創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-5

2017-06-01 09:56:55 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512-> 
 ------(31P)---(以下本文)-------

私が聖教新聞社を辞めることになった理由   成瀬久昭
                              日正寺信徒
                              石川県金沢市生まれ
                              埼玉県鶴ケ島市在住
                              元聖教新聞記者
                              コピーライター
池田大作氏著作のほとんどがゴース卜ライターによる代作を知る
 私が聖教新聞社を辞め、創価学会と決別して一人静かに流離の旅立ちをしたのは昭和47年(1972年)秋のことでした。 世間一般ではごく普通のことですが当時、聖教新聞社の職員が辞職願を出して退職するということは、非常に困難なことでした。この職場では組織の締め付けやしがらみがあってスムーズに退職できたというケースは私の記憶にはありませんでした。たとえば女性問題を起こしたか、あるいは金銭問題などにより人知れず職場を去っていった同僚がいたことを憶えています。私の場合、新聞社を去るに際して、編集局の仲間に新宿のとある酒場で送別会を開いて頂きましたが、その場に副会長の上田雅一氏と編集総局長の美坂房洋氏も同席し、みんなから祝福される和やか雰囲気の送別会で、この職場では珍しい円満な退職が実現したことを憶えています。
 それはともかく、私が聖教新聞社を辞めることになった理由は、結論から言いますと入社二年後の頃から池田会長の偽善性に少しずつ気づき、欺瞞に満ちた似非指導者であるという実像を知ることになったからです。それは、会員のバイブルともいうべき池田大作著の小説「人間革命」はゴーストライターのS氏によって書かれていること、また、池田会長の講演や論文等著作のほとんどは原島嵩氏を中心に編成されている特別書籍という部署のメンバーによる代作であること、美形職員の多くが配置されている本部第一庶務という部署は会長接待専用の存在であることなどを知るにおよび、池田会長に対して抱いていた幻想が完膚なきまでに打ち砕かれてしまったからです。
 今でこそ、こうした情報は広く一般にも知られるようになりましたが、私が知ったのは今から数えて45年も前のことなのです。その後、創価学会教学部長の原鳥嵩氏が池田会長を諫め、週刊誌に告発しましたがその時期より8年前、また、かって聖教新聞社編集主幹だった福島源次郎氏が平成元年に池田会長を告発した「蘇生への選択」を発刊した時より17年も前のことです。その遥か以前に組織を離れていた私にとってはそうした動向を知る由もありませんでした。

牧歌的な支局生活が言論出版妨害事件で一変
 さて、私が聖教新聞社に入社したのは昭和44年4月、全国各地から採用された新入職員とともに約1か月の研修を受けた後、千葉支局に配属され、その後新設された水戸支局に転属。支局長と私の二人だけで記事は週一回中面に喝載される関東坂の紙面づくりでした。人社直前までは広告代理店勤務のサラリーマンをしていました。私の入信は高校3年のときでその後、男子部の部隊長・部長という役職を務める傍ら聖教新聞の通信員をしており、取材や写真撮影、原稿書きなど多少の経験はありました。一方、我が家では父が聖教新聞取次店を営み組織では支部長として活動しており、聖教新聞社に入社できたことを家族みんなで喜び合ったものです。
 水戸支局での仕事がスタートすると力メラを担いで取材に出かけ、取材から戻るとフィルム現像のため暗室に籠り、プリントが仕上がると原稿書き、また各地の通信員から送られてくる原稿の整理に追われました。この頃本社へ送る原稿は鉄道便のため毎週入稿日は明け方近くまでかかって原稿をまとめ、水戸駅の小荷物係へ駆け込んだものです。忙しいながらも充実した楽しい日々を過ごしたことは懐かしい思い出です。
 牧歌的ともいえる支局暮らしの安眠が突然破られたのは昭和45年に起きた、世にいう創価学会による言論出版妨害事件です。池田会長が窮地に追い込まれた非常事態により、聖教新聞社編集総局では北海道から九州まで全国各地の支局から数十名の職員を本社に召集。私もその一人となりました。いわゆる藤原弘達氏の「創価学会を斬る」の本に対する言論出版妨害事件への対応です。「いざ鎌倉へ」と集まった職員に当時福島源次郎編集主幹から檄が飛んだものの、特に言論戦を展開するというわけでもなく、結局、様々な反創価学会勢力に対する動向や実態の調査研究が主な仕事となりました。
 私が担当した一つに創対連(創価学会対策連絡協議会)の追跡調査があります。この組織は御供養金返還訴訟を起こしており、各地で街頭演説を展開していました。理事長の稲垣恒夫氏を中心に理事の梅沢十四夫氏ら8名による構成で、創価学会を脱会した立正佼成会会員が主カメンバーでした。首都圏を主な活動範囲にしており、インパクトのある動きはありませんでした。また、別件で本部広報室の職員と同行し名古屋へ、京都へと出かけるなど諜報員のような仕事がしばらく続きました。

