創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか-10

2020-04-25 09:10:21 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------47

◆ まだまだ人事権、財産権は池田の掌中に
藤原 会則は変わったけど、人事権は池田が握っとるんだろ。

内藤 それは池田大作さんがオールマイティよろしく、全部握ったままになってる。その辺も部外者のわれわれには不思議なことの一つです。

藤原 今度副会長をクビになった福島源次郎なんてのは、池田の腰ギンチャクだといわれていたが、その後どうなったのかな。

内藤 その辺はよくわかりませんね。ただこの福島という人は、宗門と創価学会の闘争の最前線にあって、池田さんの意向を代弁していた人だけに、本当は“冷やメシ”を食わせるのも難しいでしょうけど。

藤原 池田べッタリで、大石寺とのケン力大将だからな。池田が引っこめば行き場がなくなる。

内藤 福島元副会長は、池田さんの書いた『人間革命』を現代の御書であるといったり、池田大作さんをあたかも日蓮大聖人の生まれ変わりでもあるかのように、演出してきた人だけに、創価学会が“池田教”として独立していれば大功績だったでしようけど。
 しかし、なんといっても致命的だったのは、池田さんが長年の宗門との抗争に決着をつけるために、昭和五十三年十一月に学会幹部約二千人を連れて大石寺にお訖びに行き、当時の曰達上人も「池田会長の信心を信頼して」ということで、一応の妥協をした後の言動ですね。
 特に昭和五十四年三月の福岡県大牟田での、ぼくはこれが池田さんのホンネだと思ってるのですが、“大牟田失言”事件ですね。
 これは、三月六日に、創価学会の大牟田会館で大勢の学会員を前にして「坊さんがガーガーいってるのは、カツラなどをつけて酒を飲みに行ったり、御供養を派手に使ったりするのを、われわれがたしなめたため、いいがかりをつけてきている」と宗門との対立を説明しているのです。
 さらに、よせばよいのに念押しして、これは自分一人ではなく副会長全員の一致した見解だ、とつけ加えているのです。「池田会長さんの姿をみかけると、学会員が“ワーッ、会長先生だ”といってかけよるのに、日達猊下(故人)には、どこかのオジイサンが歩いている、といった調子で見むきもされない、それで坊さんがシットしているんだ」
 「本山への登山にしても、まるで旅館業のようになんでもカネをとり、髙ぃ。これに比べると学会の会館ならタダで、一銭もとられない」と、文字通り、彼らのホンネをぶちまけたことにあるんです。
 結局、今回の池田会長辞任にしても、この福島発言がダメ押しとなったようなところもあって、断定はできませんが、もしもこの発言がなければ、だいぶ様子は違っていたかも知れない。
 とはいっても、池田さんにしてみれば、最も可愛がっていた人物ですから、失言したからといって、完全に干してしまうわけにはいかない。その辺が悩みなんじやないかと思っています。

藤原 学会の財産は二兆円とも三兆円ともいわれているが、大石寺との抗争も、結局はお互いが自分の金だ、オレの金だ、といい張ったところにあるわけだな。

内藤 今度の学会の会則変更でも、学会批判派の僧侶たちや信徒団体が指摘していることの一つが、その点ですね。例えば、規則の三十五条には「この法人解散後の残余財産は、役員会においてその定数の三分の二以上の多数の議決により決定されたものに帰属する」となってますが、その役員会の人事権を池田大作さんが握っている以上、自分の意見に反対するものを任命するわけはないから、事実上、池田大作さんの思い通りになってしまう、ということです。
 宗門側としては、便宜上、創価学会が宗門とは別個の宗教法人になることを認めはしたが、日蓮正宗の信徒団体であり、信仰の対象である。“ご本尊”や“教義”の展開もすベて宗門に頼っているではないか、ということになる。しかも創価学会の財産のすべては、一般の学会員がこの“ご本尊”さまに“供養”したものである。したがって仮にの話、将来創価学会が解散することがある場合には、すべての財産は日蓮正宗宗務院に帰属するとはっきり明文化せよ、と強く主張しているわけです。

