創価学会・公明党が日本を亡ぼす

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サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-30

2017-06-26 09:46:26 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(172P)---(以下本文)-------
2-2
◆ 創価学会の重大欠陥
 母は学会初代の本部婦人部長、文京支部婦人部長、本部副婦人部長を歴任しましたが、昔は役職にこだわる人ではありませんでした。母の視線は、いつもあたたかく、自分よりも下の役職の人、そして未人信の世間の人々に向けられていたと思います。母の入信は昭和14年、私が3歳、嵩が1歳を過ぎた頃のこと、翌年に父も入信し、二人で力を合わせて折伏行に邁進し、蒲田支部の基礎を作りました。数年前、『慧妙』紙にこのように書きましたところ、学会の怪文書『フェイク』から「嘘だ、偽りだ」との反論がありました。
 ところが他ならぬ初期(昭和30年頃)の聖教新聞の記事に、「原島先生は蒲田支部の基礎を築いた人」などと紹介されていますので、『フェイク』でもこの件についてはすぐに沈黙するしかなかったのです。
 父の人信した年か翌年にかけて隣家の白木家が、私の両親のねばり強い折伏で人信(次女のかね子さんが、後の池田大作夫人)、同じ頃、父の教員仲間の小泉隆氏、そして小泉氏の折伏で辻武寿氏が入信、次いで辻氏の折伏で三宅家が入信(これは戦後になってからですが、三宅家の次女淑子さんの紹介で池田大作が入信)という次第で、学会の草創期から我が家と池田家とは強い絆で結ばれていた(はずな)のでした。
 そして戦時下の疎開先の奧多摩でも那須の両郷村でも母は折伏行を続け、何人かの入信者を生んでいます。終戦後居住した文京区の雑司が谷では、我が家は全くの一粒種から文京支部を創りました。
 しかし、戸田会長の眼から見て、私の両親そして小泉・辻両氏も、自分のことを単に兄弟子ぐらいにしか思っていない、と写っていたようです。昭和24年の春頃のこと、私の両親と小泉・辻の両理事が、突然、謹慎を命じられました。小泉婦人に謹慎の理由を聞かれて、戸田会長は次のように答えました。「小泉は、牧ロ先生をお慕いするあまり、つくべきところを間違えているのだよ。小泉は私を、兄弟子ぐらいにしか考えていないね。私は、今はなんといっても牧ロ先生の後をうけて立っているのだからね。私は師だよ。そこに信心の誤りがあるのだ」(『大白蓮華』昭和33年7月号)
 この3年後、母は2度目の謹慎処分を受けました。謹慎の期間は3年にも及びました。その辛く苦しい経験は、母の心を、ひたすら会長に気に入られるように振る舞えば良いのだ、というように変化させたに違いありません。
 戸田会長は自分が特別な人間なのだ、という信念の由来を戦時下の獄中で悟りを開いたことに置きましたが、池田は、自分が何事にも通達してる万能な人間であることを、ことあるごとに強調してきました。私の家内は昭和40年の頃、北海道網走支部女子部の部長をしていましたが、知り合いの女子部幹部から次のような話を聞かされ、本当に驚いたと言います。「池田先生ってすごいのよ、何でもおできになるんですって。詩や和歌を詠んでも、みな一流のものをお作りになると聞いたわ」
 しかし、これら何百万・何千万冊、いやそれ以上にものぼる駄作の群が、池田ならびに創価学会の評価を完全に地に落ちさせていることを、本人が気付くときがくるのでしょうか。

