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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

そもそもおかしい

2014-06-07 07:05:55 | Weblog

「そもそもおかしい」5月31日
 『組み体操の事故 高さを競うのは危険だ』という見出しの社説が掲載されました。名古屋大大学院准教授の内田良氏が、組み体操の危険性を指摘したことにより、ネット上で議論が盛り上がっていることを受けたものです。
 組み体操による事故について、『跳び箱、バスケットボールに次いで3番目に多い』『前年度からの事故増加率はワースト1で、しかも重大事故につながりやすい頭部などを負傷する割合が高い』『高さを競い合う傾向が強まっている』という指摘に対し、『達成感や連帯感、一体感を育むのに役立つ』『けがを恐れていたら何もできない』という反発もあるということですが、大切な視点が抜け落ちています。
 私は、教員時代に高学年を担任することが多く、10年以上も組み体操の指導をしてきました。ですから、賛成派反対派双方の言い分について理解できます。ただ、当時から疑問で仕方がないことがありました。それは、組み体操の舞台となる運動会そのものについてです。
 運動会は特別活動の中の学校行事に位置づけられています。国語や理科の授業と同じように、学習指導要領に基づく教育活動です。当然のこととして、各学校では、実施計画を作成します。そしてそこには、運動会のねらいとして「日頃の学習成果を生かし~」というような文言が記載されていることが多いのです。
  しかし、運動会で行われる競技、玉入れや大玉運び、綱引きや騎馬戦などのどこに日頃の学習の成果が生かされているのか、ということが疑問で仕方なかったのです。そうした競技は日頃の体育の授業ではいっさい行われることはなく、運動会の3週間くらい前になると、練習日程が組まれ、突然練習が始まるのです。そして、運動会が終われば、授業で取り組まれることはなくなるのです。組み体操も同じです。
 私は20代前半の頃、運動会について話し合う職員会議で、「ねらいと実態が合致していない。日頃の成果というのであれば、徒競走以外には高跳びや幅跳び、跳び箱や平均台、あるいはバスケットボールやサッカーなどの大会にすべきではないか」と発言し、先輩方から苦笑で無視された経験があります。それ以来、そうした発言は控えてきたのですが、基本的には今でも疑問は解消されていません。
 負傷事故1位の跳び箱も、2位のバスケットボールも、学習指導要領に基づいて行われる授業の内容であり、学校や教委の判断で止めることは難しいでしょう。必修化に伴って事故が懸念される柔道や死亡事故が多い水泳などの同じです。しかし、組み体操は、運動会という行事のためだけにその時期だけ臨時に行われ、学習指導要領にも位置づけられていないものなのです。
 地域の住民や保護者に見せるために、普段に学習とは関係のないことを行うというのはどうなのでしょう。音楽会での演奏や合唱は日頃の学習の延長上にあります。展覧会も特別時間割など作られず通常通りの授業の中で作られた作品が展示されます。運動会、その中でも、組み体操などの競技だけが特別なのです。そんな組み体操を見せることが、地域住民や保護者の学校理解を深めるとも思えません。
 慣習と惰性だけで続けるのは間違っています。そんな視点からも組み体操を論じてほしいものです。

 

