創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

内藤国夫の池田公明党-27

2016-05-26 07:29:45 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(193Pから、以下本文)-------

証人喚問阻止への右往左往
 「仏法は勝負」が口癖なのに裁判は連戦連敗。
  身勝手な「信教の自由」コールが虚空に響いて
 九四年十月十一日午後、NHKテレビによる国会中継は、なかなかに見応えがあった。自民党の深谷隆司氏と、その関連質問で立った川崎ニ郎氏が創価学会問題を採りあげ、政府の見解を質したのである。
 ただし、これは質問するのが目的であるよりも、衆議院の予算委員会質疑を通じて、創価学会問題の重要性を国民に告知するのが狙いであると、直ぐに理解できた。旧連立政権の細川、羽田両内閣時代であれば、答弁席には石田幸四郎委員長以下の公明党出身閣僚が坐っており、直接追及するのが可能であった。しかし、自社さ政権が誕生した今は、創価学会問題で政府を糾弾しても意味がない。せいぜいが、「不当な人権侵害や不法行為が行われないよう、厳しくく監視せよ」--と叱咤激励するしかないだろう。
 そこで自民党が考えついたのは、目標を池田大作氏の証人喚問実現に定めて、予算委質疑を国民への告知の場と化すことだった。政府の見解を質す形をとりながらも、実は、政府答弁をあまり重要視せず、質問を通じて長々と演説したり、関連資料を読みあげ、創価学会問題の重要性と深刻さを広く国民に訴えようとしたのである。
 とりわけ関連質問に立った川崎ニ郎氏に、その姿勢が顕著であった。川崎氏は自民党の中国に通じた熱血政治家として知られた故川崎秀ニ氏の子息で、政治家三代目。父親の選挙地盤を継ぎ、すでに当選四回を重ねる中堅政治家。必ずしも創価学会問題に通じたベテランではない。
 日蓮正宗のことを「二チレンセイシユウ」(正しくは「ニチレンショウシュウ」)と何回も呼び間違いをしたことにも、にわか勉強ぶりが感じられた。関連質問に立ったのは、自民党の創価学会問題追及ダループの要請に応じたもの。自民党が組織ぐるみで集めた創価学会関連情報を、自民党を代表して質問したのが真相のようである。
 従って、川崎氏本人は、日蓮正宗が九四年七月に挙行した「六万人総登山」についても、今回の集中勉強までは知らなかったとか。ましてその総登山を創価学会が“粉砕”しにかかったなどは知る由もない。それだけに驚きもしたようだ。「破門されて、もう別の組熾となった日蓮正宗の集会を妨害し、粉砕を図るとは何ごとか。そんなことをしておいて、“信教の自由を尊重する”などと、よくぞ言えるもの」と憤慨なさったらしい。
  一つ一つ資料をふりかざしながら、こういう問題もある、この点についてはどうかと指摘し、糾弾する姿勢から、質問者自身が創価学会問題のひどさに驚き呆れる率直な様子が感じられた。
 それなりの説得力を覚ええたのは、筆者一人ではなかろう。自民党の戦術としては、創価学会問題を国会審議の重要テーマと位置づけ、今後も操り返し採りあげて、最終的には池田大作氏の証人喚問実現にこぎつけるつもり。

◆モノ扱いの学会票
 対するに、創価学会の側も池田氏の証人喚問断固阻止を最重点課題とする。そのために、「権力による宗教への介入に反対する」「“信教の自由”を侵害する宗教弾圧に厳重抗議する」緊急集会を全国各地で一斉に闇催するあわただしさとかしましさ。その一方で、創価学会員票を自民党候補にも回すとの“人参作戦”をちらっかせており、ここ当面の焦点は池田氏の国会証人喚問是か非かに絞られそうだ。
 十月十一日の衆議院予算委員会質疑では、深谷隆司氏が、池田大作氏の名前を特定せずに、「宗教団体の最高責任者が“創価学会は、政治にかかわることをやめません”などと報道関係者とのオフレコ懇談でかなりの発言をしているようだ。自民党の証人喚問要求は理由があってのことである」と『週刊文春』記事(九四年十月六日号)に触れるかたちで言及した。
 このオフレコ懇談は九四年九月十四日夜、新聞、通信社記者とNHK放送記者の十人を相手に、創価学会側が持ちかけて行われた。
「池田大作名誉会長“理想は自公”と大放言」
「“闍将軍気取り”を許せるか」(以上、『週刊文春』)
「池田大作名誉会長がオフレコ懇談で言いたい放題」
「“小沢はアマちやんだ”“市川にはもっと苦労してもらう”」(以上、『週刊宝石』十月十三日号)
 懇談会に出席した記者たちは、久々の“大作快(怪)気炎”を本職の舞台では伝えず、週刊誌記者や自民党幹部にリークすることで池田氏の期侍にしっかりと応えた。
 池田氏が数カ月来とり続ける基本姿勢は、首を引っ込めて、証人喚問要求の嵐のほとぼりがさめるのを侍つことである。しかし、生来の目立ちたがり屋サンのため、じっとしているのが、大の苦手。おまけに宗鬥支配を試みたと同じように政治権力も自由に操りたい、操れるとの過信と錯覚の待ち主である。そのうえに决断の速さだけは人並み外れる。
「自民党を敵に回したくない。こちらが秋波を送れば、向こうも喜んで応ずるはず。記者懇を開いて、エールを送ってみょう」
 そう思いついたら、もう矢も楯もたまらない。会長を秘書扱いして「オイ、秋谷、記者懇を早くセットしろ」と厳命する様子が目に浮かぶ。
 池田氏が自民党に一番伝えたいメッセージは、「私の理想は、もともと、自公両党による政権づくり。行きがかり上、公明党は新・新党結成に協力させるが、学会票は丸ごと回さない。入物本位とし、自民党候補者にも回します。だから証人喚問問題ではお手やわらかに顧います」--に尺きる。
 記者懇の以前にも、秋谷会長が、「創価学会による公明党の単独支持を見直す」--と発言し、伏線をしつかりと敷いてある。
 記者懇の内容が明らかになったあと、野崎勲副会長が重ねて、「自民党を含め、党派を超えて良い人があれば、人物本位で支持する」--と強調してもみせた。
 これらの発言に共通するのは、学会票のモノ扱いである。学会首脳の意向次第で、学会票を右にでも左にでも動かせるとの前提に立つ。池田氏による公明党の私物化が問題にされる折、票までを私物化しておかしいとは思わないのだ。

