--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
「創価学会・公明党をブッた斬る」 藤原弘達
「創価学会・公明党をブッた斬る」 藤原弘達
…S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
------(P20)---(以下、本文)-------
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第一部 なぜ、いま再び「創価学会を斬る」か
● ネズミ講、豊田商事も顔負け!創価学会のマルチ商法
● 笑顔のファシスト?大ウソつき連続の池田大作
● 創価学会は色と欲と権力のマンダラ図だ
● 創価学会には日本版ナチスが一番ピッ夕リだ
● 創価学会「王仏冥合」は池田大作の日本乗取りの合い言葉だ
1 やはり、どうにもいかがわしい創価学会
あの池田大作を知ってるかい?
◆ 池田大作先生、またまた大売出し中
池田大作、Who?などといったら笑われるだろうか。池田大作先生は、実に田中角栄なみのスーパー有名人だ。公称会員七八〇万世帯を擁する創価学会名誉会長であり、野党第二党・公明党の生みの親である。創価学会会員は池田大作を「先生」と呼び、「お父さんのような方」と表現する。創価学会では、「先生」の呼称は三人の人物に限られる。 即ち、初代・牧ロ(常三郎)先生、二代・戸田(城聖)先生、そして三代・池田大作先生なのである。
「先生」の呼称が会則に決められているわけではないが、四代会長・北条浩(故人)も、現会長・秋谷栄之助も「先生」じやない。政教分離となっている以上、公明党のトップは竹入義勝に違いないのだが、竹入にとって池田は、やはり「先生」なのである。
前会長・北条浩も会長就任の際、「私のことを先生と呼ばないで下さい。……さんでいいでしょう」といつている。創価学会において「先生」の呼称は、国会議員センセイ、マスコミ界の作家、評論家センセイなどとは重みが全く違うのだ。もっとも、周知の如く、中国へ旅行すれば、日本人は総て、「先生」になるが……。
それはさておき、この高名なる池田大作先生を、私は改めて、「池田大作、Who?」(そも、ナニモノなりや)と問い直すのである。
近ごろ、新聞、雑誌に池田大作の著書出版広告がすこぶるハデに出回っている。国電や地下鉄に、中吊り広告まである。新聞なら、少なくとも半五(五段二分の一)だ。顔写真つきである。
本の広告に著者の写真やイラストがつくのは今ではもはや珍しいことでもないが、かって小説家の中野重治が出版社から宣伝用に写真を求められた時、「私は字書き(注.小説家)であって俳優じやないから、写真は不必要だろう」と、拒んだそうだ。
現代では、字書きも顔写真を載せることが出版社の営業方針だから、池田大作の出版広告の顔写真も当り前のことなんだろう。しかし、繰り返す、私が「池田大作、Who?」ということには別の理由がある。
私が関知すること二十数年に及ぶ池田大作なる男、今ごろ、自分の顔まで著書の広告に飾りたてるようなタマではないはずなんだが……凶悪犯手配写真のそれではあるまいか、という奇妙な錯覚さえ覚える。
どうやら、同じようなことを感じる方もあるとみえる。雑誌『文藝春秋』昭和六十年八月号の〈盖棺録〉なるコラムに、次のような一節が出ている。
本の広告に著者の写真やイラストがつくのは今ではもはや珍しいことでもないが、かって小説家の中野重治が出版社から宣伝用に写真を求められた時、「私は字書き(注.小説家)であって俳優じやないから、写真は不必要だろう」と、拒んだそうだ。
現代では、字書きも顔写真を載せることが出版社の営業方針だから、池田大作の出版広告の顔写真も当り前のことなんだろう。しかし、繰り返す、私が「池田大作、Who?」ということには別の理由がある。
私が関知すること二十数年に及ぶ池田大作なる男、今ごろ、自分の顔まで著書の広告に飾りたてるようなタマではないはずなんだが……凶悪犯手配写真のそれではあるまいか、という奇妙な錯覚さえ覚える。
どうやら、同じようなことを感じる方もあるとみえる。雑誌『文藝春秋』昭和六十年八月号の〈盖棺録〉なるコラムに、次のような一節が出ている。
「信者はどう思っているか知らないが、毎週のように地下鉄の中にぶら下る池田大作の幅広いツラを見ていると、中年以上の第三者としては、(中略)有田ドラッグ(注・淋病のクスリを売りまくり、一代で巨富をにぎった)の猛烈な広告攻勢を思い出す。いずれも『信じる者は病気が治る』『治った実例がたんとある』点で共通だ」
有田ドラッグ広告の、有田音松の脂ぎった顔と池田大作著書広告の顔がダブッて思い出されてくるから妙なものだ。
ところで、池田大作の創価学会は、このところ、下半身スキャンダルや盗聴犯罪などの続出で、そのイメージダウンぶりは大変なものである。だからこそ、池田大作の出版広告も、黒いイメージ払拭のためのPR効果を狙ったフシも十分に窺われるものの、いささか異様な印象を受ける。むしろ、逆効果かも知れない。
有田ドラッグ広告の、有田音松の脂ぎった顔と池田大作著書広告の顔がダブッて思い出されてくるから妙なものだ。
ところで、池田大作の創価学会は、このところ、下半身スキャンダルや盗聴犯罪などの続出で、そのイメージダウンぶりは大変なものである。だからこそ、池田大作の出版広告も、黒いイメージ払拭のためのPR効果を狙ったフシも十分に窺われるものの、いささか異様な印象を受ける。むしろ、逆効果かも知れない。
◆ 池田大作は百科全書家か?