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他人事ではなく

2014-06-06 07:36:45 | Weblog

「裁判はどうなる」5月30日
 『長崎中3自殺 一部同級生「みんな共犯者」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『学校側の聞き取り調査に対し、一部の同級生が松竹君が自殺した朝、教室で「(松竹君が登校してこなかったため)数人の会話で『みんな共犯者だよ』と言っている生徒がいた」などと回答していたことがわかった』のだそうです。さらに、より具体的に、『「やばいんじゃないか」と騒ぎになった』『「全体責任だよ」と言う生徒もいた』『「警察に捕まらないかな」との声も漏れていた』と、自殺当日の朝の学級の様子を描く記述もありました。
 学級の生徒の大多数が、いじめがあったという認識があったこと、自分たちが積極的または消極的加害者であることを認識していたこと、最近の事例から中学生であっても悪質ないじめによって警察に捕まる可能性があると理解していたこと、がうかがえます。自殺した松竹君の遺族はどうするのでしょうか。同級生全員とその保護者を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こすのでしょうか。刑事事件として警察に全同級生を犯人だと告訴するのでしょうか。
 裁判沙汰になったとしたら、訴えられた生徒と保護者はどのような対応をとるのでしょうか。結束して松竹君の遺族と対決するという選択肢があります。また、消極的加害者(傍観者)と積極的加害者とが分裂し、前者は示談などの手法で解決を目指すということも考えられます。あるいは、松竹君の遺族と対決するのではなく、管理責任を怠った学校や教委を敵とし、生徒は皆被害者という発想で責任転嫁を図るというのも有力な対策です。
 もちろん、法廷外で、地域の実力者等を味方につけ、松竹君の遺族に対し、成長途中の中学生に対し裁判というのはやりすぎだという「圧力」をかけようと模索する人たちもでるでしょう。同級生の中には弟や妹が今でも同じ中学校に通っているケースがあるでしょう。混乱は、現在の在校生や保護者にも及びます。狭い地域内で、「あの子は、いじめで友達を自殺させた子だよ」という噂は消えることがないでしょうし、それは生徒の今後の進学や就職にもついて回ることでしょう。それだけに、みんなが必死に戦い、対立は地域全体に及ぶ可能性大です。
 これが、いじめ自殺事件の現実です。私は、体罰や隠蔽などの不祥事を起こした教員向けの研修として、実際の事例に基づいた事例研修が有効だと説いてきました。いじめ自殺についても同様な考えです。今回のようなケースについて、文部科学省は警察庁等の捜査機関と連携し、個人名をいっさい伏せた形で、詳細な「物語」を作成してほしいと思います。そこで語られる悲惨な状況は、他人事ではない臨場感をもって、教委や学校、教員に訴えかける力をもつはずですし、子供向けの指導資料としても、強い訴求力をもつはずです。それを全国の教委や学校で共有することによって、いじめ自殺という悲劇を減らす力となると思うのです。それがせめてもの供養になると思うのですが。

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メリハリとは

2014-06-05 08:04:37 | Weblog

「採用と登用」5月28日
 『教育インフラ効率化を』という見出しの記事が掲載されました。経済財政諮問会議における民間議員の発言を報じる記事です。記事によると、『少子化に合わせて教員の新規採用を抑制する一方、能力ある教師は積極的に登用すべきだと提案し、メリハリをつけた採用を求めた』ということです。
  厳しい財政事情を考えれば、新規採用の抑制は理解できます。また、能力ある教員の登用も当然です。でも、メリハリをつけた採用が分からないのです。教員の採用数について述べているのだとすれば、多く採用する年と少ない年を設けるということになりますが、長期的に子供の数が減る中で、ある年には教員採用数を意図的に増やす意味もメリットも分かりません。退職者が多い年には採用が増えるのは当たり前ですし、そんなことをわざわざ提案するというのもおかしなことです。
 都道府県ごとの採用数に多いところと少ないところの差をつけるというのでもなさそうです。原則として同一基準で採用を行い、その上で自治体負担の教員採用を認めるという制度を変え、特区のようなところを多数設けるということなのでしょうか。でもそれでは、A県を特区として教員配置を増やすことには反対はないでしょうが、B県では基準より減らすというわけにはいかないはずですから、単なる増員になってしまいます。
 採用「数」ではなくメリハリをつけるということであれば、社会人経験者を増やしたり、外国籍や障害のある人の採用を増やしたり、採用年齢の上限を外したり、というようなことなのでしょうか。しかし、そうした措置をとっても、全体としての教員数が同じであるならば、財政面での効率化にはなりません。
 それとも、現在は小中高特別支援学校別に行っている採用を、校種の枠を外して、採用後に異なる校種間で柔軟に異動できるような採用の仕方を考えるということなのでしょうか。確かにそうであれば、余分な要員を抱えることが少なくなり、全体の教員数を減らすことはできますが、現場に大きな混乱が生じることは間違いありません。もっとも、こうした手法には、「メリハリ」というイメージはありませんが。
 我が国における政策決定過程では、予算を握る部局の力が強いという現状があります。教員採用も例外ではありません。教育の論理とは異なる論理で教員採用の仕組みが決められる公算大なのです。それだけに、分からないことが気になります。

 

