創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る 41年目の検証-68

2020-11-10 06:54:59 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
    (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
・創価公明の大臣にだけは言われたくない、独裁国と闘うトランプ!!
・禍(わざわい)は 口より出でて 身を破る(日蓮・十字御書)…!!
・政治と宗教は、水と油・アクセルとブレーキ…『宗教政党は絶対悪』!!


藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 
      言論出版の自由を守る会編 日新報道 2012=平成24年
    人権侵害・政権簒奪・歴史改竄
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
         --目次は第3回目に掲載--
   ------(P.225)---(以下、本文)-------

【第3章】言論出版妨害事件
      =歴史の改竄を図る池田大作・創価学会
1.言論出版妨害事件とは
 ◆ 憲法違反と歴史の書き換え
(1) 言論出版妨害事件の経緯
 ◆ 発端は池田大作会長の指示   
 ◆ 田中角栄自民党幹事長に仲介を依頼 
 ◆ 殺到した抗議と脅迫の電話
 ◆ 相次いで露見した創価学会・公明党の言論出版妨害 
 ◆ 岐路となった竹入記者会見 
 ◆ 焦点となった池田大作証人喚問
 ◆ 根回しに奔走した公明党  (~以上、前掲 P.254~)
① 言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた /山崎正友
 ◆ 全ての元凶は池田大作
 昭和四五年に起こった創価学会による言論出版妨害事件は、元公明党委員長矢野絢也氏(当時・書記長)をして、「これをさかいに、創価学会は興から亡の過程に入った……」と慨嘆させた、創価学会にとって決定的な影響を及ぼした事件であった。
  これを転機に、創価学会は単なる狂暴な狂信集団から大きく変質して、今日の陰険な謀略・詐術的集団への道をたどったのである。
 その過程に深くかかわり、これを助長推進した当事者の一人として、反省と懺悔を込めて、その真相をふりかえり、改めて国民に警鐘を鳴らす次第である。

 昭和四四年夏、評論家(明治大学政治学教授)の藤原弘達氏は『創価学会を斬る』を執筆し、一一月に刊行した。このことをゲラの段階で察知した創価学会は、あらゆる手段を用いて出版を阻止しようとはかった。
 出版社(日新報道)に圧力をかけ、藤原弘達氏に対しても出版を止めるよう強要した。法的に出版差し止めの仮処分、名誉棄損による告訴も検討したが、無理だとわかると今度は大手取次店に銀行筋から圧力をかけさせ、取り次ぎを阻止しようとした。
 大手新聞に広告が掲載されないよう圧力をかけた。創価学会の幹部が全国の書店をまわり、「潮出版社の社員」と名乗って、集団暴力や不買運動をちらつかせて「創価学会を斬る』を店頭から引っ込めるよう強要した。

 更には、竹入義勝公明党委員長を介して当時の自民党幹事長・田中角栄氏と赤坂の料亭で会い、出版差し止めへの協力を要請した。田中角栄氏は、これを受けて藤原弘達氏に会い、『創価学会を斬る』の一括買い上げと出版中止を持ちかけたが、藤原氏は断った。
 折から昭和四四年暮れ、総選挙が行われ、創価学会・公明党とはげしく対峙していた日本共産党がこれを攻撃材料として取り上げたのに対し、テレビ討論で公明党代表が“事実無根”と応じたことから、選挙後もこれをめぐって両党間ではげしいやりとりがつづいた。
 やがて一般マスコミも取り上げ、藤原弘達氏だけでなく内藤国夫氏、隈部大蔵氏ら多くの創価学会批判ジャーナリストに対し、同様の言論・出版妨害がなされていたことが明らかにされた。
 更に折伏や組織をあげての選挙運動、国立戒壇問題に創価学会と公明党との政教一致問題など、さまざまなスキャンダルや反社会的体質までが俎上にあげられ、マスコミのみならず国会でも追及が行われ、全国民的な関心事となった。

 昭和四五年五月三日、池田大作は創価学会本部総会における講演で国民に謝罪し、言論の自由の遵守と政教分離、国立戒壇の否定や反社会的体質の改善等を約束した。
 それにより、騒動は一応収束した。
 池田大作は言論出版妨害事件について、「熱心な会員が行きすぎてやったことだ」として、自分のしたことではないと弁明した。しかし言論出版妨害事件は、まぎれもなく池田大作自身の指示と命令によって惹き起こされたのである。

 当時、単身あるいは秋谷栄之助氏(現・会長)とともに藤原弘達氏宅に押しかけ、出版をやめるよう強要した藤原行正氏(元・創価学会渉外局長、昭和六〇年代初めに大橋敏雄代議士とともに池田大作批判を行った)は、その著書の中で、
「四四年八月末、朝早く北条さんから自宅へ電話をもらい、私は学会本部で池田から一つの仕事を命じられた。(中略)
(北條・秋谷同席で、池田大作は)
 『政治評論家の藤原弘達が学会批判の本を出そうとしている。選挙前にこんな本が出るのは邪魔だ』
 『藤原君は、彼と面識があっただろう。すぐに相手と話をつけて、余計な雑音を押さえろ
 池田はいつもこの調子だった」(藤原行正著「池田大作の素顔」一九八九年(S.64)四月発行、一一二頁)と述べている。

  更に、藤原弘達氏との出会いが不調に終わると池田大作は、
 「もっと強引に頼み込め。きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい」(同書一一七乃至一一八頁)……と叱咤した。
 更に同年一〇月一五日、田中角栄氏が池田大作に頼まれて赤坂の料亭で藤原弘達氏と会談したとき、池田大作は竹入委員長と隣の部屋に身を潜ませ、こっそり聞き耳を立てていたのである。(同書一二六頁)
     ----------(つづく)---------260

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