〈補〉
池田大作の人心収攬術
 日蓮大聖人のお言葉に「異体同心」があります。このお言葉の意味は、老若男女、職業、境遇などの相違を問わず、多くの人々が同一信仰のもとに志を同じくして、広宣流布という究極の目的を達成するために力を合わせていくことです。 池田も当然「異体同心」の重要性を知っていたはずですが、ただし、御書の意味する異体同心と池田の意味するものとは、かなりのずれがありました。
 つまり、池田にとっては、池田の心に他人が各々の心を合わせるのが異体同心で、絶対にその逆であってはならないのです。
 もちろん、池田と交際し始めた頃の私にはまだ池田の心が分かりませんでしたので、彼の言動の真意を計りかねていました。池田と初めて直接会ったのは昭和31年の夏の夜、その前々日には参議院議員選挙が行なわれ、創価学会から立候補した白木義一郎氏が見事当選しました。その選挙参謀が池田でしたので、既述のように私は母と共に、お祝いを言うために、大田区小林町の池田宅を訪問したのです。時刻が夜半に近づき、すでに寝所にあった池田に、「先生、これで失礼します」と別れのあいさつをしますと、池田は厳しい口調で「先生ではない! 兄さんと言いなさい」と命じますので、私は少し気恥ずかしい思いはしましたが、「兄さん、失礼します」と言い直して帰途につきました。帰りの道すがら、母は笑いながら「池田さんは、私たちをお父さん、お母さんと呼ぶのよ」と言いました。とても嬉しそうでした。
 その後、私はしばしばその夜のことを思い出しては、あの池田の言葉の真意は何だろうかと考えました。そして、本当の兄弟のような仲むつまじさとまではいかなくとも、多少は弟が兄に甘えるように甘えても良いのだなと考えました。また、大聖人の御書、『異体同心事』にあるように、共に固く団結して広布の道を歩んで行こうという意味も込められているのだとも思いました。
 それから間もなく、私は池田の口利きで聖教新聞社の記者になることができ、その翌年、1月2日の池田の誕生日に、私と弟の嵩が池田家に招待され、その場で松島通子さんに会ったことは以前に記した通りです。そして、その翌年の1月2日にも、私と弟は池田家に招かれました。その時、池田は私達に向かって、「こうしてわたしの誕生日に招待するのは、わたしが特別に親しく思っている人達だけなんだよ」と言いました。その場には通子さんはいませんでしたが、湊時子さんがいました。当時、学会の女子部長で、後に山崎正友氏が、二人は愛人関係にあったと暴露したその人です。
 池田は、母と私にこうも言いました。「いつでもわたしの家に来なさい。いろんなことを語り合おうじゃないか」と。 私の池田を信頼する気持ちは、ますます高まりました。私の父母も同じ気持ちだったに違いありません。父は、この人になら、子供たちの将来を預けても心配ないと思ったことでしょう。
「いつでも会いに来なさい」と言われた私は、その池田の言葉を真に受け、母と二人して、日曜日の午前十時頃、池田宅をおとずれました。その時、池田がどんな話をしてくれたか、後で思い出そうとするのですが、少しも記憶にありません。特にどうということもない平凡な話で終始してしまったのだと思います。その翌週の日曜日の午前、母の強い希望もあり、私も、このままで話が終わるわけがないと思っていましたので、また母と二人で池田宅をおとずれました。しかし、玄関に対応に現れた奥さんのかね子さんは、とても気の毒そうな顔をしながら、「主人はまだ臥せっておりますので、また別の日に御出下さるよう申しております」と言いました。その帰り道、足取りも重く歩きながら考えました。そして池田に甘えようとした自分の馬鹿さ加減が嫌になりました。
 このことがあつてから、私は冷静に池田の真実の姿を見詰めようとするようになりましたが、母は、そして父も、相変わらず絶大な信頼を池田に置いていました。そして、昭和33年4月に戸田二代会長が急死、特に後継者を决めていなかったにもかかわらず、それほど間を置かずに父は池田を三代会長に推薦すべく立ち上がります。そして、小泉理事長や竜利光氏等の時機尚早の慎重意見を押し退けて、2年後の35年5月に池田を会長にすることに成功します。しかし、死の直前の父は、池田の信仰心に、何か異質のものを感じ始めていました。その後の池田を見ることができたとしたら、あれだけ池田を信用したことを、激しく後悔したに違いありません。
  池田は言葉だけで人の心を掴む天才でした。しかし、言葉を飾るだけで実行が伴わず、また自らの言葉に反することを続ければ、必ず人心を失います。それは池田に近い地位にある人ほど心が、そして人によっては心も体も、池田から離れていきます。このことは、池田創価学会の現在までの姿を見れば、誰の眼にも明らかでしょう。
   ---------(177P-この項オワリ-)-----つづく--

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