◆薄い有難味
 さて、しかし、自民党議員が票欲しさから、この“人参発言”に飛びつくかどうか。
「学会票を回して貰うのに、意外と多額のカネがかかった。しかし、かかった割に、票は回ってこなかった。学会票に期待するのは間違いだとわかった。もうコリゴリだ。学会票プレゼントの誘いには、もう乗らない」
 自民党議員の多くが、経験談をこう語り合って、票の取り引きが、ソロバン勘定に合わないことを確認済みである。
 従来の中選挙区制度のもと、公明党が独自候補を擁立するのは百三十選挙区のなかて六十選挙区を上回ることがなかった。つまり七十選挙区以上が常に公明党空白区であった。創価学会と公明党はこれらの選挙区で表向き、学会員の自由投票を掲げながら、裏に回ると、複数の候補者陣営に対し“学会票の横流し”を持ちかけるのが常だった。どちらにするかと散々じらしたあと、投票日直前、見返りの大きい陣営に「オタクに回すことにした」と、こっそり告げるのである。
 しかし、学会票の支援で当選が可能となった事例は、過去に、千葉二区の実川幸夫、静岡ニ区の杉山惠夫、参院選高知選挙区の平野貞夫の各氏(いずれも新生党)らに限られる。コストばかりかかって、“有難味”は薄いのが実情である。
 自民党議員にとって、これまでは公明党・創価学会批判がタブー視されており、こういう経験談交流もあり得なかった。しかし、九三年の公明党与党入りによって、状況はサマ変わりした。
 深谷議員が、あえて池田氏の記者懇発言に言及したのは「そんなエサに、自民党はもう引っかかりませんゾ」との意思表示でもあった。
 自民党議員の心変わりを池田氏は、まだ自覚していないらしく、週刊誌報道で伝えられる大言壮語癖は相変わらずである。記者懇の席上でも、
「他の党を見渡してみて下さい。組織を持ってる党なんてありますか。うちだけですよ。みんな、うちをあてにしてるんですよ。新・新党の結成は、つまるところ学会しだいでしょう」
「新・新党はできるが、いずれ解散する。過渡的なものです」--と党首ばりの政局予測をしてみせた。
 かと思えば、小沢一郎氏を評して、--
「彼は、ちょっと性急だね。物事には“待つ”ということがある。しかし、彼は功績を焦り、待つことをしないで、性急にどんどん事を進めていく」
「私なら待つべき時は待つ。彼と私との違いでしょう」--と、まさしく言いたい放題。
 本当に「待つ」ことを知っているならば、この時期の記者懇などを買って出ないはずである。
 自社蜜月時代の今、自民党にいくら秋波を送つても効果のないことを少しもおわかりにならないのだ。
 自民党による証人喚問要求が気になって仕方がないのだろう。問われもしないのに、征人奐問への嫌悪感を何度も自ら口にした。
「私はもう、日本の政治は眼中にないです。私が眼を向けているのは、世界です。日本では何を言われてもいい。 証人喚問だって、なんともないんです。だって私は、何も悪いことをしていないんだから」
 と強がりを言いながら、
「小渕恵三さんも、“池田を証人喚問するだと! ふざけたことをぬかすな”と、これくらい言えば、大物の証なんですがね」
「今の政治家はみんなアマちゃんばかりで、会う気にもならんよ。大物がいないな。小物とは言いませんが、中物ばかり。そんなこと言っていると、また証人喚問ですからね。まったく細かいことをぐじやぐじやと責めたてる。ひどい時代ですよ」
 と嘆いてもみせる。
       ---------(200P)-------つづく--

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内藤国夫の池田公明党-26

2016-05-25 21:36:50 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(185Pから、以下本文)-------