藤原 坊主ってのは基本的に欲張りなんだから、仏さまで集めたものは仏さまがもらうべきだ、しかもタダでもらうべきだ(笑い)というのが、彼らの確固とした信念なんだから、必ず執拗にやってくるよ。

◆ 「最高教道会議」の中身
藤原 ところで「最高教道会議」というのができたそうだが。

内藤 これは先ほどもいいました「日達上人が死んだのは、バチが当たったからだ」と、学会の下部でいわれたりするのをチエックしょうということと、それともう一つは、学会のホンネとタテマエの違いというか、教義の逸脱を常々チェックし、修正していこう、ということでつくられた組織です。

藤原 そこで池田大作は大謗法であるとか、そういった戦前でいえば内閣に対する枢密院のようなチェック機能までは、ないんだろうね。

内藤 池田大作さんはここには入ってないんです。名誉会長はメンバーに入れないんです。ただ面白いことには、宗門の中でも、とくにきびしく創価学会を批判している僧侶が何十人かいるのですが、それらを代表する数人の僧侶と学会の中でもとくに池田さんの信任の厚い若手幹部とが、密かにしばしば会合を重ねているのです。
 この「最高教道会議」が設置される前にもね。そして、そこで何が話し合われているかというと、池田大作さんが会長を辞めるから、宗門の方でも、いま進めている檀徒づくりを止めてくれないか、といったつっこんだことなんですね。

藤原 そうなると、この最高教道会議というのも、結局は大石寺と創価学会のナワバリ協定会議、といった感じになってくるな。
     ----------(つづく)---------51

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創価学会に未来はあるか-9

2020-04-24 09:17:15 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------44

Ⅲ 学会組織に何が起こつているか
◆ 突然の会則変更のうら側
内藤 池田大作さんの会長辞任に伴って、創価学会は新しい規則「創価学会会則」と「創価学会規則」を、初めて「聖教新聞」紙上に発表したのですが、今まではわれわれ部外者はもちろん、一般の学会員にさえ会則を知らされなかったわけで、ちょっと昔通の常識では考えられない組織だったわけです。まあ、遅きに失っした感もあるのですが、ともかく、今回、一般の学会員に会則が公開されただけでも大きな前進であるとは思う。
 ただ、例によって池田大作さんは、自分の場合は終身会長だったのを、今度は「会長の任期を五年とする」と改めさせている。しかも自分が就任する名誉会長には任期がつかずに、終身名誉会長になっている。ぼくの得た情報では、この会長と新会則を論議した一連の会合で、池田さんは、「これからの会長は五年きざみだ。五年ごとに会長を変えていこう」と発言しているそうですが、言外に、新しい会長を任命するのは、ほかのだれでもない、自分なんだ、といった自信のようなものがあって、池田ワンマン体制は相変わらずです。

藤原 会長を終身から五年にしたのは、それだけの時間があれば自分の息子を会長にできる。いわば会長にするための布石だ、といった噂もあったね。あるいは、北条は二期十年もやれば六十五歳になる。池田はその時六十一歳だし、自分がまたやるにしろ、息子にやらせるにしろ、それで十分だという読みがあるように思えるね。

内藤 この学会の会則を変えるということでも、それこそある日突然に「聖教新聞」紙上に、これからの学会の会則はこれですと、いきなり決定版が発表されるわけで、今までの会則を知らされていない一般会員には、どこがどう変わったのかもまるでわからない。その辺に、われわれ部外者には理解しがたい、常識を越えた問題があります。普通、われわれの社会常識みたいなもので判断しても、どんな組織にしろ、まず“案”が出されるはずです。
 これこれこういう事情で今回会則を変更したい、ついてはこの部分をこのように変えたいがどうかとね。そこで大衆討議にかけられ、修正意見が出されて、上の方にあがって会議にかけられ本決りになる。そういう手続きを経たうえで、その会則に拘束されるのであれば、誰もが一応納得できる。
 ところが従来までの学会では、会員にさえ会則が知らされていないんだから、一般会員は内容を全然知らない会則に拘束されていたことになり、まるで中世の農奴よりもひどい状態におかれていたことになる。その点では、今度の会則や規則公開は一定の前進があるわけですが、それでも、どういう論議があったかの、中間にかけてのプロセスがすべて闇の中につつまれており、ある朝、目覚めたらいきなり今日からこの会則でやっていきます、と提示されているわけです。ということは皮肉に考えると、池田大作さんの都合に合わせて、またある日突然会則がこのように変わりました、会長は五年制から終身にします、名誉会長は廃止して池田大作会長体制に復帰します、ということも起こりかねない。やはり根本的なところをあらためないかぎり、表面のツジツマだけ合わせてみてもダメなんですね。

