創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-32

2017-06-28 07:50:12 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(186P)---(以下本文)-------
4-2
「永遠の生命はまだ思索中」の先生
 5月、福岡の立正寺で学生部大会が開かれた。九州第七部の新部長は山口総司(後の広報室長)。
 佐賀、長崎県はその下に配属された。会合が終わった後、九州第四部長の広田誠一(のち聖教新聞総支局長)が語った。
「本部総会で僕は会合の内容をそっちのけで池田会長が本当に日達猊下のことを信じているのか、この目で確かめようと思った。しかし池田先生にはみじんも演技のそぶりは見えなかった。ひたすら日達猊下に信順されていた。僕は池田先生は心の底から本物だと思つた」
 私は池田先生のことが気になり始めた。
 九州本部で学生部のグループ長会があった。私は「池田先生はいつ永遠の生命を覚知されたのですか?」と質問した。 学会本部から派遣された藤原道宏常任幹事らが「永遠の生命に関しては池田先生はいま思索中なのです。」と答えた。 私は驚いた。
 池田先生は「悟り」など得ていないといったのに等しかったからだ。
 五月の本部総会で池田先生は衆院選進出を決めた。
「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない」と永村先生がうけあってからまだ一年も経っていない。なんだか釈然としない。しかし身体はグイグイ衆院選へからめとられていった。
 6月30日第7回学生部総会、初めて上京した。席上池田先生は本門戒壇を論じた。私は台東体育館の3階の片隅で遠く壇上を望んだ。はりのある力強い声だという以外、取り立てて言うほどの感想はなかった。私は「池田先生はすごい」という感激の輪から遠いところにたたずんでいた。
 総会終了後、信濃町の学会本部でグループ長の面接を受けた。
 7月5日聖教新聞一面でグループ長に任ずると発表された。
 10月11日、佐賀会館の入仏式。以後会館警備で月に4~5回泊まることになる。
 学会は500万世帯を突破。一年半の間に200万世帯の折伏か。爆発的な増加だ。だけど佐賀はほとんど増えていない。よほど他が頑張っているのだろう。
 11月23日、公明党北九州大会。私は土橋班長、平島班長と若戸大橋を渡って原島宏治委員長の講演を聞いた。
 12月9日、その原島理事長が亡くなった。ショックだった。

昭和39年「本門の年」から異軌道に入る
 日刊化された聖教新聞は衆院選に向けて大きな紙面を割き始めた。タダでさえ忙しい学会闘争に、衆院選挙というこれ以上ないくびきがかかった。
 しかし学会員は選挙をするために入信したのではない。それぞれの悩みを解決するために入信した。いわゆる「貧・病・争」をどう解決するか。
 池田大作の思想は、下部構造ともいうべき個人の貧・病・争の前には有効性を発揮できないでいた。
 広宣流布の現場は厳然と戸田思想が支えていた。
 池田先生はかずかずの講義録で世界を縦横に説明した。
 だが教学は世界を解釈するためにあるのではない。御本尊に対する信を開くためにあるのではないか。教学で学会再建を果たした。戸田城聖は「教学をやっても成仏とは関係ない。成仏は大御本尊様を信じて勤行、折伏に励むところにある」と言いきった。
 教学は言ってみれば薬の効能書きである。薬の本体は本門戒壇の大御本尊様である。戸田城聖は効能書きを懇切に説いた。薬をどう飲ませるかにはさらに腐心した。そしてなによりも御本尊に対する人々の信を揺り動かした。それだけの何かを戸田城聖は持っていた。「折伏大行進」が時代を揺り動かしたのは戒壇の大御本尊に対する信を胸に庶民が歩き始めたからである。
 仏教史からいえばこれは新大乗仏教運動と呼ばれてしかるべき性格を内包していた。
 この運動の推力は常に原点回帰するダイナミズムにある。
 池田先生は「大聖人の昔に還れ」と掛け声をかけたが内実を政治運動に転換させた。新大乗興起運動は世界史の軌道に乗る前に推力を失つた。
 政治の場は人の理性では制御できないほどの欲望が渦巻いている。だからこそ戸田城聖は創価学会の衆院進出を封じたのだ。
 この質的変換のツケが出てこないわけがない。
  5年後に言論出版妨害事件、それから7年後に第1次宗門乗っ取り事件を起こし会長を辞任、さらに13年後、第2次宗門戦争をしかけて第六十七世日顕上人猊下より破門される。
 創価学会は日蓮正宗の軌道から外れはじめ、昭和60年にはフランス国民議会から「創価学会は力ルト宗教」と呼ばれるまでになった。恥ずかしい。

「師匠に帰命する」闘いと第一庶務
 昭和44年7月、おそらくは創価学会最盛期の頃、私は外資系の会社を退職し、九州本部に出勤した。所属は庶務部。
  8月、就任早々の福島源次郎男子部長が職員朝礼で「師匠に帰命しきる信心を確立せよ」と指導した。師匠に生命をすてよ、と言った人に初めて会った。私の心は共振するようにふるえた。
「常に師と倶にあろう」と思った。私は池田先生と歩きはじめた。
 11月6日、九州文化会館が落成した。
「師匠をお迎えする戦い」は壮絶なものだった。私は1か月の間ほとんど家にかえらず準備に当たった。睡眠不足の身体がヒメイをあげていた。
 当時の第一庶務室長は中西治雄氏。第一庶務は1階の事務局に陣取る。女性職員は第一マルジョと呼ばれ、5階の会長専用フロアの一室に控える。そこが先生との中継点になる。「先生はお寝みになりました」と最終電話が入るまで私は報告書を持って5階まで上り下りした。夜間は先生の騒音になるとエレべーターの使用は禁止された。
 報告書には先生の細かい指示が赤鉛筆で記される。聖教新聞のゲラまで先生が目を通す。時には自ら朱を入れる。
 池田先生はすべての情報を掌握し、最高幹部から一会員にいたるまで信賞必罰で臨んでいた。これを統括する第一庶務には副会長でさえ頭が上がらない。
 その日、九州文化会館の屋上にアーチエリーの試射場をこしらえた。
 池田先生は軽々と的に命中させた。私は矢を拾っては届け続けた。
 あとで「あの若者は?」と聞かれたという。私は先生の目にかなったようだ。以後池田先生の九州指導のたび、第一庶務に編人された。先生の側にいると緊張の連続だったがうれしかった。飛び切り上等の笑顔に接するとどんな疲れも吹つ飛んだ。
(※5代にわたり第一庶務室長に仕えた。8年目の夏、九州青年部長に任命された。当時学会本部長だった福島源次郎副会長のところに挨拶に行くと「おめでとう! 先生の直々の人事だよ」といわれた)
 45年11月7日、池田先生は霧島研修所の視察に向った。「霧島を創価王国にしょう」と本館に次いで火の国道場を建設した。ミョウバン温泉の泉質が気に入り全国から幹部をよびよせた。長逗留が続いた。私はひと月以上先生のそばに仕えることが珍しくなくなった。夢のようなまぶしい日々。
 池田先生の朝夕の勤行の際は経机まで焼香台を運んだ。
 池田がおかしくなったのは勤行をしないからだという人がいる。私の見た先生は朗々と勤行をしていた。
 (※「その先生がなぜ狂ったのか?」と問いかけたのは福島源次郎元副会長であった。
 平成元年8月、我が家を訪れた福島氏は「池田先生の妙法観、本尊観が違っていた。信心の血脈が違ったからこれほどの大狂いになったのです。」と語った。師匠に仕える道を教えてくれた人の言葉に私は驚いた)
       ---------(191P)-------つづく--

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