創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-22

2018-09-01 07:22:05 | Weblog

  <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.137)---(以下、本文)-------

第4章 ボロ隠しグループ
 創価学会には、学会員にしか通用しない独特の用語が幾つもある。第三文明といっても何を意味するか、一般にはわからない。人間性社会主義とか地球民族主義、創価王国、王仏冥合、舎衛の三億等々、池田の率いる学会は仏法用語でカムフラージュしながら、意図的にわかりにくい言葉を造語する。                                                  
 その中の一つが「広宣流布」の別名である「総体革命」。何やら秘密めいた雰囲気を漂わせながら、「総体革命が実現するまで頑張ろうね」などと会員同士が励ましあう。
 池田会長就任以来、破竹の勢い、怖いもの知らずに急成長を続けてきた学会・公明党が、四十四年末から四十五年半ばにかけての出版妨害事件騒動で大きくつまずいた。
 初めて味わう、政治的な挫折と屈辱である。
 その反省と復讐心から考え出されたのが、総体革命。政界進出に偏重せず、社会のあらゆる分野、階層に創価王国を志す革命家を密かに送りこみ、育てあげ、世間の人々がアッと気づいた時には、周りが学会員だらけになっており、どうにも対応のしょうがなくなっている状況を目指した。団地の自治会役員に始まり、学校のPTA役員、地域、職場の世話役等々密かに進出し、占領する分野はいくらでもある。一般の人々が面倒に思い、億劫がるポストにどんどん浸蝕していこうという作戦。
                      ☆
 総体革命の中枢的役割を担うのが、検事や弁護士。それ以外にも資格試験の合格者をふやし、同時に官僚機構への進出を果たすことだった。
 開学二十周年を迎えようとする創価大学の卒業生は既に二万人近くに達し、その中で司法試験合格者が四七人、上級公務員入りしたのが二〇人、外交官試験合格者六人、外務省専門職二三人、公認会計士五七人などが、これまでの“戦果”としてあげられる。
 トップに立つ池田大作の性癖を反映しているせいだろう、学会には宗教団体にあるまじき謀略体質がつきまとう。電話の盗聴に始まって、相手組織への潜入や攪乱工作、選挙になると買収やら集団替え玉投票、そして場合によっては恐喝、窃盗、集団暴行と、組織暴力団まがいの不法行為を重ねてきた。
 仏法のためなら、世法、国法を犯してもかまわないとする“嘘も方便”体質。何をしても世間を騙し通せるとの錯覚や思い上り。
 結果は、しかし、ポロポロとボ口の出し続けである。ボロ隠しのため、さらにボロを重ねるという、悪循環。
 総体革命の尖兵であるはずの学会子飼いの弁護士たちが、肝心の総体革命を目指すより、ボロ隠し作業に追われるお粗末さだ。
 池田は、法廷での証言で「私は弁護士を信用していない。弁護士が嫌いだ」などと口走りながら、弁護士をはじめとするボロ隠しグループの手助けなしには、一日として安心たりえない。
 世にも珍しく、不思議な“宗教指導者”ではないか。

I 弁護士は嫌いだといいながら
◆ 矢野 絢也
    不祥事をこれ幸いに切り捨てられた
 猜疑心の塊りのような男・池田大作は、側近幹部を前にして「オレは誰も信用していないよ」と胸のうちをよく明かす。
 「私は弁護士を信用してませんから」と裁判所(月刊ペン裁判での証人出廷の際)で証言したことがある。
 「弁護士は嫌いだ」「弁護士、東大出、教学部長…。みんな、どうってことないよ」等々の大作語録もある。それでいて弁護士に頼らざるを得ない複雑な思いが、これらの発言の裏に感じとれる。
 この「誰も」とか「弁護士」の言葉を「公明党」とか「矢野委員長「に置きかえても、十分に意味は通ずる。
 「公明党の議員たちは名聞名利にかられ、楽をして仕事をせず、金儲け仕事ばかりに熱を入れている。誰のお陰で議員になれたと思うんだ」
 これが、党創設者の公明党議員に対する基本的な“ご不満”である。
 公明党の現状には不満だらけ。それでいて公明党に守ってもらわねばならず、事実として番犬役を果たしてくれる。六十一年十二月、竹入委員長を更迭し、矢野委員長を誕生させたのは、池田なりの計算があってのことだった。
 「竹入は忠誠である。矢野なんか問題じゃない」「矢野ほどの悪党はいないな」
 池田大作は、公明党の忠誠度、番犬ぶりを評して、矢野書記長への不信を語った。
 竹入・矢野コンビが二十年間も延々と続いたのは、書記長を委員長に昇格させることについて、池田が一抹の不安感を捨てきれずにいたからである。竹入・矢野体制を一挙に解消し、石田幸四郎委員長・大久保直彦書記長コンビに切り替える案も検討された。池田には、矢野を切るか逆に利用するかについて、常に大きな迷いがあった。そのために、ズルズルと二十年間も竹入・矢野体制が続いたのである。
                      ☆
 他方、矢野の側からすると、三十四歳の若さで党書記長に抜擢されて以来、二十年間、竹入委員長への遠慮から、あえて手がけずにやりすごした“積み残し問題”を自分の手で解決したいとの希望があった。
 女房役ではなく、一度は党のトップ、党首としての力量を発揮してみたかった。そのためにも胸の奥深くにある池田批判を隠し、「党創設者を守りきってみせます」との誓いを立てた。
 その誓いの証しの一つが、池田への公然批判を強める藤原行正グループを切って捨てることである。竹入委員長にはできなかった切開手術をやってみせましょうと、密かに約束をしてみせた。
 そうしてやっとスター卜した矢野体制だが、予想外の難問続出に、矢野はてんてこまい。田代砂利船汚職、大橋・藤原両古参議員の公然決起、池田克也リクルート受託収陏と続いたあげくに、矢野自身の明電工関連株疑惑、自宅での二億円の現ナマやりとりと、次から次へとばかりに火の粉がふりかかった。
 「党創設者をお守りする」どころか、自分の身を守るのに汲々といったところ。
 本来の矢野は頭の回転が速く、神経は図太く、修羅場経験を数多くこなした“したたか人間"である。
 念顔の委員長就任以来、その本領を発揮できなかったのは、身の不運というべきか。
 「せっかく委員長になったからには、積み残し問題を解決し、参院選挙、衆院選挙で総指揮をとり、党上昇のきっかけを自分の手でなんとしてでも」とご本人はファイトを燃やした。
 その参院選挙や衆院選挙を待てずに、任期途中の平成元年五月、委員長ポストを自ら投げ出した。不祥事の責任をとり、ケジメをつけると理由づけたが、実際には矢野委員長のもとでは選挙に大敗するとの危惧から、池田によって切り捨てられたのである。
 お気の毒だが、委員長になるのが遅すぎたようだ。
  -----(142P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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