創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-51

2020-04-09 08:11:41 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

新・創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道 昭和47年(1972年)
    --傷つけられた大衆の怒声--(目次は、第2回に登載)
    ---------(以下、本文)-------273

第二章 日本の底辺変革の条件と宗教の機能
◆ 「戦後社会構造」の変化と底辺層
 日本の底辺は悲しい。
 それは見方によればどこまでも足をとられてズルズルとのめり込んでいくド口沼にもたとえられるかもしれない。そこからはい出ることは、なかなかにむつかしい。なんとかしてそこらすべての人ははい出ようとする...。
 その限りにおいて、藁でも掴みたいような気持をもつ底辺層の人々ほど、宗教に救いを求める。宗教はその意味における底辺層消費用の精神商品になっているといえないこともない。
「神々のラッシュ・アワー」「神仏のラッシュ・アワー」はそこから起こり、しかも敗戦やその後の経済成長によって、そういう傾向はむしろ強くなっても弱くなっていないことをわれわれは確認しておかなければなるまい。

 すでに述べたように、昭和二十年八月十五日以降に起こったところの日本に対する一連の民主的変革によって、明らかに天皇制社会を律していたところの、前述のような官僚的合理主義儒教と西洋文明との奇妙なるコンプレックスによって支えられていたところの天皇制のエトス、天皇制の国家道徳とでもいうものは、ほぼ全面的に崩壊した。その全面的に近いまでに崩壊した合理主義的な官僚道徳とでもいえるものと一緒に、天皇制に協力した日本の既成宗教集団の殆んども民衆に対する精神的指導力を決定的に失ったことについてはすでに述べた通りである。
 その限りにおいて、戦前は民衆の「魔術の園」に放任されたまま、場合によって天皇制権力との間に緊張を呼び起こした新興宗教は、むしろかえって治安維持法の枠から、不敬罪の枠から解放されることにもなった。そういう戦後社会の状況をもし図で示すとすれば、これは前出のⅢ図のようになる。つまりセンベイのようにペチャンコになってしまったということである。ピラミッドに近い重ねダンゴをボンボンと上から解体作業をやってのけたのが、実は図にもかいてあるようにアメリカ占領軍であった。“焼跡民主主義”という名前にあらわされるように、日本国民一億はまさにセンベイのように一列横体に並んだということであり、その上にのマッカーサー元師が君臨したという表現も可能であろう。こういうセンべイ型になった限りにおいて、どこまでが底辺であり、どこまでが頂点であり、中辺であり、上辺であるか、上辺・中辺・底辺の区別は少なくともこの時点においては殆んどなかったといってよかろう。
 こういう社会的条件が、創価学会を含める新興宗教の戦後的スタート・ラインであったということがいえるのである。「一億総底辺化」という表現すらおそらくは可能な状況が展開されたということである。つまり一億の国民すぺて底辺になった。財産家は財産税を取られ、地主は土地を取られ、物価は騰貴し、人心は荒廃し、まさに乞食のような生活に追いこまれたのである。金持はいてもヤミヤであった。食糧そのものを確保することが大変であった。飯が食えない。着るものがなく、住む家がないのだ。最低限の人間としての生存すら許されないようなギリギリの底辺に、一億の民が追い込まれたという状況、これがまさに戦後の出発点における“焼跡民主主義”の実態であったといわなければならないのである。

 その物心両面にわたる荒廃の中において、従来の天皇制モラルというものはコナゴナに崩壊した。民衆に対する上位志向性を剌激できるような説得のすべてが失われた。軍人は根こそぎ権力を失い、官僚はなめられ、財閥は富を失い、地主は土地を失い、治者は彼等が底辺大衆に示すに価する未来に対する目標の切札をすベて失っていた。 つまり、治者の側、指導者の側から出される精神的指導性は全く後退し、アメリカ占領軍がもちだした民主主義という旗印が、戦後社会をリードするところの唯一ともいえる「錦の御旗」になった。それはまことに奇妙な民主主義としての出発点であったといえよう。それは空腹の民主主義であり、また他国の軍事的支配下の民主主義であった。人権が高らかに謳われながら、最低限の人間としての生存すら脅かされる民主主義でもあった。