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これからもずっと

2014-06-04 07:30:55 | Weblog

「正反対の道」5月28日
 欧州総局の小倉孝保記者が、『理想と現実』という標題でコラムを書かれていました。小倉氏によると、『スェーデンとニュージーランド。ともに女性の権利意識の高い両国が、売買春で正反対の政策をとっている』ということです。前者は、『買春を禁止した。あっせん業者など売る側でなく、買う側を罰する政策』を採用し、『後者は、売買春を合法化した』というのですから正に正反対です。
 私の感覚では、合法化には抵抗があるのですが、前者では、『売買春が隠れて行われるようになり、女性が危険な目にあったり』するのだそうです。一方、後者は、『売買春の根絶は不可能。合法化して女性に社会保障や医療、安全を提供する方が人権擁護につながる』という考え方なのだそうです。理想と現実、正反対の発想ですが、目指しているのは「女性の保護」なのです。
 私は、売買春問題については判断できませんが、学校教育については、現実主義に軍配を上げたいと思います。学校教育における理想主義とは、学校におけるいじめは禁止する、不登校はあってはならない、教員の体罰は許されない、いわゆる「落ちこぼれ」が存在してはならない、という立場で臨むものです。現実主義とは、いじめを根絶することはできない、不登校はなくならない、教員の体罰はどうしても起きてしまう、「落ちこぼれ」は一定割合で発生する、という現実から対策を考えるということになります。
 売春は世界最古の職業だといわれます。何千年もの間、様々な人や組織、政府が対策を行ってきましたが今でも存在しています。欧米先進国でも、我が国でも、発展途上国でも、存在しています。白人社会でも、黒人社会でも、アジアでも、南米でもアフリカでも売春は行われ続けています。キリスト教国でも、仏教国でも、イスラム教国でも売春撲滅には成功していません。売春に対して、死刑の極刑で臨んでも、更生施設でのカウンセリングや職業訓練を行っても、なくならないのです。こうした事実を踏まえれば、これから先もなくすことはできないと考える方が妥当なのではないでしょうか。
 いじめも、不登校も、体罰も、落ちこぼれも、長年対策がとられてきましたが、いずれも厳として存在しています。そうだとすれば、これらの問題も、今後もなくすことはできず、いつまでも学校教育の宿阿としてあり続けるという前提で対策を考えるべきだと思います。
 いじめはあってはならないという方針で臨めば、いじめが発覚したときに、関係者は失敗したという意識をもつことになります。それは、自分が責められるという予感に結びつき、なんとか責任を回避したいという思いに至るのです。それよりも、いじめはある、どんな力のある教員でも完全には防げない、だからこそ恥だとか、指導力がないという烙印を捺されると考えるのではなく、起こったいじめをどのように解決するかという点にこそ教員の存在価値があるという発想に転換するのです。
 いじめゼロなどという荒唐無稽な目標を掲げるのではなく、いじめ発見力、解決力をどのように高めるかというとに力を注ぎ、いじめ100件から70件に、さらに来年は50件にというように、発生を当然のこととし少しでも減らせればよし、と考えるのです。
 もちろん、いじめや体罰を是とするのではありません。でも、上記のようなことを主張すると、体罰容認主義者のように非難されてしまうのも現実なのですが。

 