◆発足した四月会
 そのことが翌六月二十九日、衆参両院での首班指名選挙に際しての社会党票の出方に、はっきりと現われている。
 まず衆議院での第一回投票。委員長の村山富市氏に投票せず、無効・白票が社会党からはデモクラッツのメンバーを中心に十六票も出た。しかし、二回目の決選投票になると、白票(無効票)は田辺誠氏ら全通労組出身の三票に激減する。一回目の投票結果で「海部氏に勝ち目なし。小沢戦略敗れたり」とはっきりしたために、決選投票では党首に投票し、旧連立復帰派から自社連立容認派に転じたのが、それだけ増加したのである。
 一、二回とも海部氏の名前を書いた、自社連立に反対の“確信犯”的社会党議員は、衆院で七人、参院はわずか一人にとどまる。地域的には大阪と兵庫の出身議員に集中しているのが特徴的である。協会派と反協会派に割れて争った後遺症とか。
 党執行部の方針に従わない造反派が、决選投票段階で十人そこそこにとどまったのは、自民党アレルギー感情があるにもかかわらず、社会党分裂の危機が遠のき、党内の大勢が自社連立を時の流れとして受け入れたのであろう。自民党との連立に反対して、署名運動までしたデモクラッツにしても、村山内閣が成立した以上、「今日の政局に責任を持つ」ということで、事後承認するしかなくなった。
 社会党は、こうして直近の中央委員会決定では全く予期せず、逆に「構想しない」との活動方針規定にもかかわらず、しかも、党分裂なしに、自社連立へと大きな力ーブを切ることに成功した。
 もっとも、中央委員会決定の際、「自民党との協力」を全否定したわけでもない。「自民党との協調行動は選択しないことにします」の記述のあと、活動方針には用心深く、こう付け加えてあったからだ。
「しかし、政局運営では社会党の政権戦略に合致し、“数の論理”ではなく、“合意と納得”の政治手法が選択され、しかもそれが国民の理解を得られるものであれば、自民党との協力も検討しなければなりません」
 どういう事態を想定して「自民党との協力」が書き加えられたか。党書記局で長年の問、活動方針づくりに携わつたべテランOBが解説する。
「党執行部があとで困らぬよう、あらゆる事態に備えて、書記局の知恵を絞りますからね。ここでは“政権”とせず、“政局運営”としたところがミソです。つまり、羽田内閣が自発的総辞職に応じず、不信任案可決と解散になる場合を想定した。そうなったら、自民党と手を組むこともありますよと予告してあるわけ。この記述を拡大解釈すれば、旧連立各党との政権協議が暗礁に乗りあげた段階で、この記述を応用できないこともない」
 無欲なるが故に村山委員長の「瞬間的決断」が実に見事だったのは、羽田政権のスター卜と幕切れの二度にわたって「一糸乱れず」の大転換を遂げたことにある。
「一度目は、院内会派“改新”の結成が明らかになった時。“一・一の仕掛けに屈するものか”というので、村山委員長の决断のもと、社会党は一糸乱れず連立与党から離れた。そして二度目が今回。連立与党側との話が壊れるまでは、自分が首班指名選挙に立つとか、自民党との連立交渉を進めるとかを、一切口にしなかった。筋を通して、連立復帰が実るよう努力した。そして二十九日の午後二時頃だったかな、海部元首相を担ぎ出す“一・一戦略”が明らかになった、そのとたん、社会党は初めて本格的に自民党の方に顔を向けた。パッと、間髮を入れずに切り替えた。
 中央執行委員会でも反対なし、満場一致で、これだけの大転換をやってのけた。実にもう大したもんですよ」
 とは言っても、自社連立に備えての伏線がなかったわけではない。
 羽田内閣が総辞職する二日前の六月二十三日、発足したばかりの「四月会」の設立総会に、河野洋平自民党総裁、村山富市社会党委員長、武村正義さきがけ代表の三氏が顔を揃えて出席し、“阿吽の呼吸”を披露した。
「四月会」は「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇談会」のことで、公明党の政権参画や創価学会との政教一致に危機意識を強め、各界有識者と神道、仏教、キリスト教などの宗教者がー堂に会したもの。今後、全国各地で講演会やシンポジウムを開催する予定で、代表幹事には評論家の俵孝太郎氏が選出された。ターゲットを「創価学会」と特定はしていないものの、「自らの観念や信仰に固執して他を排除しょうとする勢力や、それと同調するものに対しては厳しく一線を画す」と設立趣意書に記述される。
 政界の「一・一支配」に異議を唱えるのが狙いの一つであることは、自民党から河野総裁以下森喜郎幹事長、橋本龍太郎政調会長、木部佳昭総務会長の三役のほか梶山静六前幹事長ら五十四人もが来賓として顔を出したことでもはっきりとする。
 この設立総会の一週間後には、自社さ連立政権が誕生して、国会での与野党関係が逆転するというタイミングの良さは、偶然の産物であろうけれど、「四月会」の来賓出席要請が“呼び水”となり、自社さ三党の党首が揃ってあいさつに立ち、政教一致批判で息が合うところを世間にアピールした。

◆丁・丁ラインができた
 つい一年ほど前までは、政治家にとってタブー視された創価学会批判であるのに、自社さ三党党首が「政治権力の中枢に宗教団体と極めて密接な政党が座り、政治権力を行使している。排他的、独善的体質であれば、間違いを糾さねばならぬ」(河野総裁)、「権力者が裏にいて、目に見えないところで操っているのはよろしくない」(村山委員長)、「お二入の指摘どおり、特定の宗教団体が政治権力に大きく関わることを許してはならない」(武村代表)と連係プレー的に発言なさった。まさしく世の中、サマ代わり。創価学会の私兵、番犬である公明党が政権の一翼を担うことについて、同じ政党仲間が違和感を堂々と表明するようになった。大きな進歩であり、安心材料である。
 もう一つの伏線は「一・一」ラインから、「丁・丁」ライン結成への流れである。さきがけ代表の武村正義氏と、元首相、竹下登氏の二人が村山内閣誕生に果たした水面下での役割を高く評価して「丁・丁」ライン呼ばわりされるようになった。
「羽田内閣のあとの新政権づくりは、あくまでも社会党とさきがけが主導権を握ろう。両党で共同政権構想をまとめ、旧連立と自民党の両方に提示しょう。連立相手として組むのは、どっちでもいい。我々がまとめる共同政権構想を受け入れる側を相手にしょう。そして、今度できる内閣の首班は、村山さん、あなたがなるべきだ」
 武村氏は、村山委員長と、かなり早い段階で極秘会談を重ね、熱っぽくこう説いたのである。
 とにかく、社会、さきがけ両党がガッチリとスクラムを組み、政局の主導権を「一・一」ラインから奪い返そうというのが、武村“バルカン政治家”の一貫した戦略であった。
「首相など、私に務まるわけがなかろうが。できんものはできん。どうしてもと言うなら、ワシは地元・大分に帰るよ」
 表向きの発言では、こう言って村山首班説を拒み続けた村山委員長ながら、社会党とさきがけのスクラムで「一・一」の鼻を明かしてやりたい点で異論はなかった。武村氏にしても、せっかくの“恋人”である細川護熙氏を小沢氏に奪われたことへの“落とし前”をどこかでつけねばならぬ。