藤原 外見的に一番民主的だといわれていたところが、内実において一番民主的でないわけだ。
 そこには、検討の余地もなく、代案もない。相対化されたのは大作の人気だけで、集団指導制にしたといっても、組織の根本理念が変わらないかぎり、なんの変化も起きてこない。

内藤 形式的には最高幹部クラスを集めての会議のようなものはあったのでしようが、内容が今までと同じで、すべて“殿ご一任”主義ですから、池田大作さんが「こうしよう」といえば、すべて「ハイ、そうしましよう」といいなりになる組織である以上、実質的には単なる事後承認、報告会のような会議でしかない。

藤原 つまり上から下までやはりタテ一本の線だけでつながった組織なんだな。
 外部に対しては大衆討議みたいにしてるけど、内部については何もない。座談会方式をとり入れたり、信者獲得のために、いろいろ大衆討議らしきものをとり入れてはいるが、内容は一方通行の報告会だからな。こういうご利益がありました、入信したらこんなに得がありました、という“欲と得”の報告会なんだ。それでちょっとでも外部から批判すると、すぐに大謗法ということになる。ぼくなんか、ずい分と非難されたらしいよ(笑い)。
 昔の軍隊、あるいはゲー・ぺー・ウーの組織と非常によく似ていると思うワケね。だから組織化すればするほど、創価学会というのは、組織としてはダメになっていくんだよ。
     ----------(つづく)---------

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創価学会に未来はあるか-8

2020-04-23 07:11:29 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------38

◆ 興から亡の時代へ
藤原 これからどういう形で生き残るにしろ、やはり率直にいえば、池田大作の時代という、一つの時代は終わったんだ、といえるなぁ。

内藤 どうやら、そのようですね。だからぼくは創価学会にとって“興”の時代が終わって“亡”の時代に入ったと。藤原さんはもっと前からいっていましたが、あれにはずい分学会の人たちは力チンときていたようですよ。絶対に“亡”はない。もし、“亡”にならなかったら、内藤さんはジャーナリストとして責任をとれ、という声も耳に入ってくる。

藤原 ぼくは、すでに“興亡”を論じる時代から“末法”“滅法”の時代に入ってるんじゃないか、といったと思うんだが(笑い)。

内藤 興亡の亡の時代に入ってる、というのは、実は、ぼくの観方というよりも、学会の幹部がぼくにそういってきてるんですよ。

藤原 それは“政教分離”を口にした時に、既に起こっているんだ。たてまえ上も、戦後の国家の最高機関である国会・公明党という尖兵を送って権力とつながっているんだ、といった立場をとっていたのが、日蓮正宗のいうところの現証になっていた。
 ところが、たてまえ上もこれを別にしなくてはならない、ということになると、一つの力が二つに割れてしまう。当然、社会的なインパクトの力が弱まる。池田大作にしても、外見上は皆が押してくれれば政治に出てもいい、といったポーズだったが、内心は猛烈に政界に出たかったに違いない。それが、あの言論妨害事件でチャンスをつぶしてしまった。
 他にも、折伏と選挙が今までのようには直結できないというマイナスも出てくる。彼らの選挙活動、布教活動にはものすごいマイナスになっていることは間違いないなぁ。