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混乱の時代の記録

2014-06-03 07:32:19 | Weblog

「概要記述」5月27日
 専門編集委員の玉木研二氏が、『夏の記念日』という標題でコラムを書かれていました。8月4日が「学童疎開の日」であることから説き起こし、戦時中の学童疎開についての公式記録の無味乾燥さを指摘する内容です。その中で玉木氏は、『子供たちはひそかに畑のネギを抜いて辛さを我慢して食べたり、歯磨き粉をなめたりした。整腸剤をかじり、絵の具を口にした子さえあった』『遠く離れた親を恋しがり、その一心で宿舎を抜け出す子も駅などで見つかり、連れ戻された』『小さな軍隊組織のようになった。いじめがあった』『問題があると教員から連帯責任で皆殴られた』などと生々しい実態を紹介しています。
 一方、文部科学省が発行した「学制百二十年史」には、『多くの疎開児童と付き添い教員たちは、異郷の地で孤独と飢餓とに悩まされる苦難の日々を過ごした』とふれられているだけであることを指摘しています。
 仕方がないと思います。公的な記録に生々しさを求めるのは難しいものです。一般的な事例であるか、立場による偏りはないか、関係者の証言を証明する資料はあるか、などの制約の中でどうしても無味乾燥な内容、そうした言い方が厳しいとすれば、最大公約数的な内容に落ち着かざるを得ないのです。しかし、そこからはその時代、その環境の中でもがく人間の姿は浮かび上がってはきません。
 私は、学校教育について、公的な記録だけでなく、生々しい記録を残すべきだと思っています。30年後、40年後に現在進行中の教育改革の是非を検証するために、です。私が教員になったころは、ちょうど学習指導要領の改訂時期でした。当時、学校現場では、改訂の趣旨を踏まえた実験的な実践に挑む教員もいれば、「文部省が勝手に行った改悪にどこまで逆らうことができるかということこそ我々が研究することだ」と公言する教員もいました。
 卒業式等での国旗国歌の問題も大きな問題でした。職員会議では、職員団体に所属する教員たちが事前に発言の台本を作り、校長を追及しました。夜の八時になっても終わらない会議では、分会長が一人一人の教員に発言を強制し、泣き出す教員や、何分間も黙って立ちつくす教員がいました。私が30代半ばに達した頃、こんな話を若い教員にしても、みんな「キョトン」とした顔をし、「嫌ですね」というだけでした。実感がもてなかったのでしょう。私の「熱さ」に閉口したのかもしれません。わずか15年足らずの間に、教員の中でさえ、そのときの教育現場の様子は分からなくなっているのです。
 それ以後も、40余年ぶりに新教科生活科が導入されたときの、熱に浮かされたような現場の雰囲気、小学校の9割は校内研修のテーマとして生活科を取り上げていました。そして、熱はあっけなく冷めてしまいましたが。同じことは、15年前の、「総合的な学習の時間」導入時にも繰り返されました。
 「地域に開かれた学校」が新しい学校のスタイルとして提唱されたとき、何でもかんでも「地域」という流れの中で、授業のねらいから見て効果的とは思えないような場面でも地域の人を講師に呼ぶ、地域の古老を訪ねる、地域教材を取り上げるといった状態が見られました。「特色ある学校づくり」が標榜されるようになると、地道な授業改善は脇に押しやられ、空虚なイベントが盛んに催されるようになりました。今では悪名高い「ゆとり教育」導入時には、指導でなく支援という合い言葉の下、教えることは「悪」という風潮が広がり、それは学力向上の掛け声で消えてしまいました。
 こうした経緯も、教員の世代交代が進み、やがては公的記録の中でそれぞれ数行の記述にまとめられていくのでしょう。我が国の国民性は、「水に流す」発想にあるといわれます。ですから放置しておくと、前回の改革の結果生じた混乱や失敗に学ぶことなく、何年かすると同じ改革が提起されることが繰り返されていきます。這い回る経験主義から系統主義へ、ゆとり教育から学力向上へ、戦後教育は振り子のように行ったり来たりしてきたのです。
 そのときの教育政策を学校現場がどのように受け止め、どんなことに苦労し、どのような取り組みが行われ、どんな問題が生じていたか、生々しい記録を残すことで、後日、落ち着いた環境の中で検証が行われ、それがよりよい教育政策へと結びついていくように思うのです。文部科学省や教委には無理なので、校長会などが取り組んではどうでしょうか。

 