◆活用された早大人脈
 幸いにして、自民党内では小渕派を中心に政権への早期復帰を実現するためのウルトラC戦略として、村山首班による自社連立工作が密かに練られており、その動静は武村氏もキャッチした。
 なかでも注目されたのが、謹慎期間終了で活動を再開した梶山静六氏の動き。“一・六戦争”では、梶山氏にとつて一敗一引き分けのままだから、リターン・マツチに勝利して宿敵一郎氏に一泡吹かせたいところ。背後に控える竹下登氏にしても、せっかく築きあげた経世会を分裂させられ、意趣返しをしたい点では人後に落ちない。自社両党の早大人脈がフルに活用されたという。
「一・一」から「丁・ 丁」へ、水面下での主導権争いが大きく変化しつつあるのを、政界仕掛人の矢野絢也氏がどこまでキャッチしたか。矢野氏は九四年七月七日号(六月三十日発売)の『週刊文春』担当コラムで、いみじくも、こう書いた。
「今自民党に必要なのは、身を殺して仁をなすことですな。村山さんか武村さんを担ぐぐらいに成長したら本物だ」
 自民党が「村山さんを担ぐ」决断をしたのは、何も「身も殺す」ことでもなければ、「仁をなす」ためでもなかった。死中に活を求めただけである。
 このウルトラC戦術が効果をあげるか否かは、社会党の対応如何にかかっており、また、社会党がどう対応するかは、「一・一」の出方次第ということになる。つまり、自民党を生かすも殺すも、その鍵は「一・一」が握っていたのだ。
 そして「一・一」は「自社が一緒になれるはずはない」と固く信じ込んだがために、自陣営に取り込むべき社会党を、つれなく扱いすぎて、自民陣営へと追いやってしまった。まこと、最低、最悪の対応である。
 私事になるが、首都・東京都議会で自民党が過半数制覇を失った一九六五年以来、筆者は三十年近く、自民、社会、公明三党の“三巴戦”を見続けてきた。「三国志」的折衝結果は、いつも決まって「自公」か「社公」による主導権成立ばかり。「自社」の組み合わせには、一度たりともお目にかかったことがない。「自社」が一緒になれれば、簡単なのに、どうして“公明とんび”に“油揚げ”をさらわれてばかりいるのだろうと、もどかしく思ったことは、数限りないほどである。
 それだけに、今の率直な気持ちは「愁眉を開く」そのもの。
「新しい政権で新しい政治を」
「腐敗と訣別し清潔な政治を」
「改革をリードする公明党」
 公明党本部には昨年の細川連立政権参画以来、この三つのスローガンの大きな垂幕がかけられたままてある。
「野党に転落した今となっては、三つとも“昨年のゴミ”のようなものですよね。欲ぼけの看板倒れ。大作未練のスローガン。毎日、通勤の都度、スローガンを見上げては笑っちゃっています。いつになったら外すのだろう」
 公明党本部職員から私への訴えである。 (『諸君!』94年9月号)
       ---------(192P)-------つづく--

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内藤国夫の池田公明党-25

2016-05-24 08:22:45 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(179Pから、以下本文)-------

◆選挙を支配の道具に
 では、池田氏が何故太田氏に目をかけ、起用するか。後継者が育って、書記長交代がいつでも可能だと、市川氏に知らせる、わからせるのが狙いである。党創設者の意を受けて、先輩の矢野純也委員長に引導を渡した市川氏が、今度は引導を渡される側に回るわけ。その交代要員として急伸長中なのが太田昭宏氏である。
 ちなみに『文藝春秋』に連載中の「矢野絢也極秘メモ全公開」の最終回(九四年八月号)に、この太田氏絡みで、さりげないけれど、意味深長な記述がある。
 一九八七年八月十日、軽井沢に滞在中の池田氏の指導を受けるため、石田副委員長、大久保書記長、市川国対委員長の三氏が軽井沢に出かけ、その報告が石田氏から電話で矢野委員長に寄せられた。
「二年後の衆参選挙の相談が中心だった。太田、白浜両君は将来の人材だから苦労した方がよいという意味で楽な選挙区にはしない考えです」
 矢野氏は石田氏の報告内容をあっさりとこう記すのみ。しかし、党内事情を知る人間が読むとこの記述内容は強烈である。当時、太田氏は池田氏の不興を買っていた。大作打倒派として頭角を現わしつつあった藤原範昭氏の求めに応じ、こっそりと会ったのが、池田氏の知るところとなり、「オレに歯向かうつもりか」と池田氏が太田氏を厳しく叱りつけたのである。
 三年後の一九九〇年総選挙で太田氏は当選至難の東京八区から立候補させられ、落選の憂目にあった。将来の委員長候補と目される大物ながら、池田氏のこらしめ人事に泣いたのである。
「太田に苦労させろ」。池田氏の公明党支配がこういう細かいことにまで及んでいるのを、矢野手記はさらっと打ち明けているのだ。反省とあらためての忠誠を誓った太田氏は、池田氏の勘気が解けたことにより、次の一九九三年総選挙で、当選が容易な東京九区に回され、トップ当選を果たした。そして当選一回生の身でありながら、今は市川氏を脅かす存在として、池田氏に利用されている次第。
 なお、矢野手記にある「白浜」とは、一九八九年参院選で大阪地方区から立候補、当選した白浜一良氏のこと。こらしめには関係なく、添えもの、カムフラージュ要員として名前をあげられたにすぎない。
 池田氏に見切りをつけられれば、市川独裁体制は、たちまちにして崩れ去る。
 であるからこそ、上意下達と一枚岩で知られる公明党にしては、これまで皆無だった党内論争や不協和音が外部に漏れ伝えられるようになったのである。もっとも、池田大作批判に発展する気配はまだ見られず、「池田先生の指導にきちんと従っていないではないか」「いや、言われたとおりにやっている」といった論争の域を出てはいないようだ。それにしても稀有のこと。いずれ始まる公明党大変化の前触れかも知れない。

◆社会党のホンネ
 矢野前委員長はこれより先、担当の『週刊文春』コラムで、未熟な後輩書記長をたしなめるようにして論ずる。
「(羽田内閣が)自発的総辞職を断行したとき、“この総辞職は社会党の要求の総辞職ではない”などと妙に強がったり、下野論みたいなことを言わないで、即座に“社会党さんの言い分どおり自発的総辞職をしました。さあ連立に戻って下さい”って、大人の対応をしたら社会党は戻ったと思う」
 矢野氏指摘のとおり、社会党のホンネは、旧連立政権への復帰であった。自民党との連立政権参画は、当初、視野に人れてなかった。事実、直近の中央委員会(九四年五月二十八、九日開催)で決められた「当面の活動方針」には、はっきりと、こう記されており、村山執行部に新政権づくりのタガをはめていたのである。
「自民党との関係については、現在の自民党との連立政権は構想せず、自民党亜流政権も認めないという基本に立って、自民党の政権戦略、リーダーシップの確保につながる協調行動は選択しないことにします」
 この活動方針により、自社の協調や連立をあり得ずとのんでかかった市川書記長は、羽田内閣総辞職後の数日間、実に居丈高な態度をとり統け、社会党との政権協議を実らせなかったのである。
「下野した私たちは政策協議を積極的にやる立場ではない。本来は社会党が自民党と政権協議し、うまくいかなかった場合に私たちに政策協議を呼びかけるものだ。今の状況は、連立与党と自民党、社会党の三極だから、自民党と社会党の連立政権ができない限り、連立与党側が完全な下野にはなれない、下野しきれないという要素がある。マスコミの皆さんは、そこの状況把握が今一つ的確ではないのではないか」
 市川書記長が記者会見を通じて、社会党に訴えようとしたのは、「まず、自社両党で政権協議を始めろ。どうせ、まとまりっこないのだから、破談がはっきりしたあとで、我々が相手をしてやろう。社会党の連立復帰を認めないわけではないが、その代わり、もうつべこべ注文をつけるなヨ」というものであった。