内藤 もうひとつはリーダーの継承の仕方がある。東本願寺の場合は、親鸞上人の血縁が代々リーダーを続けているわけでしょう。その血を引いた人で、何代目かにバカ殿様が出てくると、必ず東本願寺は揺れたりする。今の十年扮争も、そういう揺れ方でしょう。
 血縁者が連綿として続く、というのもトラブルのもとになりうるけど、今度の日達上人から阿部上人への継承にみられるように、日蓮正宗では血脈相承といって、他の宗教団体にはない継承方法をとっている。これは我々の正しさの証明なんだ、と自慢しているわけですけど、ようするに血縁でなく、信仰のつながりでリーダーが継承されていくのが特徴です。
 まったく同じことが創価学会にもみられるわけで、もし池田大作さんが自分の息子を次の会長にしょうと画策したりすると、きっとトラブルが持ち上がるに違いない。というのも、池田さんが死んだから現在の北条会長が選ばれたのではなく、池田さんが自分の誤ちを一切認めずに、あいまいに形式的に引退のポーズをとったので、そこにいろんなマサツが生じる。
 全宗門が批判しているのも、池田大作さんは間違いを犯したんだということを、学会員にもっとはっきり知らせろということです。 今のように池田大作さんはあくまでも正しかったんだというのでは、じゃあなぜ会長の座を降りねばならなかったんだ、という素朴な疑問にさえ答えられない。
 そういった意味では、ぼくは自民党の派閥抗争の方がまだしもましだろうと思うんですよ。
 というのも、自民党の場合は、ともかくも我々の眼に見えるわけだ。次のリーダーがなぜ三木さんから福田さんになり、さらに福田さんから大平さんになったかが国民によくわかる。そういう派閥のリーダーの選ばれようが必ずしも百パーセント正しいというのではないが、自民党に派閥があるのはマイナスだけではない。派閥間抗争が公然化し表面化しているのは、シニカルにいえば自民党の良さ、安心できる面でもある、とさえいえる。
 ところが創価学会の場合、リーダーが池田さんから北条さんに突如変わる。しかも、その背景や理由は、あいまいにぼかされたままだ。とすると、我々にはかえって、眼に見えない裏面での陰惨な権力闘争のような疑惑さえ感じられてくる。

藤原 池田は自分の子供を、本当に会長にしたいと思ってたのかネ。

内藤 少なくとも一時期、創価学会の内部では意識的に演出されていましたからネ。池田さんの出席できない集会や会合に、会長代理ということで、かなり頻繁に顔を出したりしていましたから。

藤原 惜しいというのは、財産だろうし、権威だろうし、今日の学会を自分でつくったという意識だろうネ。
 だいたい日蓮という人物は、生涯で数えきれないほど予言しているんだが、例の元寇以外は全部はずれているんだ。ところが、どんなに予言がはずれても、基本的には絶対間違いを認めない。そういう無謬性の信念が日蓮の原点にある。だから日蓮正宗というのは、最終的には一人一派、一人ずつでしか担えないのじやないかと思う。ところが日蓮のある面での偉大さは、一切の宗派を作ることを否定している点なんだ。大作はこの日蓮の教えに反する大謗法ということになるんだ。

内藤 宗教とか信仰というものは、一人で信心すればいい、というのを否定したのが創価学会なんですよね。彼らは集団で信じることを重要視し、集団化して、集団で酔って膨らんでいった。ところが、宗教の根本は一人になっても信じるかどうかである、その辺にもジレンマがあるようです。

藤原 日蓮の時代は、宗教と政治という社会的な力というものが一体であるのが普通だったんだよ。宗教それ自体は一人一人の内面的なものが原点であるとすれば、日蓮宗というのは、それをブチ破ろうとしたところに、あの時代における画期的な意味があるんだ。そこが日蓮宗と他の宗教との根本的な違い、独自性でもある。日蓮は大師になりたかったし、鎌倉幕府のコンサルタントにもなりたかったと思うんだよ。
 そうしないと、自分のいっていることすべてがダメになったんで、身延へ引っ込んでしまった。そこで今度は国立戒壇へもっていかなくちゃいかんと、新しい使命感はもっとるんだ。
 だから創価学会としては会員をふやし、信者をふやし、公明党をつくって権力に肉迫して、そういうことを正当化せざるをえない。
 そこへあの言論出版妨害事件で、たてまえ上は分離して別のものになった。そうすると、今度はどんな現証、ご利益を与えるか、といった新しい難題が残されてくる。