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思ってはいても言わなければ

2014-06-02 07:36:25 | Weblog

「思っていても」5月27日
 京都支局の野宮珠里記者が、『別人作曲問題が教えるもの』という表題でコラムを書かれていました。佐村河内守氏の事件報道を振り返るものです。その中で短大で音楽を教えた経験のある野宮氏は、佐村河内氏の「交響曲第1番 HIROSHIMA」について、『異なる時代様式の響きが継ぎはぎされ、「聴きやすいが独創性のない作品」というのが素直な感想だった』と述べています。
 また、佐村河内氏の記者会見について、『音楽の本質と関係ない話に閉口した』『言葉の軽さに違和感を覚えた』とも書かれています。さらに、佐野光司桐朋学園大名誉教授の『3段階評価ならBクラス。スタイルは古く、評判を呼ぶほどの名曲ではないが、それほどひどい出来でもない』という分析も紹介しています。
 私は音楽については、全くの素人ですので、佐村河内氏の曲については評価できませんが、音楽について素養のある野宮氏は、ご自身の感覚としても、取材先の専門家の意見としても、「大した曲じゃない」という見解をもっていたのです。しかし、野宮氏はそうした見解を記事にすることはなかったと告白しています。そして、野宮氏はコラムの中で、記事にすることを躊躇い見送ったことについて、記者としての自分のあり方を反省していらっしゃいます。それは真摯な姿勢だと思います。しかし、なんだか割り切れない思いも残ります。
 世の中が一つの方向に動いているとき、その流れに逆らう言動をとることは勇気が必要です。しかし、メディアに携わる人は、そうした勇気をもつことが求められているのではないかと思うのです。
 今、学校教育が大きく変えられようとしています。教委改革、教科書検定のあり方、教科書採択のあり方、いずれも保守派と思われる政治家の影響によるものです。私自身は、保守的な思想の持主です。数十回の選挙の9割以上で自民党に投票してきた人間です。教員としても、「拠点校」の職場で唯一の「非組」を貫いてきましたし、国歌斉唱、国旗掲揚に賛成の論陣を張ってきました。もしかしたら、現職時代の私を知る人間は、私のことを右翼だと思っているかもしれません。
 そんな私ですが、学校教育においては「教育の中立」こそが重要であり、それこそ先の大戦という大きな犠牲を払って我が国が獲得した財産であると考えています。正直に言うと、教員時代の私は、学校教育への政治介入についてはあまり考えたことがありませんでした。しかし、長年教委に勤務するうちに、政治家個人は善意の持主でも、総体として政治介入が教育を歪めるということを実感しました。
 野宮氏が所属するM新聞は、従来の社説等から見ると、現在進行中の教育改革には慎重な立場であると思われます。そうであれば、後になって反省するのではなく、今、勇気をもって発信してほしいと思います。

 

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失ったら困る

2014-06-01 08:26:10 | Weblog

「家庭がだめなら学校で」5月26日
 専門編集委員の牧太郎氏が、『「無敵の人」と徴兵制』という標題でコラムを書かれていました。無敵の人とは、『人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから、罪を犯すことに心理的抵抗のない人間』を指す言葉だそうです。牧氏は、『「無敵の人」は増えている』と述べています。
 私自身は、無敵ではなく、いたって「弱い人」でした。心理的肉体的倫理的にあまり強靱でなかったという意味だけでなく、「人間関係も社会的地位もあり、それらを失うことを何よりも恐れていた」人間だったという意味です。私が犯罪や不名誉なことをして、父母や姉、甥や姪、何よりもつれ合いが、非難されることは耐え難いことでした。
 私が指導室長をしていたとき、つれ合いは他区で校長をしていました。教員の世界は狭く、共通の知人も少なくなく、そこでは「不祥事」どころではなく、仕事ができないとか判断が遅いといって噂や評判でさえ、神経質にならざるを得ませんでした。つれ合いの足を引っ張るようなことはしたくない、そうした思いが私の行動を律していました。決して、教育者としての自覚や使命感、管理職としての責任感などだけで日々を送っていたわけではありません。おそらく、つれ合いも同じ思いだったと思います。
 2人とも退職した今でも、「何か問題を起こしたら、無職Sではなく、元校長Sや元教委室長Sって書かれるね」と話しています。そこには、自分たちだけではなく、校長や指導室長という職の名誉、現にその職にある後輩たちへの思いが込められています。問題を起こし、新聞やテレビで報じられ、「こんな奴が偉そうな顔をして教育とは、なんて語っていたのか。だから学校は信用できない」と言われては、お世話になった教育界に申し訳がないという感覚です。
 使命感や責任感、隣人愛や人類愛など、倫理的な動機だけで行動を律することが出来る人は立派ですが、実際にはそんな人はごく少数だと考えます。それは子供も同じです。人はこうあるべきと教えることは大切ですが、それだけでは足りません。
 指導主事時代に、隣接地域5教委の生活指導担当のリーダーになったことがありました。そこで様々な問題行動の報告を受け、そうした生徒の家庭状況を知るにつけ、彼らには失ったら困るというものが乏しいことに気づきました。今流に言えば、「無敵の人」だったのです。彼らの倫理観は確かに不十分でしたが、同じような生徒はほかにもたくさんいました。徒党を組んでの殴り合い、リンチ、覚醒剤使用、パー券を使った恐喝、女生徒への暴行など警察沙汰になってしまう生徒と、そこまではいかず教員への口答えや大人ぶっての喫煙で踏みとどまる生徒との違いは、潜在意識の中に家族への思いがあるかないかでした。
 人を傷つけてはいけない、自分がされて嫌なことは他人にするな、という当たり前の諭し方だけではなく、自分が警察に捕まったら、学校を出席停止になったら、お母さんが近所で顔向けできない、お父さんの会社での立場が悪くなる、妹が陰口を言われ登校できなくなる、そんな思いがブレーキになるのです。
 ですから生活指導は、すべての子供に失いたくないもの失ってしまうことへの想像を掻き立てるという指導原理をもっているのです。まだ人間関係がさほど広くない子供の場合、「失いたくないもの」は家族に関わることが多いものです。家族の存在こそが最後の歯止めだったのです。しかし、今、家庭の中でも人間関係の希薄化が進み、歯止めの機能を果たせなくなってきている家庭が徐々に増えてきているように感じられます。そうなれば学校が最後の砦ですが、学校教育の中で家族以上のものを与えることは難しいと思います。現代の問題行動への対処は、こうした面にも目を向ける必要があります。

