創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-45

2020-04-02 08:52:22 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!(平成10年)
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であったこと、古今東西の歴史である!

新・創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道 昭和47年(1972年)
    --傷つけられた大衆の怒声--(目次は、第2回に登載)
    ---------(以下、本文)-------238

池田大作のいう「自己変革」のギマン性-2
 昭和二十二年、敗戦の荒廃の中にあって、当時の東大総長の南原繁がフィヒテの“ドイツ民族に告ぐ”張りの文化革命論、精神革命論を強調して話題になったことは、覚えている人は覚えているであろう。ヤミヤのおっさんまで「南原総長はこういっている」といったくらいで池田大作もまた、一人の青年として南原繁の言葉から何らかの影響を受けた一人であったといえるだろう。しかも「彼は南原繁氏を云々するつもりはない」とことわりながらも、なおかつ彼はそこで「創価学会が叫び、実践した“人間革命”は、大部分の学者や指導者の耳には、庶民の汗と,泥にまみれた、うす汚れたものとしか受けとれなかったかも知れない」ということをあえて強調しているのである。つまり南原繁、ときの東大総長のような立場の知識人から見たら創価学会や戸田城聖のやっていることはうす汚ない、底辺のうめきのようにしか受けとらなかったかもしれないといういい方を通じて、彼は、そういう受け止め方しかできない現代日本の宗教者や知識人の迷妄を指摘したいという反駁の姿勢をとっているワケである。

 私は宗教者ではないが、まあ知識人のハシクレかもしれない。創価学会というもの、創価学会が提出した問題というものを、知識人たちは、とかくうす汚れた、底辺の泥にまみれたうめきくらいにしか考えず、少なくとも正しく受け止めていない、うす汚ない底辺の出来事としてしか理解されていないのではないかと、池田大作自身は、精いっばいのプロテストをおこなっているワケである。だから彼はそれこそが「迷妄」であると指摘し、なおかつ南原繁の信奉したキリスト教にしても、「当時のイスラエルの最下層の人びとの中に没入して、人間として生きるべき道を説き、不幸な人びとに光明を与えようとしたのではなかったか。わが国における浄土宗の法然や、真宗の親鸞等もまた、当時の社会の底辺に分け入って、その法をひろめたはずである」と一種の啖呵すら切っているのである。

 私はこの点に関する限り、大作のいい分に賛意を表する。たしかに自らを高等な立場において西洋の文献から引用した文句をちりばめた演説を当時の荒廃した日本に対して告げた南原繁の姿勢と、底辺の荒廃と貧困の中から庶民に何んらかの光明を与えようとして足掻きつづけた創価学会や戸田城聖との間には、驚くべき距維があったことは否定できないだろう。しかも宗教本来の問題は、一部の限られた知識人にアピールするということではなくて、まさに不幸な底辺の人々に対して道を説き、法をひろめ、救いの手を差し伸べることでなければならないという点、その点に関する限りは、私は池田大作の反駁に対していささかの賛意を表するにやぶさかでないつもりである。

 私は創価学会は戦後民主主義の“落穂拾い”の集団であるといった。この言葉はかなり有名になったものだ。『斬る』の中でもそういう分析をしておいた。『聖教新聞』などはそういう“落穂拾い”であるという意味自体も、何んとなく軽蔑を含んでいるのではないかという受けとり方をしたものである。私は、そういう意味で“落穂拾い”という言葉を使ったのではない。いかにも形の上ではカッコよくできたかにみえる戦後の民主主義的変革といえるものも、そこからこぼれ落ちたところの民衆を救い上げる力には少しもなっていない。
 それを主観的にせよ救い上げようとした創価学会のエネルギーというものを私はむしろ大いに評価しているということなのである。その点が誤解されては困るのである。ただそういう底辺の問題にあえて手を染めた者は、当然のこととして多くの日本の宗教者が辿ってきたものすごい困難と同時に、池田自身が指摘するような堕落の運命とをあわせてもっているということをユメ忘れてはならないのである。

 いまの日本で底辺に法を説くことはやさしい。説くだけなら自由だし、妨害はない。この底辺の大衆エネルギーを利用することはもっと易しい。ちょつと利用しただけでも結構りっぱな“宗教”ができあがるのだ。そして見事なる大伽藍もつくられ、多くの信者がこれに参り、末寺まで組織され、結構その“宗派”は栄えてきている。しかし本当に日本の底辺に分け入り、その苦悩を救い上げようとした人の魂はそうすることによってどれだけ生かされていることであろう。法然の精神、いまいずこにありやであり、親鸞や日蓮の精神、いまいずこにありやであり、イエス・キリストの精神、いまいずこにあるのであろう。

 問題はむしろその点にあるのである。創価学会は池田大作自らが自己変革といいながら、現在の時点においてすでに過去の堕落した既成宗教の長い歴史をまこと短いサイクルで経過したといえるかもしれない。そしてすでに日本のさまざまな宗教が歴史的にくり返してきた同じような堕落と頽廃の時点に自分自身が立っていないとはたして本気で考えているのであろうか。
 そこにまず池田に対して問いつめてみる重大な問題があるのである。
     ----------(つづく)---------241

コメント
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