◆小沢に渡った署名簿
 社会党にしてみれば、中央委員会活動方針の制約上、自民党との政権協議を先に始めるわけにはいかなかった。連立政権復帰を目指し、その可能性を探るしか、さしあたって、取るべき道がなかった。そのために羽田・村山党首会談を求め、連立与党代表者会議での政策協議の再開を申し入れもした。
「村山のじいさんの対応は実に見事だったと思いますよ。通すべき筋は通したし、決断すべき時は、瞬間的に決断し、難しくて微妙な党内情勢なのに、“一糸乱れず”に近い状況で党をまとめていった。総理になりたいなどの野心がなかったから、うまくいったのでしょう」
 社会党の実力者OBは、思いがけぬ村山総理大臣誕生の現在の心境を「うれしさも中ぐらいなりおらが春」の小林一茶の俳句に託して、党内事情を解説する。
  周知のように、社会党内は、連立政権に復帰すべしとする党内右派と、「一・一」支配を嫌い、民主主義的手続きを重視し、場合によつては自民党ハト派との連携を模索する左派グループに、はっきりと二分していた。村山委員長ら党執行部の対応によっては、党分裂の危機と背中合わせだったのである。
 なにしろ、連立復帰を目指す人々は「デモクラッツ」や「新政策懇話会」を結成し、自社連立に反対する署名運動を始める一方で、「一・一」の強権的手法に反発する左派ダループは、自民党有志議員の呼びかけに応じ、「リベラル政権を創る会」を結成して、党内の賛同者拡大に乗り出す、と股裂き寸前の状況であった。
「リベラル政権を創る会」の設立趣意書には「一・一ラインへの決別」及び「自民・非自民という対立軸から全体主義的強権政治対リベラルな政治との新たなる対立軸」が提起されてあった。
「“政治は力、力は数、数は金”の考え方を否定する」とも明記されてある。
  自民党の白川勝彦、社会党の伊東秀子、金田誠一各代議士らが中心となり、自民党から六十二人、社会党から十三人、グループ青雲から二人の賛同者を集めた。白川氏らは、年明け早々にまず「新生、公明両党にはファシズムの芽がある」と警鐘を鳴らし、「自由への連帯の会」の結成を呼びかけた。ついで四月半ばには社会党の中尾則幸参院議員らが加わり「強権政治を憂える会」が結成され、自社両党の議員が「対決から対話へ」と交流を深めるムードづくりに一役を買った。
 自社連立の可能性を探る議員レべルの対話や勉強会は、自民党副幹事長の亀井静香氏と社会党国対副委員長の山下八洲夫氏、自民党政調副会長の額賀福志郎氏と社会党副書記長の五島正規氏、さらに自民党改憲派の一言居士石原慎太郎氏と社会党護憲派の北沢清功氏ら、さまざまのレベルで積極的に進められた。
 このリベラル派に対抗するようにして結成されたのが、社会党内のデモクラッツ。古参の田辺誠元委員長が呼びかけ人となり、筆頭代表委員に森井忠良議運筆頭理事、事務局長に赤松広隆前書記長が就任した。
「村山のじいさんが、旧連立への復帰か、さきがけをブリッジにしての自社連立か、党内の動向を見極めかねていた六月二十七日に、自社連立に反対する署名集めをデモクラッツが始めた。衆院で三十五人、参院で二十三人が署名したというから、党内の半数近い。ところが、何をトチったか、田辺のオッサンが赤松君らに無断でこの署名簿を二十八日に小沢一郎のところへ待ち込んだというんだな。
 “党内の小沢派がこれだけいる”と言って。これが完全に裏目に出た。自治労なんかは非常に怒つて田口健二代議士ら自治労系議員を五人全員、即座にデモクラッツから脱退させた。デモクラッツは事実上解体されたに等しい」
 社会党の最古参代議士は、当選十一回の大出俊、田辺誠、山口鶴男の三氏である。細川内閣ではこの最古参組がパスされ、当選九回の上原康助、佐藤観樹、同七回の伊藤茂、山花貞夫、同五回の五十嵐広三各氏らが大臣に抜擢された。後輩に先を越された最古参組に焦りがあったと、党内の事情通が解説する。
「大出俊は筆頭副委員長であるし、両睨みで全く動かなかった。連立与党、自社連立のどちらでも大臣になれる自信があったのでしよう。その点で田辺のオッサンは連立復帰に賭けちやった。小沢一郎から大臣就任を約束でもされたのではないかな」
 いずれにしても、委員長OBの“トチ狂った”署名簿持ち込み事件が、社会党内の連立復帰派、「一・一」容認派の意気をいたく阻喪させた。逆に言えば、党分裂の危機が遠のいたのである。
 自社連立に傾く村山委員長にとっては大助かりであった。
       ---------(185P)-------つづく--

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内藤国夫の池田公明党-24

2016-05-23 09:11:43 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(172Pから、以下本文)-------

