創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-33

2017-06-29 08:03:41 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(190P)---(以下本文)-------
4-3
言論出版弾圧事件で折伏停止宣言
 昭和44年12月、衆院選挙で九州は2名増の6名が当選。全体で47議席獲得した。自民党は創価学会を「無視しておけばよい対象から、アメとムチ、懐柔と強圧の手段を駆使せざるを得ない相手」と態度を変える。
 年末、赤旗が藤原弘達著の『創価学会を斬る』を田中角栄自民党幹事長らが出版中止を要請していたと暴露した。
 明けて昭和45年。共産党だけでなく社会、民主両党も追及に乗り出した。新聞は連日連夜創価学会批判の嵐。
 池田先生は第33回本部総会で陳謝し、創価学会と公明党の役職の兼務をなくす政教分離宣言をした。「国立戒壇建立」をひっこめ総体革命路線を打ち出した。
 そのうえ、「折伏停止宣言」までした。「これでいいのですか」と福島副会長が聞いた。先生は「これ以上折伏はできない。手持ちの750万世帯で天下を盗る」当時の統監上の実数は230万~250万世帯。これを原資に集票作戦に専念させれば天下が盗れると吐をくくったらしい。一切衆生の救済はどこに行ったのか。もはや宗教者の発想ではない。

逆風の衆議院選挙で長崎一区を担当
 昭和47年正本堂建立。
 九州学生部長だった私は10月結婚した。新婚旅行から帰ると、仲人でもあった館野幸延九州青年部長から「急に衆議院解散選挙になった。君には長畸一区を担当してもらうことが九州執行会議で決まった」と言われた。「いつからですか」「明日から。長崎会館で寝泊まりして指揮を執ってくれ」
 新妻は「選挙未亡人」と茶化されていたらしい。
 言論出版弾圧事件の逆風が強い。厳しい戦いになると思った。運よく長崎一区は当選した。公明党は29議席へ激減。大敗北だった。
 昭和48年正月2日。大石寺に初登山した。
 戒壇の大御本尊様の御開扉が終わって休憩していると、館野九州青年部長から「男子部でアメリカのマリブに研修生を出すことになった。10名なんだけど、小川さん、そのうちの一人は君だと池田先生からお名指しだったよ」九州幹部はみな驚いた。私も驚いた。パスポートがない!--。
 出発は3月9日、と決まった。

ご褒美でアメリカマリブ研修所視察
 霧島研修所本館の大浴場には7つの浴槽がある。池田先生は側近幹部と風呂に入った。浴槽に腰を掛け、みんなは湯船につかって話を伺う。私はお湯を浸したタオルで肩などを温めた。
 脱衣所では先生の汗をバスタオルでふきとる。先生はかるく足を挙げた。「あ、パンツをはかせろということなのかな」そのようにすると、素直にパンツをはいた。少しドキドキした。
 やがて山崎正友顧問弁護士が来て案件の報告をして去った。
 二人っきりになったので「先生マリブ研修メンバーに選んでいただきありがとうございます。あさって羽田から出発します。」「そうか。いってらっしゃい。アメリカ創価学会の良いところも悪いところも全部見てらっしゃい」「すると11日の学生部総会には君はいないんだ。さびしいね」と言われた。
「先生はお部屋に帰られました」と伝えると浴槽の側近たちは急にリラックスした。
 NSA (日蓮正宗オブアメリカ)の10日間の海外視察を終え3月18日帰国した。
 さすがに3000名の青い目の仏教徒を正本堂に率いてきたウイリアムス理事長である。統率力は見事だった。
 3月21日、九州青年部総会。出席するため九州文化会館に到着した池田先生から五階の和室に呼ばれた。私はアメリカ視察の報告をした。
「マリブ研修所の完成に向かって青い目の人たちが突貫工事をしています。先生を求める求道心には驚きました」
「そうか、でもアメリカにばかり行っているわけにはいかないからな。ところで、お金は足りたか?」
「足りました。でも貯金もなくなりました」 おや、という茶目っ気のある顔をして1万円のお小遣いをくれた。
 この時池田先生は「手裏剣のように小回りの利く新聞がほしい」と福島副会長に提案した。「九州から池田本仏論の総仕上げをしろ」という意味である。そこで誕生したのが「火の国」である。
 この「火の国」の論文が日達上人猊下の厳しい破折をうける。
「最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります」(昭和49年4月25日)
 昭和49年7月ごろ池田先生は日達上人猊下に謝罪した。これが強い怨念になって宗門制圧にのり出す。

池田大作第一次宗門制圧に乗り出す
 昭和51年12月の衆院選挙では再び長崎1区を担当。今回も当選させる事が出来た。全国で56議席。大勝利だった。
 年が明けて昭和52年1月15日、教学部大会。池田会長は「仏教史観を語る」を講演した。宗門からの独立宣言である。
 翌日の伸一会総会で野崎勲男子部長は「第2の身延離山も辞せず。諸君は覚悟してことに当たっていただきたい」と宣ベた。
「事に当たる」とは宗門の僧侶からわび状を取ることである。また在家も供養が受けられるとして特別財務を実施することである。野崎男子部長は私に「僧侶を攻撃し、末寺を味方にする。総本山の手足をもいで兵糧攻めにすればお山も頭を下げてくる」と話した。お山が頭を下げなかったらどうなるのだろう。
 私は3月から熊本、大分の特別財務の担当をした。熊本で20億2900万円、大分で13億9000万円集まった。二県だけで7年前の全国財務総額29億8311万円をはるかにしのいだ。
 私は、全県から集められた段ボール入りの現金を熊本会館の会長室に運んだ。その中で一人で寝た。
 7月17日、野崎男子部長より学会本部に出頭せよと電話が来た。組織センターにつくといきなり「小川頼宣! 九州青年部長だ!」といわれた。ハトが豆鉄砲喰ったような顔をしていたと思う。
 この頃すでに日達上人の猛破折と宗門の猛反撃が始まっていた。池田先生の旗色は急に悪くなった。
 8月、飛ぶ鳥を落とす勢いの福島副会長は池田先生から万座の中で「この宗教貴族!」と総括され失速した。福島さんも私も何が起こったのか分からなかった。
 池田先生は宗門制圧が困難であることに気がついたのだ。低姿勢で切り抜ければよいが、そうでなければスケープゴートが必要になる。
 加えて、民社党の質問主意書も勢いをそぐ原因の一つだったと聞いた。
       ---------(196P)-------つづく--

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