創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-13

2019-11-05 06:07:38 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
      --言論出版妨害事件-- 昭和44年(1969年)
    ------(P.61)---(以下、本文)-------

◆ 創価学会発展の社会的背景とその手ぐち
 それにしても、700万世帯、1000万人余の人間組織集団は、日本の歴史上にあまり類例をみないマンモス集団といえる。それだけの人間を集めるからには、それなりの魅力をもっていたことは否定できないところであろう。創価学会の信者一人一人にあたってみると、たいていは真面目な人間であるようだし、日蓮正宗を唯一無二のものとして信仰しているのであろうから、信仰態度としてはそれなりに立派なものかもしれない。
 しかし、創価学会の会員が、いったい、学会の本質や、さらにはこの組織が何を狙いとするかというような点を、自己の運命や自己の立場や自己の人間性との関連において、どれだけしっかり把握しているか、という点になると大きな疑問が残るのである。

 創価学会の会員がどうして学会に入ったのか、興味のあるところはまさにその点であるが、その入信動機の背景は、大別して二つあるといわなければならない。
 一つは外的な要因、つまり戦後社会における社会的不満、政治腐敗ないしは不振等々の外面的条件である。
 もう一つは内面的要因として学会がなんらかの精神的渇望に応えている、という側面を無視できない。
 この外と内との二つの要因に、敗戦という日本未曽有の社会的環境の中からうまれたものでもあるが、創価学会の進出はこの二つの要因を実に巧みに利用し、またうまく組み合わせていったところにある。

 敗戦という歴史的な大事件と、これにともなう社会環境の変化は、まず明治維新以来のさまざまな権威を一挙に叩きつぶしたところにあった。天皇の権威をもって、民衆を圧しつづけてきた一切の政治権力は、敗戦とともにもろくも崩壊した。この強力な信仰体糸の崩壊がもたらした結果の前に、国民大衆は何よりもまず、とまどったといわなければならない。これまで専制的権力のもとに、受動的生活に慣らされてきた民衆が、一夜にして民主主義にふさわしい自律的生活をそれなりに強いられたわけであるから、その混乱たるやまさに目をおおうものがあった。過去の心のよりどころを失なった国民大衆は、最低限の生存のためにも心の支えを必要としていた、ということである。

 ながい間、ハイハイと受動的生活を強制されてきたのであるから、一挙に自律的生活に切りかえるといってもムリであった、ということでもある。その意味で、敗戦という日本国家および国民に与えた大きな打撃は、民衆を混迷と虚脱伏態に追いこみ、かててくわえて政治と経済の空白時代がかなりの期間つづいた。
 戦後の日本の民衆は、東京オリンピックでニチボー貝塚を大勝利に導いた大松監督(現参議院議員)のような「俺についてこい」「なせばなる」と敢えていうような強烈な指導者をば、それなりに求めていたといっても過言ではなかろう。当時の民衆にとって、それがどういう方向を示すものであり、どういう運命が予知されるものであるか、というようなことは必ずしも当面の問題ではなかった。そういうふかふかと浮いた空疎な精神的状態が、社会の底辺にある大衆の心の一般的傾向であった。空白が大きければ大きいほど、強烈で鮮かな指導者、またそれに身を寄せれば、少なくともなんらかの心の張りを見いだせるような支えになる組織、こうしたものをまさに乞い求めていた。

 戦後、雨後のタケノコのようにさまざまな新興宗教が誕生したが、新興宗教にとって戦争直後の社会状勢は、教勢拡大の絶好の条件になっていたといってよい。その点において、創価学会も決して例外ではない。創価学会も伸びたが、他の新興宗教も伸びたということである。
 創価学会はそのなかで、このタイミングをもっともうまく、最大限に活用した一種の新興宗教であるといえよう。戸田城聖は、幹部会員に折伏持訓を行ない、青年部をして折伏の突撃部隊としての使命を付与し、そのすさまじいエネルギーを内包しながら、邪宗撲滅論を旗印として、新興ならびに既存の宗教、たとえば立正佼成会、天理教等々に対する総攻撃をかける折伏大行進を展開したわけである。こういう他宗教に対する総攻撃と同時に、まさに散兵のように一対一の折伏を強行し、組織の底辺を固めながら、他宗教にそのエネルギーを向けていったそのやり方は、戦後のさまざまな新興宗教の大繁昌の中において、もっとも戦闘的であり、もっとも組織的であったということができる。

 では、創価学会の実際の勧誘はどういう具合に行なわれているのだろうか。
 それはまず「ともかくやってごらんなさい。やってみなければ何もわからないではないですか」というようなはなはだ柔和な戦法からはじまる。まずこうしたソフトムードでアプローチし、「これはものになる」という攻略目標が設定されたとなると、折伏であるということで入れかわり立ちかわり押しかけてゆく。そして一種の洗脳がはじまるわけである。
 学会員にとっては、折伏こそ不可欠の宗教的義務であり、使命なのであるから、他人の都合など全くおかまいなしなのである。それも時には集団で押しかけるから、よほど意思強固、思想的立場のはっきりした人でないと、ズルズルと押し切られてしまうことになるようである。
 その際、現世利益をふりかざすのも彼等の常套手段である。したがって、彼等の攻撃相手、攻略目標は、社会的に脱落した人間ないしは脱落しつつある人間に向けられることが多い。宗教は人間の魂を救うことが本来の目標であるとすれば、そういう点に目標を向けることも至極当然であろうが、問題はその方法なのである。

 ソフトムードでアプローチするまではともかく、ある段階以後になると、一種の威かく、中傷に等しいやり方が行なわれる。
 こういうやり方自体はどう考えてみても宗教者のやることではない感じがする。彼等にいわせれば、折伏は慈悲の行為なのであるから、大いにそういうようにおどしあげたり、中傷することも、それぞれ慈悲の行為の変形として許されるという理屈になるのであろうが、ともかく折伏は慈悲の行為であるという論理は、創価学会内では通用する論理ではあっても、一般社会ては通用しない理屈であるということを、この際はっきりと断言しておこう。
 やられる方はかなわないということである。ただし、やられる側の精神的弱さ、魂の弱さにも問題があるといわなければならない。
     ----------(つづく)---------65

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