内藤 そうすると、やはり言論妨害事件以後、亡の時代に入ってるということになりますか。

藤原 ぼくはさっきもいったように、十年も前から亡だと思っている。むしろ今や末法、滅法だよ。どんなにかざりたててみても、中身はゴミのようなものさ(笑い)。
     ----------(つづく)---------43

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創価学会に未来はあるか-7

2020-04-22 07:26:31 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------35

◆ 池田大作の一つの“時代”の終わり
内藤 これからの創価学会にとって一番頭が痛いのは、池田さん自身が院政をしくつもりで辞めたのは動かぬ事実だとしても、しかし現に北条さんが会長になっているわけですから、これをあんまりないがしろにもできない。その辺をどう調整するかで、しばらくは揺れ続けるんじゃないかな。
 というのも、創価学会の中では現在でも“お師匠さん”と呼ばれるのは、相変わらず池田大作さん一人しかいない。北条さんから教えをうけようという気持も、一般の会員にはほとんどない。
 現に池田さんは、インターナショナル日蓮正宗の会長はいまも続けている。
 こうしたいろんな情報を総合すると、創価学会というのは、第三代池田時代から第四代北条氏へと移行したのでは、断じてない。おそらく、五年後にはまた復帰するか、あるいはほかの人を任命するということもあり得る。大作さんが人事権を握っている以上はネ。

藤原 池田だけが唯一の先生である、日蓮正宗の正しい解釈者である、といった考え方はどうなのかねェ。彼の著述というのをいくつか読んではみたが、自分なりの解釈というか新しいところが少しもない。ただし、演説はなかなかうまいな。教義を適当にワサビのように入れながら、天下国家や世界情勢についてアジテーション的に話せるのは、今の創価学会では池田以外にはいないのも事実だろう。

内藤 結局“裸の王様”なんです。みなが懸命になって、偉大さを演出してるわけだ。学会を辞めた人たちがぼくに話してくれるのは、たしかにある時期までは、池田大作会長に会うとジーンとしびれて、人生意気に感じて興奮するようなところがあったというんだ。

藤原 その辺の演出はじつに念が入っている。やはりヒットラー登場の演出に似ている。

内藤 演出されたものとはいえ、そうした能力というか、魅力がだんだんうすれていったんじゃないか。このままうすれていったんじゃ、創価学会にとっても決してプラスにならない。かといって、裸の王様にカムバックでも困る。そこに現在の良心的といわれる一部の幹部たちの悩みもある。

藤原 ぼくはこう考える。政教分離というのは政治という形において与えられる一種のパワー、つまりポリティカル・パワーのドスがきいていたのが、十年前にもがれたということ。今度は、創価学会の終身会長から名誉会長に移行することで、もっと浮いた形になった。そうすると、あれだけのマンモス組織が、宗教法人としてはけっこう商法的な営業という集団の論理で動いている以上、なんといっても現職の会長になっている方が日常的には強いよネ。いくら院政といっても、必ず分解作用が起こってくる。とくに新会長の北条浩というのは、海軍兵学校出身の実務派で、常識的な男だ。こういうタイプは、組織を守る時は強い。
 おそらく、表面上は大作をたてながら面従腹背の組織運営をやる可能性が強い。

内藤 ともかくも、非常に不自然な形態ですネ。ぼくは、現在の形態は池田大作さんの意図に反したものであると見ている。完全に引退して、どうぞ創価学会は皆さんでやって下さい、という状況じゃさらさらない。
 せっかく自分の力でここまで大きくした組織だという気持ちもあるだろうし、会長を退いてから実務から離れるにしろ“名誉”の二字をつけて、内部的にはさらに偉くなったんだと演出させておきたい下心もある。しかし、三年、五年といった時間の経過によって、当然池田大作という人間個人のイメージも薄れていかざるを得ない。
 そのためにも引っ込みぱなしにはならず、今のところは外交面が中心だけど、いずれ、もっと表にも出てくるといった、池田大作氏の試行錯誤が続くに違いない。
 現在のところは、自分の出番を外国関係の表敬訪問を受け、それを「聖教新聞」に載せていくことに限っているようですけど、一般の学会員が池田大作氏に求め期待しているのは、そんなイメージじゃない。
 今までのように獅子吼する形で指導し、引っぱってほしいということなんです。