 そういう敗戦をば、わざわざ終戦といいかえ、軍事下の支配体制を解放と錯党するような奇妙な精神状況というものが、この“焼跡民主主義”を支えていた観念的幻想だったといってもよいだろう。こういう状況に追い込まれた人間、特にそのなかでも底辺の人ほど、何かの意味における具体的な生活の再建、家の幸福の再建、人間として生きられる条件の確保をのぞんだのは当り前のことである。そのために何が最も追求する価値として民衆の目に映ったかということである。どんなに人権が高く叫ばれても、人権だけでは飯は食えない。
 “民主主義”はいかに結構なものであっても、それでは空腹をいやすことはできない。しかも国家ないし権力が、かって民衆を支配するためにもっていた精神の体系は崩れたのだ。既成の宗教集団は殆んど沈黙した。この“焼跡民主主義”における同じスタート・ラインに、初めて民間信仰を含めての新興宗教が出発点に立ち、いわばそこから戦後的ダッシュが始まるのである。このダッシュが最もすごかったのが、新興宗教のなかで創価学会であったといえよう。
 そこに“ご利益”と“パチ論”を組み合わせながら、学会というピラミッド組織のなかの上辺を志向させ、経文の勉強をし、御題目を唱え、無我の行と教学を通じて、底辺からはいあがれる可能性をいち早く提示したのが、創価学会であったという見方も可能なのである。

 もちろん、そういうセンべィ型社会にまでおちこんだ敗戦の責任と反省が、天皇を中心とした余りにも精神主義的な傾向に向けられ、極端な精神主義に対する反発を呼んだことは否定できない事^である。敗戦体験はアメリカという異民族支配の接触を通じて、改めてアメリカのもつ強大な経済力、軍事力、科学力の格差をまのあたりに見せつけたといえる。それは広島、長崎に落とされた原爆の威力の上にも証明されていた。いみじくもアメリカの戦略爆撃調査団が日本の天皇制を崩壊させたものは、精神の力ではなく、原爆の力であり、戦略爆撃であり、まさに物理的強制力であったといっている事実に照応するものといえるであろう。

 そういう状況下においては、戦後的再建の方向は、上は支配者から下は底辺の民衆に至るまで何をおいても経済、物質的条件の復興におかれたのは当然のことである。戦後的復興とは何をおいても経済力の復興であった。追求する価値としては利であり、戦前天皇制社会のなかにおいてはエゴイズムであるとして軽蔑され“小さな道徳”としてある場合には権力によつて弾圧されたような信仰形態が、そのままで、つまり自らを何も変えないで戦後社会の民主的条件のなかにおいては罷り通ることとなったのである。
 そういう状況下あって創価学会は、まさに新興宗教のなかで最も特異な突進力を示した。日蓮正宗の基本的な行動様式、折伏を強行し、高利貸し的大衆金融組織を通じて“利”をもって釣りながら、なおかつ利息を払う必要のない宗教法人組織を最大に活用したのだ。しかも戦後民主主義における最大の権力象徴であるところの国会議員をその組織を通じて送りだすという“現世利益”と、これに伴う権威のシンボル操作を最も巧みに行なった集団であったということがいえるだろう。

  そこで次にわれわれは図Ⅲから図Ⅳに目を移す段階にきた。図のⅣはその後における戦後的経済復興をかさね、さらには高度経済の成長によって次第々々に「センベイ」が厚くなっていき、まがりなりにも日本が総生産において自由陣営中でアメリカに次ぐ世界第二位という段階に到達した段階の社会構造を戦争直後の「センべイ型に対比して「梯型社会」と観念し、いまやそちらへ移行したというように見ることができるようである。
 この「梯型社会」の特色は、政界、財界、官界、マスコミ界、学界というような新しいエスタブリブシュメント層、ないしは支配層とでもいえるものができたことをあらわす。もっともそういう支配層は私がかって『日本の椅子』(昭和三十七年、文芸春秋刊)の中でも描いたような相互依存の循環的無責任体系とでもいえる関係にあり、支配系列の中核をもたないルーズな.もので、何だか「知恵の輪」にでもたとえられるようなものなのだ。しかもそういう新支配層と被支配層との間は多分に流動的である。上下の貧富の差もそれ程顕著なものではない。指導層といってもそれ程威張れるような社会状況にはなってはいない。縦の権威の序列は依然として崩れたままであり、その限りにおいては平等性というものはある程度までこの社会のなかに貫徹されている社会という意味をふくめて、「梯型社会」として対比的に図式にしたワケである。

 これについて思いだすのは、昭和三十四年、ナセル大統領がいまだに健在な段階におけるアラブ連合エジプトを訪問したときのことである。「エジプト革命の成果として一体どのような社会をエジブトの指導者は欲しているのか」という質問を、少佐の大臣たちを含む多くの革命政洽家たちに対してこころみたことがある。そのとき、一人の大臣がわざわざ鉛筆をとってピラミッドを描いてこれに×印をつけ、ピラミッド型を図Ⅳに示すような「梯型社会」に移行させることが革命の課題だと述べた。しかもその梯型も横に長く平べったく広がるような社会ほど理想的な社会であるというように言ったことを、私は鮮かに覚えている。

 たしかにそういう意味においても、敗戦と民主化の結果できたところのこの型の社会においては、かなりの程度の革命的ともいえる民主化の実績があがっていることも否定できない。アンシャン・レジーム(旧制度)の支配力というものが、急速にそのまま全面復活する可能件もまずないとみてよいのである。
     ----------(つづく)---------280

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