 

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女性登用

2014-05-31 07:38:52 | Weblog

「予算上積み」5月25日
 『女性活用で金利優遇』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『日本政策投資銀行が、地域経済の中核として雇用を創出したり、女性や高齢者の活用に力を入れたりしている企業に貸出金利を優遇する』ということです。こうした措置が地域活性化に有効なのかどうかは分かりませんが、もし効果があるのであれば、学校でも応用してみたら、と考えてみました。私自身、教委に勤務していたとき、女性の主幹や管理職への女性登用に苦労してきた経験があるからです。
 政策投資銀行の学校版は、全ての校種共通で、女性主任の割合、女性主幹の比率、副校長や校長が女性の場合など、基準を作り一定の優遇措置をするという制度です。具体的な措置としては、各校への配当予算の1割増し、加配教員の配置などが考えられます。そうなれば、市区教委は女性管理職を増やすために様々な啓発活動に取り組むでしょうし、校長や副校長は女性教員への働きかけを強めるはずです。
 社会が男女半々で構成されている以上、子供の価値観を作り上げていく学校現場も、男女半々で構成されていることが望ましいのはいうまでもありません。私は、男女で得意分野が異なるとか発想法に違いがあるとかいう考え方はとりません。大きな母集団で比較すれば、ある種の傾向の違いは見られるでしょうが、それを個人に当てはめるのは間違いだという意味です。「女性ならではの細やかな発想」というようなとらえ方は、「女性は地図を読むのが苦手」というのとは別の意味での男女差別だと思っています。
 しかし、ある教科の教員は女性ばかりとか、校長や副校長は男性ばかりというのは、潜在的な部分で子供に性役割分担意識を植え付けてしまうと思います。だから、優遇措置で状況改善を、と考えてみたわけです。
 しかし、実際には難しいでしょう。世論の批判ということとは別に、女性教員自身が、「そんな迷惑な」という感覚をもつからです。「意欲的」な女性教員からは、能力や適性がないにもかかわらず女性だからということで登用されたと思われるのは悔しい、という反発があるでしょうし、そうでない多数派の女性教員からは、「私は主幹や管理職になりたくて教員になった訳じゃないのに」「なんだかんだいっても、現実には女性が、子育てや家事、介護で追いまくられているのに」といった声があがることが予想されます。
 学校における男女共同参画は、企業などとは違い、経済的効果ではなく、子供の価値観醸成という面から急務であるのですが。

 