藤原 そういう意味で大作はやっぱり獅子吼型なんだな。

内藤 北条さんはそうじゃない。吶々型。今、形態としては集団指導型なんだけど、じゃあ、集団指導の中で誰がまとめ役になるのか、そういうことでも、創価学会自身がいま迷いに迷っているんじやないでしょうか。
     ----------(つづく)---------38

 

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創価学会に未来はあるか-6

2020-04-21 07:55:51 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------30

Ⅱ 池田は辞めたのか、辞めさせられたのか
◆ 池田無謬説の崩壊
内藤 “池田会長勇退”の衝撃的なニュースが流れた時、創価学会員の多くは「法難を一手に引き受けられようとする会長・池田先生がお可哀そう」と号泣し、逆に、反創価学会派の僧侶や脱会した檀徒たちは「御本尊様は、やはり正しかった。さらに闘うのみ」と、気勢を上げた。
 藤原さんが公明党の矢野書記長と雑誌『現代』で対談されているのを読みましたが、やはり、自分たちの側近幹部の補佐が足りなかったためだ、といったようなことをいっていましたね。そこには、池田さんの“無謬説”というか、過去・現在・未来をすベて見通して、決して間違わない、“生きた仏”説への反省が少しも感じられない。
 ぼくがかって、『公明党の素顔』を書く気になった動機の一つは、あの言論タブーと同時進行みたいにしてあった、マスコミ界の“池田大作英雄論”の大賛辞、大合唱ですネ。とにかく、学者、評論家、ジャーナリスト、経済人それこそうんざりするくらいに、百年に一度出るかどうかのスゴイ男だ、偉材である、とほめたたえている。それに対して、ぼくはとても危惧するというか腹が立ったんだ。
 日本人というのは、少しも進歩していない、その意識構造がネ。これではまるで、戦前の“大東亜共栄圏”や“聖戦遂行”の音頭とりとまったく同じになっている。少数意見、少しぐらいは疑問を提起する人が一人もいない。それがジャーナリストとして、あの『公明党の素顔』を書かせるキッカケになったんです。

藤原 そんな完全無欠な人間がいるわけがない。それ自体が大変な神格化なんだ。どいつもこいつも歯の浮いたようなことばかり書きおって、それだけでも言論人として人間失格なんだよ。

内藤 ぼくが池田大作さんを個人的に信用しないのは、あの事件のとき「いずれ関係者に会っておわびしたい」といってることだ。別に会いに来てほしくもないけど(笑い)。その後、雑誌『現代』の編集部を通し、あるいはそれ以外のいろんなルートも使ってインタビューを申し込んだけど、内藤じゃダメだと会おうともしない。これじや、まるでいってることとやってることが正反対だものネ。

藤原 ぼくだって『現代』を通じて何回も申し込んでいる。わかりました、わかりましたで、いっこうに実現しない。

内藤 ある雑誌で評論家の俵孝太郎さんと対談した時にもこの話をしたんですが、やはり俵さんも全然会ってもらえないそうです。名ざしでくるんですよネ、これこれの人とは会いたくないからと。客観的、冷静にインタビューしょうとするジャーナリストとは会いたくない。創価学会に好意をもって、いいことばかり書いてくれて、お世辞ばかりいってくれる人にしか会わないなんて、人間が小さいよ。

藤原 そういう意味では、池田なんてまあガキだネ。大作ではなくて小作なんだ。ぼくの『創価学会を斬る』の時だって、東急の五島昇を仲介にして、“平和条約”を結びたい、と向うから申し入れてきたんだから。こちらだって一個の大人だ。相手が頭を下げてきてるのに、ソッホ゜向くわけにもいかないから、条件を出したんだ。創価学会は政教分離をし強引な折伏を止める、組織上、法律上、創価学会・公明党の分離さえ明確にしてくれるならばいい、こっちは個人的な憎しみがあるんじゃあないんだから。ところが、発表の前日になって断わってきた。五島の前で泣いて許しをこうたというんだがね。ぼくだって五島だって、まずはあきれちやったからねェ。