甘い汁を吸えなくなった公明党
   勝ち馬に乗ることで池田喚問も阻止してきた
   学会・公明党。さて、一体これからどうする?
 「自・社・さ」三党連立による村山政権の誕生は、意外性百パーセントである。四十年前後の長年にわたる自社両党の対立・相剋を見憤れた国民にとっては、まさしく「青天の霹靂」。「瓢箪から駒が出る」そのものの異色連立政権である。
 当然ながら、評価はさまざま。概して言えば、拒絶反応に近い厳しい受けとめようが、国民の側にある。「コペルニクス的転回」についていけない違和感があるからだろう。
「全体主義的強権政治に対抗し、自由と民主主義を尊重する、これは一種のリベラル統一戦線」と高く評価する声もあるにはあるが、「呉越同舟内閣」であるのは否定すべくもない。
 「水と油」「野合」「鬼っ子」「無節操」などのマイナス用語が新聞、テレビで飛び交った。
 なかで比較的に醒めた反応を示したのが、週刊誌で時事コラムを担当する野坂昭如、大橋巨泉両氏。
「自民党と社会党がくっつくのは、ぼくの年頃の者にとって、ただ笑うしかないが、今の若者にとっちや、どうってこともないだろう」(「週刊文春」九四年七月十四日号で野坂氏の「もういくつねると」)
「新政権を“野合”呼ばわりする声が多いようだが、ボクは必ずしもそうは考えない。(略)イデオロギーの時代が終わつてしまった現在、カビの生えた保守とか革新とかいう色分けで事を律するのはいかがなものか」(「週刊現代」九四年七月二十三日号で大橋氏の「内遊外歓」)
 筆者は「これは“コロンブスの卵”の一種だ」と考える。つまり、予想外の出来事、奇妙な組み合わせに国民の多くがびっくりし、拒絶反応を示したりしているが、よく冷静に考えてみれば、一党で過半数議席を制覇できなくなった連立政権時代の“試行錯誤”の一つ。議席数の多い第一党と第二党がドッキングするのは民意にも合致し、選択肢の一つとして、十分にあり得た。
 政党政治の筋論からすれば、脱線気味かも知れないが、そもそも、今は既成政党の崩壊過程にある。
 なかで野党慣れしない自民党にとっては、与党体質から抜け切れない。議員の我慢不足もあって、党の崩壊を防止するためにも、政権への一日も早い復帰を最優先しなければならない事情があった。総理に社会党の党首を擁立することで、社会党の同調を得られ、多数派を形成できるなら、とりあえず、社会党との政策の違いには目をつむろう、お互いに歩み寄れる政策を推進しようと考えても不思議ではない。
 一方、受けて立つ社会党にしても、反自民を貫いてきた伝統からして、党内に自民党への根強いアレルギーがあるものの、これに負けず劣らずの小沢一郎(新生党代表幹事)的手法と創価学会支配に対する反発がこの一年ほどの間に急速に強まった。新生党や公明党とは連立政権を組んでも良いが、自民党を連立相手としてはならぬとの理論的根拠がホンネの部分で次第に薄れたのである。
 自社連立に至る過程での、左派、右派とかタカ派、ハト派とかのモノサシが従来の基準では、さっぱり当てはまらなくなった。これも、興味深い変化である。
 社会党の右派が非自民の貫徹を理由に、旧連立政権への復帰にこだわり、左派が自民党との連立を逆に志向した。そして自民党タカ派で知られる石原慎太郎氏が早々と村山首相擁立の声をあげた。イデ才ロギー重視の五十五年体制のもとでなら、いずれも考えられなかったことばかりだ。

瓢箪から出た駒
 社会党の古参幹部が解説する。
「ベルリンの壁が消滅したと同じように、従来観念での左右の分け方は無意味になったということでしょう。それより、政治に対する手法として、民主的か? 透明度と清潔度は? 二重権力になっていないか?  などが重視されるようになった。結果として、新生、公明両党との連立回復を嫌悪、警戒する議員が社会党内にふえたわけです」
 社会党をコケにする「改新」騒動で、新生党や小沢一郎氏に対する「政党間の信義と信頼」が崩れたのも大きかった。まして、小沢氏主導のもとでは、社会党が政策的讓歩を迫られっぱなし。
 政策の違いに目をつぶるより、政策の違いを際立たせ、社会党が譲歩を一方的に迫られる。考えてみれば、割に合わない話なのだ。対するに自民党は社会党の政策を丸呑みするかのように大胆な歩み寄りを見せた。
 細川連立内閣を通じて、社会党内に形成された「社会党はゲタについた雪か」との自嘲めいたムードがあった。「踏まれても、蹴られても、どこまでもくつついていき、最後には溶けてなくなってしまうのでは」との危惧を皮肉ったもの。体質的に社会党嫌いの小沢一郎、市川雄一(公明党書記長)両氏から悪しざまに扱われているうちに、「もうゲタについた雪であることをやめようや」となったわけだ。
「同じくっつくなら“自民党内の良質な派閥、民主主義的なグループ”と一緒にやりたいとの願望が社会党内に強まっていった。幸いにして、今の自民党執行部は、河野総裁以下ハト派的体質を割合に備えている。 まあ、後藤田(正・元副総理)が作ったと言われる執行部だけあってね。社会党が重視する“政党間の信義と信頼”という点でも、話を通しやすい相手であつたのは確かです」
 社会党古参幹部が指摘する、さまざまな状況変化に加えて、いずれにしても、あるはずのない自社ドッキングを結果的に促進した“産婆”役は、皮肉にも、社会党を嫌う「一・一」御両人である。“水と油”の自社両党の政権協議がまとまるわけはないと高をくくり、政権交渉を冷たく突き放した結果、「瓢箪から駒」を出してしまった。あげくに、自ら「墓穴を掘る」ことにもつながった。「一・一」は、もう、おしまいである。「驕れる一・一久しからず」と筆者は二力月前に書いたばかりだが、この調子では、「一・一葬送の記」を書くのも、そう遠くではなさそうである。
 同時に、公明党が、自社対立の間隙を縫って、キャスチング・ボートを握り、「漁夫の利を占める」おいしい時代にも、これでピリオドが打たれる。「キャスチング・ボート」は公明党の“専売特許”視されたものだが、羽田内閣総辞職から村山内閣誕生までの五日間、政局のキャスチング・ボートを握り統けたのは、実は社会党であるとはっきりした。自社対立という大前提があってこそ、公明党によるキャスチング・ボート独占が可能であった。自社の和解、自社連立が成ってしまえば、もはや、公明党はお呼びでなくなる。“公明党冬の時代”が始まったのだ。

