正式な手続きを経て上司から許可を得ているのであれば法律上の問題はない、ということが世間一般の常識として定着していないと判断したのではないか、という点なのです。
 現在、従業員を倒れるまで働かせて使い捨てにする「ブラック企業」が問題になっています。また、休むとクビにされるなどと、非正規雇用の不安定さも問題となっています。そうした中、労働条件が明文化され、職員団体の力が強い公務員の雇用のあり方が、批判されることが目立つようになってきたように感じます。正当は批判ではなく、「俺たちはこんなに苦労しているのに、自分たちだけ守られて」という嫉妬感に基づくものが中心です。しかし、必要なのはあるべき労働環境の中で働く者の足を引っ張り自分たちと同じレベルに落とそうとすることではなく、全ての人にあるべき労働条件を確保するために、公務員の「恵まれた労働条件」を先行指標として活かすことではないでしょうか。
 私は、教委時代に市民から、「教員の給与は何であんなに高いのか」という苦情を毎年受けていました。「俺たちは休みも取れないのに先生は夏休みも給料もらえていいな」という電話も恒例行事のように受けていました。正当な教員批判は必要ですし、歓迎します。しかし、間違った、感情的な教員批判は何も生み出しません。
 なお、「授業かのど自慢か」という問題については、私が教員なら悩むことなく授業を選びますし、校長なら年休を許可しませんし、教委の幹部としてなら校長に対して年休を許可しないよう指導します。しかし、そのことと教員の仕事と年次休暇全般の問題は別でなければなりません。

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大転換は織り込み済み?

2014-05-21 06:56:58 | Weblog

「大転換は織り込み済み?」5月16日
 経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が、『労働需要の大転換に注目せよ!』という表題でコラムを書かれていました。その中で冨山氏は、『人手不足は、まず労働集約型のサービス産業を直撃する。小売り、外食、医療・介護、保育、物流や公共交通である』とし、こうした分野が『既に日本の雇用と国内総生産の7割以上を支えている』と指摘しています。
 素人考えでも、今後も少子高齢化が進むことを考えれば、医療、介護、女性の労働参加の条件としての保育、運転免許を返上した高齢者の命綱である公共交通などは、ますます重要性を増すはずです。小売りや外食も高齢者の「買い物難民」問題解消のためには、ますますきめ細かいサービスが求められるようになるでしょう。外国からの移民を積極的に進めるのでない限り、この分野で働く若者を増やしていかなければ、我が国の社会は成り立たないということです。
 しかし、学校教育は冨山氏の指摘に応えるような方向には進んでいないように思えます。我が国の学校教育は、グローバル化への対応ということで、英語教育の早期化や理科教育の充実、キャリア教育の拡充に力を注いでいます。世界に伍して戦うビジネスマンや科学者、クールジャパンの担い手のなるアーティストを育成し、国際競争力を維持するというイメージです。しかし、そこには冨山氏が指摘するような足元の空洞化という視点が欠けているように思えてなりません。
 このブログでもたびたび取り上げてきましたが、キャリア教育に言及する「識者」と呼ばれる人たちは、公務員やサラリーマンなどを目指す若者を否定的に評価し、「みんなができることをするのではなく自分しかできないという付加価値を高めよう」という発想で情報発信を行っています。地下鉄やバスを時刻表通りに動かし、電気やガスという生活インフラをきちんと運営するという「地道」な営みに携わる人々への敬意を欠く言動が跋扈しています。
 教委も学校もそうした風潮に押され、あるいは悪乗りし、地に足のつかないキャリア教育を推進しています。私は、国力の維持や増強のために学校教育の方向性を定めたり、何かの仕事に就くために学校教育を行うという考え方には反対の立場です。しかし、そうした考え方が古いというのであれば、せめて真に我が国の社会の発展や維持のために正しい方向性で学校教育が行われることを望みます。医療も介護も、保育も公共交通の維持も、我が国の国民性といわれてきた、勤勉さや実直さ、ねばり強さや責任感の強さ、共同体意識が重要な資質として求められる分野です。そうしたものを軽視したキャリア教育を見直すべきではないでしょうか。