内藤 そういう意味でも、池田大作さんというのは、二重人格、三重人格の人だと思う。一番目立っているのは、学会員や大衆の面前に出たときの池田さん。学会員や大衆にいわせれば、たぐいまれなる指導者とされている部分なんですが、たとえば演説する際に、「みなさん、そうじゃありませんか」なんて問いかけながら繰り返す、暗示法なんてじつに見事だとしかいいようがない。ところが「言論出版妨害事件」のあとから、だいぶ内部の様子がわかってきた。
 どんどん情報が入つてくる。それも、池田さんの側近幹部といわれるような人までが、こっそり会長の言動を知らせてくるんだ。そういうことで耳に入ってくる池田さんというのは、“ジキル博士とハイド氏”くらい人間が違っている。大衆の面前での池田さん、ごく側近の幹部の間での池田さん、われわれマスコミに対応するときの池田さんと、まるで別人のように変わる。
 ぼくなんか初めにこの話を聞いた時には、池田大作さんが三人いるんじやないかと思ったくらい、全然違った人格なんだ。それくらいだから、内部にいる幹部たちにとっては、とてもやりきれない。

藤原 いままでは、ソ連のかってのゲー・ぺー・ウーみたいな組織で、内部からの離反者は一人もいないと安心しきっておった。ところが、末端どころか権力の組織の中枢にまで心の離反者が出てくるようになると、もうこれは末期的な症状だな。

内藤 彼ら側近が池田大作さんに直言すると即座にクビが飛ぶ。だけど、内藤国夫にそっと匿名で教えれば、内藤が書く。書いたことで、直言と同じ効果があらわれる。そういった意味でぼく自身は、創価学会・公明党の安全弁になりえたと思っているし、池田退陣の一つの大きなキッカケにもなったのではと、自負もしています。

藤原 たしかに池田退陣には、内藤君のインサイドレポー卜が大きかったと思うな。あの内容はしっかりしているし、すべて内部の人間じやないと知り得ない情報だ。当然、内部からの「密通」ルートだろうネ。

内藤 いずれ、将来になって公表できる時代が来るのが一番望ましいと思うんですが、現在はやはり、ちょっと無理で--。
 しかし、結果的には正しい情報を得ていたと思うんです。というのは、約二年くらい前から、側近幹部の人たちが口グセのようにいっていたのが、“なんとかして、現在のようなワンマン独裁体制の度合をうすくして、集団合議制にもっていきたい”といった願いなんです。いってみれば日本国憲法のようなもので、池田さんは実権のないシンボルになってもらう、という。結果的には、いま、それに近い形になってきつつあるわけですが、そういう側面から考えると、池田さんは辞めさせられたといえる。同時に、宗門としては池田さんが自己批判さえしてくれれば、なにも会長まで辞めてくれということじゃなかった。
 ところが、池田さん自身が責任をきびしく問われる会長職への情熱を失くしてしまったのか、責任逃れのために、肩書だけとっちやおう、ということになった。この面から見れば、自分から辞めたということもいえる。

藤原 必ずしも、完全自発的でないことは明瞭でしょう。法華講が退任勧告を出してきたり、ご本尊を握っている大石寺が決定的に大攻撃をしてきた。そこで、大作自身ももう長くはないぞと思った。となると、その前に法皇的な地位としての名誉会長に退いて、規則を変えて、終身会長だったものを五年制の会長にする。どうせ北条だったらオレのいう通りになる、勝手なことをやったらただじやおかないぞ、とニラミもきくだろう、という判断はあったと思う。だけど、辞めた時の記者会見の模様などを見てると、なにか妙な余裕をもって計画的にやったフシがある。きっと、内部では意外なことが起こってはいるんだろうネ。
     ----------(つづく)---------35

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