「潮出版」「聖教新聞」は、いわずと知れた創価学会直系である。次に、「潮」「聖教」二社から出た池田大作著書の広告を見てみょう。
「闇は暁を求めて ルネ・ユイグ/池田大作
● 東西の知性が放つ、混迷と狂奔の現代への警鐘!
現代フランス屈指の美術史家、ルネ・ユイグ氏と池田名誉会長が美と宗教と人間の再発見を語る注目の対話集」(『闇は暁を求めて』)
やたらに修飾語が多すぎて、意味不明のコピーである。朝日新聞四月十五日朝刊掲載だが、右のコピーの中で、「池田名誉会長が……」とだけあるのも、奇妙なものだ。創価学会名誉会長といわず、単に名誉会長というだけで一般読者にもちゃんと通じる、といわんばかりだ。
同じく、池田大作著として--
「世界的指導者三十人との出会いを綴る感動のエッセィ」(『二十一世紀への対話』)
「人生、女性、文化、社会の四章を収録した珠玉篇」(人生抄・池田大作箴言集)
「人間の危機を回避するために、深い洞察のうえから交された対話集」(A・マルロー、池田大作著)
さらに、月刊誌『潮』の広告がある。目次の中で、またしても池田大作の顔が目につく。
「生命と仏法を語るシリーズ」となっている。
「人間の心と体は密接不可分であり、互いが相互に作用しあっているのが本来の姿であると仏法は説く……」
月刊『潮』は、一般総合雑誌の装いをとっている。創価学会機関誌とはいっていないが、これだけ池田の原稿を特別扱いするのは、“目玉商品”ということなのか(もっとも、池田は、『潮』の目次における自分の扱いが小さいと激怒して編集者を叱りつけるそうである)。しかも、一般全国紙に出す広告である。それらは、朝日の他は、毎日、サンケイ、読売のスぺースを買っている。一般雑誌に出る広告も同巧異曲。こんな賑々しい宣伝広告を見せられると、世の中の人は、池田大作なるご仁は類い稀なる、何でも知っている文化人、いうなれば百科全書人のように思うことだろう。
学識古今東西に通じ、芸術、哲学、歴史、科学を語って、総て至らざるものなし。世界的指導者とサシで話しあえる大人物……こんなイメージをもったら、週刊誌を賑わした“低級”な下半身スキャンダル裁判は別人物のもの、と思う人も多いに違いない。おめず臆せず、いささかのテレも恥らいもなしに池田大作名誉会長を売り込むのは、まさにそこに狙いがあるらしい。断わっておくが、たとえ誇大なキャッチフレーズで売り込もうと、それは表現の自由だし、その広告を掲載するのは、マスコミ媒体の営業方針である。それだけで、とやかくいう筋合いのことではない。古くさいといわれることを承知の上で敢えていうなら、孔子サマも忠告しているではないか。巧言令色鮮仁--うますぎるハナシは眉唾だ、とね。
私が池田著書広告を云々するのは、おめず臆せずの売り込みをケシカランとするものではなく、今この時期に、厚顔無恥ともいうべきキャッチフレーズをまき散らす創価学会に、相も変わらぬ、うさんくさい体臭、無反省とハレンチの見本をみる思いがするからである。自由社会を脅やかす--表現の自由を侵す犯罪者が、忍び足のソフトムードで、表現の自由を逆手にとりつつ、背後から忍び寄っているということでもあろう。厚顔無恥どころではない。十六年前の言論・出版妨害事件に引き続き、共産党議長・宮本顕治宅電話盗睇事件、月刊ペン事件にしても、断じて免罪になってはいない。いよいよもって、その反社会的悪質度はエスカレートしているということなのだ。
----------(次回に、つづく)---------28
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