創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

内藤国夫の池田公明党-32

2016-05-31 08:51:33 | Weblog

今、改めて問う創価学会・公明党 (内藤国夫 1995/4 五月書房)
       ------(22Pから、以下本文)-------

◆馬の耳に念仏
 嘘も方便。創価学会・公明党と嘘言癖は切っても切れない仲。「創価学会が進出するのは、地方議会と参議院どまり。衆議院には進出しません」。会長就任直後の池田氏は、世間向けにこう公言する一方で、組織内部では「これは世間を油断させるためだ。我々が権力を握り、天下を取るには、衆議院進出は当然のこと。だが、力がないうちに言うと潰される。衆議院進出の準備をこっそりと、しっかり進めよう」と“^天下取り”の夢を得意げに語っていたのである。公明党結党以前、公明政治連盟時代のこと。
 だから、公明党は結党のそもそもの始まりから、嘘をつき、世間を欺き、“ダマシ撃ち”のようにして、衆議院初進出を果たしたのだ。
「衆議院には進出しない」との前言をひるがえすのに、也田氏はいささかのためらいも感じなかつた。「皆さん、民衆の総意により衆議院に進出しょうではありませんか」。会長就任四年後の昭和三十九年五月三日、創価学会本部総会で、池田氏はこう呼びかけるとともに、その場で公明党結党を宣言したのである。
「綸言汗の如し」。一度口から出した言葉の重みを池田氏に説きたいところだが、それこそ,「馬の耳に念仏」というものだろう。説くだけムダである。
 嘘言癖が「不治の病」である以上、騙され続けた世間の方が、いい加滅に目を覚ますしか防禦策はない。残念なことではあるけれど、常識が通用する普通の組織とは考えない用心深さが大切となる。
 十一月五日の公明党大会当日、『朝日新聞』は「学会・公明党の本心を問う」と題する社説を掲げた。前日の毎日社説ほどひどい内容ではないけれど、創価学会・公明党の本質と体質がまるでわかっていない点では五十歩百歩の突っ込み不足。「本心を問う」と問いかけて、本心が正直に語られると、本心から信じているのだろうかと、逆に問いかけたいところである。
 公明党の「分党・二段階」方式を、朝日社説は「奇策」「何ともわかりにくい構図」と批判したうえで、こう論ずる。
「公明党は有権者の反応をどう考えているのか不思議に思う。不透明な印象が増すのは、同党と支待母体の創価学会の本心がどこにあるのかつかめないからである」
「新生党などの関係者の中から“学会と公明党は新・新党から逃げ腰だ”という声が出るのも無理はない」
「学会は政党との支持協力関係だけでなく、学会員個人の政党支持の自由も保障するのかどうか、この際明確にしたらどうか」
「今後“一・一ライン”の路線はどうなるのか、そこも知りたいところだ」
「“政治の監視役”という初心に帰るつもりはないのかどうか、聞きたいものだ」
 一読して、いかにも真っ当な問いかけのように思われる。しかし、池田大作氏にとっては痛くも痒くもない質問ばかり。
「そうか、そうか」と言って、「心にもない本心」を語ってくれるだろう。池田氏は「天下取り」の目的達成の日まで、その場しのぎに、いくらでも嘘を積み重ねていくだけ。もしかして、嘘をついているとの自覚さえないかも知れない。こういう特異な人に対する場合、「本心」は「問う」のではなく、「見抜く」しか知りようがない。

◆執念だけは不変
 細川、羽田両内閣の成立によって、いったんは手中にした政権政党の旨みを、どう取り戻すか。
 池田大作氏の本心と狙いは、この一点に絞られる。
「一・一」に乗っかって政権に復帰できるなら、それも良し。「一・一」が挫折するなら、あっさりと使い捨て、自民党との復縁を目指して策略を凝らすまで。二股をかける煙幕作戦のためには「奇策」「わかりにくさ」「不透明」との非難が生じるのは、もとより承知のこと。政権復帰への早道を考えて「分党・二段階」方式を採りながら、必勝決意の賭に打って出た。
 あとは自民党の内輪もめか、自社のヒビ割れを待つのみ。
 半永久政権政党状況が続く間の自民党にとって、将来、不幸・不運にも衆院議席の過半数割れの事態に直面する時があるとしたら、“突支い棒”となって政権の座を維待してくれる助っ人が公明党であると長年にわたり信じられてきた。
 しかし、実際に過半数割れしたとたん、公明党は自民党を蹴落として「天下取り」の夢実現に突っ走った。こうなると憎さ百倍。政権政党時代に創価学会・公明党を甘やかせたのが悔まれてならない。反省三味。一転して、自民党は組織をあげての創価学会・公明党批判派に脱皮した。
 おまけに「一・一」の大チョンボで、社会党が自民党の“突支い棒”の役割を演じてくれることになり、思いがけずも早期の政権復帰が実現した。宿敵と双方が思い込んでいたのに、お互いが助っ人役を演じ合う、意外なレース展開である。
 今後も過半数割れが続く間の自民党にとって、政権政党を維持するのに役立つ“突支い棒”は社会党と公明党のいずれが好都合であるか。それぞれに一長一短がある。
 参院選の愛知再選挙ではっきりしたように、創価学全のとてつもない集票力を考えると、公明党は味方にとっては頼もしい存在だし、敵に回すと厄介である。社会党の集票力は無惨なほどに頼りなかった。
 長年の間、“反自民”をエネルギー源としてきた社会党の活動家やシンパにとっては、“半自民”の現状ポストでは力が入らず、勇み立ちようがない。議員レベルだけでなく、支持者層を含めての宿敵意識からの脱却、違和感,居心地の悪さを克服できるかどうか。
 一枚岩、一致団結を誇りとする公明党とは反対に、社会党は常に党内に不協和音が存在する。
“二本社会党”の伝統よろしく、左右対立は、村山政権下にあっても、片や「村山政権を支え、社民リベラル政治をすすめる会」(中西績介会長)、片や「新民主連合」(山花貞夫会長)ということで、ことごとに角突き合わせる。
 これを健全、党内民主主義の現われと好意的に見るか、だから付き合いづらいとマイナス判断するか、入それぞれだろう。
 結局、自民党内には、“突支い棒政党”として社会党の方を良質と考えるグループと、公明党の方が頼りがいがあると計算するグループが存在する。いずれが多数を制するか、また将来、二派に分裂するかどうか。同様にして社会党内にも、自民党と組んで当然とするグループ、反自民にこだわり、「一・一」との復縁を志向するグループが存在する。
 軍縮か武力重視か。生活者重視か生産者重視か。人権・民主主義・協調尊重か決断と実行を重んじてリーダーシップの発揮に傾くか。地方分権型政治か中央集権型政治か。大きな政府か小さな政府か。今は与野党双方にこれらの考えが分散し混在したまま。
 政界再編のうねりがおさまらず、これからも二度、三度と離合集散を繰り返しながら、すっきりしたグループ分けがさらに進んでいくのかどうか。
 不確定要素が多いなかにあって、ただ一つはっきりしているのは、池田大作氏の虎視眈々たる政権復帰願望と「我こそはキングメー力ーたらん」との天下取り執念のすさまじさである。
 監視の目をうっかり緩めるわけにはいかないと考える次第。     (『諸君!』95年1月号)
       --------改頁--------233

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