◆頭に血がのぼった池田氏
 日本の国父、内閣がどう交代しようと、永遠のキング・メー力ーを目指した創価学会名誉会長の池田大作氏にとっては、思いがけぬ大誤算。ピンチを切り抜け、自民党との復縁を図るためには、早々と市川雄一書記長を使い捨て、矢野絢也前委員長の再活用、神崎武法、太田昭宏執行部の起用に踏み切るのではなかろうか。
 だが、執行部入事を刷新して、公明党が自民党と縒りを戻そうとしても、コトはそう簡単でない。従来は自社両党がことごとにいがみ合っていたために、公明党の存在価値があった。公明党は時により、場合に応じて社会党寄りになったり、自民党にくっついたりして、好き放題に振る舞ってこれた。状況がサマ変わりして、少なくとも自社両党の間に再び亀裂が生じ、対立するようになるまで、公明党の出番はなくなる。
「こんなはずではなかつた」
 池田氏には頭に血ののばるような日々が統いて、ストレスが高じたのだろう。本稿執筆中の九四年七月十三日、「池田氏の病状悪化。医師団が緊急招集された」との極秘情報が筆者のもとに寄せられた。池田氏が最も嫌悪し、警戒する国会での証入喚問が実現しかねないとあって、糖尿病そのほかの持病のデータが急速に悪化したとのこと。村山内閣成立後の予期せぬ余波第一号である。
 公明党内でも異変が生じ始めている。市川雄一書記長の独裁体制が早くもぐらつきだしたのだ。
 トップの委員長職にありながら、補佐役の書記長に頭があがらず、書記長の言いなりになっていた石田幸四郎氏が「あなただけの公明党ではない」と市川氏と珍しく言い争いをしたとか。あるいはまた、自民党との太いパイプを誇る権藤恒夫副委員長が、“負け戦”に憤るあまり、市川氏の胸ぐらをつかみかからんばかりにして、罵り合いを演じたとか。
 さらに、池田大作氏が国会に証人喚問されるのを、どう防止するかをめぐり、市川書記長と神崎院内総務(元郵政大臣)が論争したとも伝えられる。
「石田や権藤、神崎などが私にどう反抗しょうとも、私は池田先生に信頼されて書記長職を任されている。彼らに何を言われようと、私の地位はゆるがない」
 市川氏は政教一致批判を意に介さず、“池田人事の磐石ぶり”をこう豪語しているそうだ。
 竹入、矢野両元委員長が、結局、池田氏から使い捨てられたのを見てもわかるとおり、池田人事の特徴は、叱りつけたり、疑ってかかりながらの人材起用。特定の人間に「満幅の信頼」を寄せることは絶無である。利用価値のある間は、要職に起用しても、利用価値が薄れ、ご用済みとなれば、さっさと使い捨てる。
 市川書記長は「先生の信頼」を楯に取っているようであるが、肝心の“先生”は、満幅の信頼とはほど遠い、悪罵に近い酷評をすでに始めているらしい。
「あいつはオレを利用しているにすぎない。策に溺れた犬は叩かねばならん」
 池田氏は婦人部幹部を前にして、つい最近、市川氏をあいつ呼ばわりしながら、こう厳しく批判したと伝えられる。「一・一」ラインがうまく機能している限り、使い捨てられることはなかろうが、最近のように失敗の連続で、あげくに、せっかくの政権与党入りが一年間も持たず、野党に再転落とあっては、お得意の使い捨てが間近いと判断する次第。
 代わつて池田氏に用いられ始めたのが、学会の青年部長としてきらめいた活動歴を誇る太田昭宏氏。神崎院内総務の下で院内総務代理に起用され、各党折衝の場にもカオを出すようになった。
 伸長著しいのである。普通の政党だと、実力者が自力を発揮し始めたと解釈していいのだが、池田氏支配の公明党にあっては、自力での伸長などあり得ない話。池田氏が目をかけ、伸長させているにすぎない。
       ---------(179P)-------つづく--

 

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内藤国夫の池田公明党-23

2016-05-22 07:20:46 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(166Pから、以下本文)-------

◆マスコミへ総反撃
 マスコミに正しく、良く書かれたいと願う一方で、少しでも意に反する書かれようをすると、苛立ってマスコミとコトを構える。総じて言えば、神経過敏すぎて、マスコミとの付き合いベタ。
 小沢氏と池田氏に共通する対マスコミ不満・トラブル症候群である。誤報をされたとの理由で、小沢氏が特定の社の記者に対し、会見立入り禁止を通告してはトラブルを重ねている。周知のとおりだが、池田氏もまた、公明党の政権参画を機に、創価学会問題がマスコミの俎上に載せられることが不満でならない。“創価学会パッシングだ”と苛立つこと、しきり。「マスコミに書かれっぱなしになるな。今こそマスコミへの総反撃を。創価学会を正しく理解してもらうために、あらゆる努力を」
 池田氏は昨年末、大号令を発して、組織をあげてのマスコミ対策を指示した。
 以来、『創価新報』や『潮』など自らの新聞や雑誌を使うだけでなく、一般紙誌を利用しての反やPR大作戦一斉に開始された。「虚構のメディアを斬る」とのタイトルで、九四年一月十九日付けの「創価新報」で始まった連載記事を初めとして、「潮」の三月号には、「“宗教法人”とは何か。創価学会の実像をさぐる」と題しての桐ケ谷章、島田裕巳両氏による対談記事。そして産経新聞社の『正論』には「編集長インタビュー」に副会長の野畸勲氏が登場して、弁解と反論に努めるといった具合いである。
 反論やPRをなさるのはご自由。どういう主張が展開されるか、ウォッチーしては興味があり、歓迎もしたい。耳に痛い反論であれば、参考にし、反省材料に役立てたいぐらいのつもり。
 創価学会には論客がおられようし、シンパの知識人にもこと欠かないであろう。そういう人々に直接会って、実りある論争を深めることができれば、望外の幸せである。
 事実、一昔前までは朝日新聞社の央記者、読売新聞社の浅野記者などの有名なシンパ・ジヤーナリストがおられ、折に触れ、学会関連ものの単行本を出したり、諸雜誌に寄稿もされていた。
 近頃は消息不明である。久々の登場を期侍したが、どうやら創価学会を代弁して反論するファイトを失われたようだ。
 代わって登場するのは「週刊誌記者」「フリーライター」「月刊誌編集者」「業界誌記者」などの装いを凝らすだけで、実在するか否かも定かでない覆面集団ばかり。「仕事に支障があるため、名前は伏せてほしいとの要望で、あえて覆面座談とさせていただく」と注記されるものの、匿名の批判や反論では、説得力に欠ける。批判、反論する以上、実名が最低のモラル。匿名でしかできない反論能力の低下を、創価学会のためにも惜しみたい。大作サンが笛を吹けども、論客は踊らずの感しきり。
 編集長インタビューに、せっかく登場した野崎勲副会長にしても、「公明党は世論を基準に動く世論政党」「名誉会長は政治家が大嫌いです」「宗教法人の収益事業への課税は当然で、名誉会長の考え方も柔軟」等々のきれいごと発言や弁明の域を一歩も出ていない。PRにさえなっておらず、これまた期待外れもいいところ。
  編集長氏は「池田さんは政治大好き人間。社会党委員長時代の土井たか子さんにも非常に関心を持っていた」などと、それなりに一生懸命切り込むのであるが、気の毒なほどの空回りに終わる。
 野崎氏から「それでは“正論”じゃなくて“偏論”だ」とからかわれる始末。
 どうして空回りかといえば、質問の狙いがはっきりせず、相手の言い放題のままに終わるからだ。一例をあげよう。

