--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!(平成10年)
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であること、古今東西の歴史である!
新・創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道 昭和47年(1972年)
--傷つけられた大衆の怒声--(目次は、第2回に登載)
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◆ 宗教の世界の中での「創価学会問題」-2
しかし、それはひとり創価学会だけの姿であるのか。こうみた場合、私には創価学会だけのことだとはいえないように思えるのだ。立正佼成会はどうであろう、PL教団はどうであろう、霊友会はどうであろう、妙智会はどうであろう……。全国には実に十五万有余のともかく宗教法人と名のつくものが存在しているといわれる。キリスト教、カトリック、プロテスタント各派を初めとして、神道、民間神道各派、仏教各派等の既成教団、それに新興宗教、まさに「神神のラッシュ・アワー」なのである。それは神々のみともいえないかもしれない。むしろ「神と仏のラッシュ・アワー」というべきかもしれない。つまりそれだけの宗教法人が大衆から提供される零細な金を集めながら、ともかくも生息し得ているということ、その限りにおいては日本は驚くべき『宗教大国』といってもいいかもしれないのである。
各宗教法人に入信している信者の数を文部省へ届けでたもので集計してみると、日本の人口をはるかに越える一億七千万が数えられているそうだ。しかしその中で自分の家の宗派がどうとかというのでなく、自分自身の心の信仰をこの宗教に対してもっているとはっきり宣言できる人がどれだけいることであろう。ほとんど形の上だけの既成宗教への儀礼的服従であり、内面とは全く無媒介である。
神々が神々だけでラッシュ・アワーをつづけるだけで、人と神との精神の交流はない。人と仏との心の交流もないのだ。つまりは、宗教の本来目指さねばならないカンジンのものがほとんどないということなのである。
その意味においては、まさに“エコノミック・アニマル”ではないけれども「宗教的アニマル」という表現すら妥当するかもしれない。この驚くベき日本の宗教状況、見方によれば宗教過剰状況における実質的な非宗教的状況、それはまさに宗教の形があって内容がなく、その機能が失われている社会ということにほかならない。
“大衆の欲望”に対応するような宗教は、結構次ぎから次ぎへと創られるけれども、まさに「大衆消費材」としてインスタントに消えていくということでもあろう。“おじや”のように混在しながら、これといった実効性ある機能ももたないままに“空転”しているという見方もできるであろう。しかもこの国は結構物質的に繁栄しており、しかも大量に宗教を消費しながら日本の民衆の精神はいつまでも貧しいのである。
この陰湿な、ジメジメとした底辺の土壌には当然のこととして綺麗な花が咲く前に、まず力ビが発生するのである。
私が『斬る』を書いたとき、中学時代の恩師がわざわざ次のような手紙をくださって、激励されたのを思いだす。
「創価学会問題はしょせん日本の底辺に発生するカビである。カビも少量の間は放任しておけばいいし、日が当たれば自然に乾くかもしれないけれど、そのカビがあまりにもはびこってきたときは大変だ。やはりミズムシのように蔓延すれば歩けなくなるし、またそれがへドロのように溜れば水が飲めなくなり、空気も汚染する。いわば精神公害化するということだ。ここまでくれば思い切った治療、切開手術はせざるを得ないと思う。頑張りなさい」
四十七年四月までの約三年間、私は文化放送で“モーレツ・テレホン”という番組をもった。電話で様々な底辺大衆のうめきにも似た訴えを聞きつづけこれにただちに解答を与える番組で、なかなか人気があったものだ。そこにでてきた声はその時その時でトーンはちがうけれどもほぼ一貫して素朴な底辺大衆の声であった。いうなればドブ川の中のメタン・ガスのようにブッブッブッとイヤな臭いを発しながら、絶えず発酵している感じであった。このドブをきれいに浚えることがいったいどうしたらできるものかどうか。そういう疑問をたえずもったものである。それをしないからといって、けしからんと簡単にいえるであろうか。そうそういうベくして容易なことではないのである。
この“ドブ川メタン・ガス論”と“カビ論”とは底辺のタトエとしてどこかで似ているといえるかもしれない。そこにあるものは明らかに底辺の貧しさであり、愚かさであり、無知蒙昧であり、ドロ臭さであり、醜さであるといってしまえばそれまでである。しかし、その底辺をどのように底揚げし、ドブ川の水を少しでもきれいにし、カビを少しでも掃らう努力をどういうようにするかということが、結構日本の宗教の課題でなければならないはずなのである。
創価学会は、残念ながら戦後二十七年の歴史の中においても、すでに既成宗教集団並みの、絵に画いたような堕落をしていることはもはや否定できないところである。権力を誇示し、富の上にアグラをかき、大衆を軽蔑しているのだ。そして創価学会会長・池田大作はあたかもかっての天皇の如く、自分の言ったことがそのままで組織の命令になり、憲法になるんだと公言するにいたる。
“朕は国家なり”といったルイ十四世と全く同じセンスである。「自己変革」などできるものではなく、むしろ「革命前夜」といってもよいだろう。宗教者としての謙虚さは殆ど見当らない傲慢そのものの段階にまでつけ上っていたといってよい。その意味においては、創価学会は宗教利用の最も悪しき形態である。なるが故に安易に政治を利用することができ、安易に富をむさぼることができる。
その富によってこれまた安易に大建造物をつくって、信者の多数を誇示することができる。なるが故にハレンチにマスコミを悪用し、言論自由を妨害する等々の、およそ宗教者にあるまじき行動をとり、しかも反省力がなくて平然としておれる精神的背景になっていたといわなければならないのである。
そこに私は精神のファシズムの危険性を感じたということである。それは政治におけるファシズムの臭いだけではない。経済においても文化においても、また言論の問題においてもそういう危険性、恐るべきバクテリアにも似たところの徽菌性を感触し、カビを感じ、ヘドロを感じたのである。だからこそ、断乎として斬らざるを得なかったということでもある。
しかし、斬ってそれで柊わったとはいえない。依然として創価学会はただ低姿勢をとりながら平然と生きていける、まことハレンチきわまる集団なのである。
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