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できないことを強制しても

2014-05-30 07:30:04 | Weblog

「できないことを強制しても」5月24日
 『いじめ対策全国調査 法成立1年文科省、実態把握へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『文部科学省は、昨年6月に成立した「いじめ防止対策推進法」が定める「いじめ防止組織」の設置状況について、全国調査を実施する方針を決めた』ということです。この調査を通じて実効的な対策が打ち出されるとは思えません。
 私は、同法については、昨年、このブログで、「砂上の楼閣にすぎない」という批判を述べています。同法が定める『いじめ自殺など重大事案が発生した場合に調査する付属機関』や『教職員や福祉の専門家らで構成する防止対策組織』の設置が人材不足で実現困難であることを中心に述べたものです。 
 簡単に要旨を述べておきます。東京都の場合、60ほどの自治体でそれぞれ「付属機関」に3名程度の委員を配置するとしても、180人の適格者が必要になる計算です。大学や研究機関が集中する区市部では、なんとか確保できるかもしれません。しかし、人口の少ない島嶼などの自治体でそうした人材が確保できるとは思えません。大都市圏ではなく過疎化が進んでいる地方にいけばなおさらでしょう。
 また、各校に設置する防止対策組織についても、東京では、小中高と特別支援学校で3500校以上の学校があり、福祉の専門家を1名ずつ配置するとしても、のべ3500人の適格者が必要になる計算です。福祉の専門家という表現をしていますが、高齢者福祉や障害者福祉の分野ではなく、児童福祉やソーシャルワーカーといった人たちが対象でしょうから、よけいに確保は難しいという趣旨でした。
 実際には、一人の適格者が数校を兼任するということになるのでしょうが、4校も5校もということになれば、形だけで機能しなくなるおそれが強いのです。人材難が地方にいけばいくほど難しいのは「付属機関」の場合と同じです。
 こうした面に加え、今回の記事では、『法施行後も、いじめ自殺の調査を巡って遺族と教委が対立』する事例があり、橿原市や天童市の事例などが紹介されています。なんとか人を集め組織を作っても、機能しない事例があるということです。
 私は、再三、どの学校でも必ず起きている「よくあるいじめ」については学校や教委が教育的原則に則って対応し、自殺等の重大事案の「捜査」は専門的能力を有する警察に委ねるべきという主張をしてきました。機能しない組織を作り、努力しているという姿勢を示すためのアリバイづくりをするよりも、学校と警察という既存組織を活用し、教育と捜査というそれぞれの専門性を活かした役割分業体制をつくことこそ大切だと思います。

 

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自衛隊と学校

2014-05-29 07:55:21 | Weblog

「自衛隊と学校」5月22日
 阿部首相が憲法解釈を変え、集団的自衛権を行使できるようにしたいという方針を明らかにしたことを受け、自衛隊のあり方について検証する連載特集『出動せず』の32回『隊員たちの死と覚悟』が掲載されました。その中で、自衛隊OBの冨澤暉の言葉が紹介されていました。『いま、どんどん新しい任務がやってきている。訓練の時間がなくて、必ず無理がくる。だから、「訓練していないことはできません」と言える勇気をもった自衛隊になってほしい』というものです。また、『この20年、次から次に任務は増え、訓練はぎりぎりだ』という実態にも言及されています。
 記事の趣旨は、新しい任務=集団的自衛権ということで、憲法解釈変更という形で集団的自衛権行使に突き進むことに対して否定的な見解を述べるものでしたが、私は、自衛隊と学校、自衛隊員と教員の共通点について考えさせられてしまいました。
 学校も次から次へと新しい教育課題が押し寄せています。○○教育という教育課題は、既に100を超えています。教員にも、ソーシャルワーカー的な知識やSNSを使ったいじめへの対応のための知識、食物アレルギーへの知識と対応、英語力、様々な障碍についての知識や指導法など新しく身につけることが求められる知識や技能が次々に求められています。そして、教委が主催する研修に追いまくられたり、自主的な研修に疲れ果て、知識や技能を十分に身につけないまま指導を強いられ、その上不十分だという批判を浴びせられるという、正に「無理がくる」という状況に陥っているのです。
 さらに、新しい任務に対して「できません」と言うことができず、問題点が世間に周知されていないという点も似ています。
 そして、来年度から教委制度が改革され、首長の影響力が強くなります。教育行政について十分な理解のない首長の意向や思いつきによって、さらに様々な「注文」がなされる可能性が増しています。民意で選ばれた首長の「これは民意だ」という言葉が水戸黄門の印籠のような重みで、ますます学校ががんじがらめにされていくというのは十分に考えられることです。
 サボるのではなく、学校教育と子供のことを考えるからこそ、「無理です」という声をあげる勇気をもつことが必要だと思います。

 

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