「牧口常三郎伝」連載の取材執筆メンバーの助っ人に
 言論出版妨害事件が一段落ついた昭和46年には全国から召集されていた支局員はそれぞれの地方へ還されましたが、私を含む数名は本社に残留。反学会勢力の調査研究を引き継ぐ形で編集総局内に新設された調査部に配属されました。 その頃、創価学会初代会長・牧口常三郎氏の生誕百年を記念して伝記を聖教新聞に連載する企画が、論説部の渋谷照夫氏を中心に進んでいました。しかしテーマの大きさに対して取材^執筆スタッフが足りないことが編集総局長に伝わり、その要請に応じて調査部から3人が移動することになり、私も助っ人の一人となりました。通称牧口グループと呼ばれるようになったメンバーは総勢6人の編成で専用の仕事部屋を与えられました。渋谷氏は大学院でも教育哲学を修め、院生時代から学会関連の出版物に原稿を多く寄稿しており、リーダーとして相応しい存在でした。執筆メンバー初の会議でも、元お茶の水女子大学学長で心理学者の波多野完治氏に牧口常三郎について意見を求めた時の感想を話しました。
 「波多野氏は、牧口常三郎研究をするためには博士10人ぐらい作るつもりで取り組むだけの価値がありますよ!と言われました。我々は牧ロ常三郎伝を書かせていただくには微力ですが、多くの識者や関係者に会って正確なものにしたいと思いますので、6人の力を出し合って取り組んでいきたいと思います」と語りかけました。
 ところで牧口常三郎氏は信仰生活に入る少し以前は、地理学者、教育学者として著名で「人生地理学」「価値論」「創価教育学体系」など優れた著書も多くあります。親しく交流した学者の中には、小川琢治(湯川秀樹の父、京大教授)、田辺寿利(社会学者)、志賀重昴(地理学者)、柳田国男、新渡戸稲造といった著名な人物が数多くいます。牧口氏の学説や人となりを少しずつ知るにおよび、もとより門外漢の私は猛勉強をしなければいけないと痛感するとともに、やりがいのある仕事と感じました。一方、メンバー全員は平職員という気安さもあって、牧口グループの仕事部屋はなんでも語り合える快適な環境で、組織とは一線を画した解放された世界でもありました。池田会長から時々呼び出しを受ける渋谷氏から会長の俗物的で宗教指導者にあるまじき言動を聞いたのもこの部屋でした。
「牧口常三郎伝」の新聞連載開始とともに生誕地の新潟県をはじめ、少年時代向学心に燃えて海を渡つた北海道、また創価教育学会時代に足を運んだ九州など全国各地ヘメンバーが足を伸ばし、資料の収集と牧口氏を知る人をわずかな情報を頼りに手さぐりの取材が続きました。また原稿を書く傍ら牧ロ氏の思想と学説を紹介するため、著書や論文等を読みあい、皆でディスカッションを重ねることもしばしば。そうして昭和46年6月1日からスタートした新聞連載は、3部構成により年をまたいで最終回の昭和47年7月31日まで続きました。さらに連載が終了したら学術書としても一般世間に通じるような本にしたいという要望が本決まりとなり、同年11月18日に重厚感ある装丁で本が出来上がり感無量でした。発刊を機に私は聖教新聞社を去るのですが、通称牧口グループで過^ごした1年6か月は創価学会から隔離された世界で大学の研究室にも似た環境で、貴重な経験と時間を過ごすことができました。その間、編集局内の他の仕事も含め多くの学者や作家、文化人の方々を取材させて頂き、多くを学ぶことができたことは計り知れない財産となりました。 波多野完治氏(御茶ノ水女子大学名誉教授)、唐沢富太郎氏(東京教育大学教授)、池田諭氏(教育評論家)、末川博氏(立命館大学総長)、邦光史郎氏(作家)、井上靖氏(作家)、入江徳郎氏(朝日新聞論説委員)といった方々を取材することができました。

組織から解放された後の旅路は山あり谷あり、苦い経験も
 私の当時の行動に少なからず影響をもたらした渋谷氏に、一足お先にという別れの言葉を残して聖教新聞社を去ったのは昭和47年のこと。私とは何の関わりもありませんが、当時世情を騒がした連合赤軍が軽井沢で起こしたあさま山荘事件、また米国から沖縄返還が実行された年でもありました。古い話と思うかもしれませんが、ここに記していることは今から数えて45年前の追憶なのです。
 さて創価学会の呪縛から解放された後の旅路は山あり谷ありで、順風満帆とはいきませんでした。
 退職理由には義兄の会社を手伝わなければならないということで了承を得ましたが、あくまで辞めるためのカムフラージュでもあり、組織から一日も早く脱出したいというのが本音でした。その後事業を立ち上げることになりましたが、経営方針などもあいまいなまま始めた店舗改装という事業は、一時は仕事の受注も伸び、随分忙しい思いをしましたが数年にして借財を背負って破綻してしまいました。
 一方、渋谷氏は私が聖教新聞社を辞めた一年後に予定通り退職して、個人的に師事していた波多野完治氏の紹介で、夫人の波多野勤子氏が務める生涯教育の学校「ファミリースクール」に勤務。そこでの経験を活かして当時私が住んでいた水戸市を訪れ、かねて計画していた幼児教育の「のびる学園」を開園しました。その後、水戸市に隣接するひたちなか市のビルへ移転。広々とした教室など充実した施設で幼児教育、生涯教育の実践に取り組んでいました。
 私の子供3人もお世話になり、入園者も年々増加の一途を迪り学園経営は順調に進みました。せっかく渋谷氏と身近で家族付合いができるようになりましたが、前述のとおり私の事業が破綻したため、後ろ髮を引かれる思いで住いを埼玉へ移転し現在に至っています。
        ---------(37P)-------つづく--

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