--いま日本の学会員の数は何名ですか。
野崎 一千万人です。
--海外は何名です?
野崎 百二十六万人だと思います。

 こういうやりとりに節して、読者に何を知らせたいと考え、編集長が質問を発しているか、肝心なところが読者にわからない。公称数字を聞くだけで満足せず、公称と実数のへだたり、伸びているか、減っているか、脱会者の勢いは、とたたみ込んで聞かなければ、質問する意味もない。
 池田大作氏にインタビューした際に、私も同じ質問を発した。ただし、公称と実数の違いや、累積数と現在数の違いから、会員数の裏づけとなる『聖教新聞』の発行部数までをしっこく質問攻めにしたのは言うまでもない。その結果のさわりを再録する。池田氏自らが、数字のカラクリをこうご説明なさった。

池田 公称の七百八十九万世帯は、宗門から御本尊を下付された累積数であって、いまぜんぶが、という意味ではない。
内藤 公称世帯数は、入口計算だけであって、出口計算がない。足し算だけして、引き算のない数字なんですね。
池田 そのとおりです。これまで折伏していった累積ですからね。亡くなった人、退転した人も含まれている。会員実数を正確につかむのは不可能なんです。

 死者、脱会者を含めると何百万入にものばるだろう。それを含めての「一千万人」などという数字回答を聞き出すだけでは、それこそナンセンス。質疑応答の双方に緊迫感がまるで感じられない。結果としてPR効果さえもたらさず、何のための実力者副会長登場かと、疑問を呈したい。

◆窓際族になった副会長
 野崎氏は公明党とのパイプ役兼監視役、そして学会スポークスマンも務める活躍ぶり。しかし、創価学会がどれほどに深刻な問題をかかえているかといえば、その野崎氏の実兄である至亮氏が最近、学会本部職員であることをついに辞めた。弟の勲氏と一緒に池田氏のブレーン兼代作ダループの特別書籍に参加し、婦人部教学部長を務め、婦人部内に“至亮ファン”をふやした真面目人間。聖教新聞社の論説委員を長年にわたり務め、副教学部長の要職にもあった人。兄弟揃って京大卒の学会エリートである。しかし、いたたまれず、はったりが強く、元気印の弟と袂を分かって、学会を離れたのである。
 もう一人、動向が注目されるのが、副会長の桐村泰次氏。原島嵩氏のあとの教学部長を務めた名文家として知られる。池田氏とトインビーとの対談集の実質的な作者である。しかし、教学を重視すれば、結局、先輩の原島氏と同様、“池田教信者”になり切れず、学会窓際族に追い込まれた。
 野崎至亮氏に続いて、桐村氏もまた創価学会に訣別するのは時間の問題とみられている折も折、宗門・法華講側の機関紙『慧妙』(二月一日号)に、微妙な“あぶり出し記事”が掲載された。
 宗門・日蓮正宗と創価学会が決定的対立を深めたのは、皮肉なことに、大石寺開創七百年の慶祝行事が営まれた平成二年である。表舞台では僧俗仲睦まじくさまざまな記念行事を推進しながら、舞台うらでは激しく足の蹴り合いに熱を入れ、年末になってついに宗門側が、池田氏の法華講総講頭職解任に踏み切って紛争が一挙に火を吹く。
 池田氏への疑念を宗門側が次第に強めていった平成二年を通じて、“大作謗法の動かぬ証拠”を収集中、池田氏の“謗法発言”や“宗門非難暴言”の数々が録音テープにとられて宗門に持ち込まれた。
 そして、それまでは大切なスポンサーの親玉とばかりに、下にも置かぬ手厚い扱いをしていた宗門が、動かぬ証拠を得て、池田氏との訣別を決意するに至る。『慧妙』は、今回、その内幕を総ざらいするかたちで特集し、「日顕の悪党野郎、ファッショだ!」といった「猊下に対する悪意に満ち満ちた池田発言を、宗門に報告としてもたらしたのは、K副会長からであった」と暴いてみせたのである。
 百七十余人もいる副会長のなかで「K」姓は北風、北川など何人かいるが、読む人が読めば、この「K副会長」は桐村氏としか考えられない。宗門側のあぶり出し暴露により、桐村副会長の公然造反の時期が早まるのではなかろうか。池田発言を宗門側に“報告”していた副会長は桐村氏以下十四人の多数にのぼるとの有力情報が宗門サイドから伝えられる。
 桐村氏一人だけを切り捨てて、騒ぎがおさまるほど、簡単な問題ではない。
 学会内部での幹部造反の不穏な動きも知らぬ気に、当の大作親分は厳寒期の恒例として一月末から二月中旬まで香港、中国南部、タイと暖かい国ばかりを訪問し、避寒旅行を楽しんだ。帰国の地も南国・沖繩。この間に特記できることといったらタイのプーミポン国王やガラヤ二王女と会見できたことぐらい。政治大好き人間というよりも、偉い人に会って箔がついたと自慢するのが好きなだけ。根は意外と単純である。 (『諸君!』94年4月号)
       ---------(171P)-------つづく--

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