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紳士はどこに

2014-05-20 07:32:34 | Weblog

「紳士はどこに」5月14日
 欧州総局の小倉孝保記者による『現代の紳士』という表題のコラムが掲載されました。その中で小倉氏は、『英上流階層でも和食が人気だ。すしをどう食べるべきか。紳士流を規定しても良さそうである。そう水を向けるとウロス氏は言った。「日本の紳士に教わりましょう。知らないことを素直に聞くのも紳士の作法です」』というエピソードを紹介しています。
 耳が痛い話です。私は変なプライドが邪魔をして、聞くに聞けずに知ったかぶりをしてしまう非紳士だからです。もっとも私を紳士と思っている人は一人もいないので、どうでもいい話かもしれません。
 しかし、識者と言われる方々には紳士であってほしいと思います。私は教委に勤務しているとき、多くのメディア関係者や政治家の方と話す機会がありました。こうした方々に多いタイプが、自分の質問だけに答えて余計な話はするな、自分が期待している応えを察して答えよ、という態度を露骨に示すというものでした。
 私の勤務する教委が都内で学力1位となったことを受け、管内の学校視察を希望してきたM党の衆参の国会議員を案内して学校視察をしたことがありました。彼らはボランティアの活用による学力向上というテーマで話を聞きたがりました。その学校ではボランティアの活用をしてはいましたが、その多くは部活における補助であり、学力向上は教員の指導と家庭における教育意識の高さであるということを事前に伝えてあったにもかかわらず、校長室で改めてその旨を説明すると、いらいらしたそぶりを見せ、「今後ボランティアを授業に拡大していく予定はないのか」「器楽クラブのボランティアを音楽の授業でもかつようできるのではないか」など、ボランティアの固執した質問を続け、校長の授業改善に向けた試みの説明には上の空という有様でした。
 また、指導力不足教員の研修についての取材に訪れたテレビ局の職員は、自分たちの先入観で牢獄の独房のような研修風景を想定し、あくまでも指導力向上をねらう研修であり懲罰的なものではないという説明に困惑顔をするのでした。
 彼らに共通しているのは、学校や教委の取り組みや工夫を知り、謙虚に学ぼうという姿勢が欠けていることです。それどころか、一部の過激な論調にのみ耳を傾け、自分たちの考え方こそ先進的で意味のあるものであり、自分たちと異なる方向からのアプローチをしている現場を後進的、保守的、退嬰的と見下す高慢な態度すら見え隠れしているのです。
 教育改革論議を主導する方々には、「すしのマナーは日本の紳士に教わる」という英国紳士のような謙虚さをもって、現場に声に耳を傾けてほしいものです。

 

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何もしないわけには

2014-05-19 07:30:24 | Weblog

「じゃあどうすれば」5月13日
 作家の奥泉光氏が、『働き蟻の法則』という表題でコラムを書かれていました。働き蟻の法則とは、例の「構成員の中で、率先して働くのが2割、ほどほど働くのが6割、働かないのが2割」という組織の法則です。奥泉氏はこの法則を紹介した後、『働かない二割をなんとか働かせようと企画して、業務をマニュアル化したり、いろいろとよけいな工夫をする。その結果、もともと働く二割の負担が大きくなって、過労に苦しんでしまう現象が、いまや方々で見受けられる』と述べていらっしゃいます。
 まったくその通りです。でも、問題はそこから先なのです。奥泉氏は、上述のような対応を『無意味な雑用を増やすだけ』と批判していますが、実際に責任を問われる立場に立つ者としては、何をやっても2割はサボる、と達観しているわけにはいきません。特に、国民の税金で営まれる事業に携わる公務員の場合、働かない部下を放置しておくことは許されません。
 学校でも同じです。校長は、PTAや地域住民からの「○○先生は~」という批判に答えるために、教員の使命感を説き、教育者として組織の一員としての自覚を高めさせようと必死なのです。
 私は中規模以上の学校でしか勤務したことがありませんでした。いずれの学校も、20数名の教員の中で校長が頼りにし安心して仕事を任せることができる教員は、3~4人いればよい方というのが実情でした。私が勤務した学校はいずれも、いわゆる「組合拠点校」でしたので、働かない2割というよりは教育活動よりも職員団体の活動に力を注ぐというタイプの教員が2割という実情でした。残りはマイペース派で、自分の学級に閉じこもり、勤務校や地域の学校教育などというものは関心外という感じだったものです。
 教員は毎年人事異動があり、5~8人程が入れ替わるのが常でした。しかし、「働き蟻の法則」どおり、問題教員が出て行ったと思ってもまた必ず別の意味で問題な教員が現れるのでした。不思議なものです。結局、奥泉氏の指摘通り、人間の浅はかな知恵では、「働き蟻の法則」には太刀打ちできないということなのでしょう。最善の策は、2割には目をつむり、真に重要な2割を大切にしていくことなのかもしれません。
 今、教員の多忙化が問題になっていますが、その原因として、働かない2割を働かせるための取り組みが多忙化に拍車をかけている面がみられます。教員の業績評価や学校選択制は、競争がなくぬるま湯体質に馴染んでしまった教員に頑張る動機を与えるという趣旨ですが、これも何もしなくても努力を重ねる教員よりも働かない2割の教員に対する対策という面が強いのです。でも、業績評価を統括する立場にあったものとしての実感では、働かない2割は、「別にクビになる訳じゃないし」という意識で変わらないまま、学校間の競争に負けられないと、働く2割を追い込んでいるという感触でした。
  どこの学校でも、何人か働かない教員がいるのは仕方ないですよね、と世間が許してくれるわけはありませんが、もしそうなればかえって学校は活性化するかも、などと考えてしまいます。

 

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