創価学会・公明党をブッた斬る 藤原弘達
--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
…S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
------(P168)---(以下、本文)-------
◆ 状況しだいで、中道という名の往きつ戻りつの変節
衆議院に進出した公明党は、三十二人の候補を立て二十五人当選であった。もちろん、そのベースはそっくり創価学会票だ。衆議院においては、従来の政党地図に第三勢力として登場。
このとき自民党は得票率五〇%を割り、保守退潮の危機感を抱いた。
この年の東京都知事選で、公明党は自民党の呼びかけを蹴り、独自候補を立てた。保守、革新のいずれにも寄らず、フリーハンドなのである。
ところが、四十三年に公明党は、原子力空母佐世保入港に反対、一大集会を組織、民社党を“第二自民党”と攻撃、安保条約の段階的解消を発表する。原子力空母入港反対も、民社“第二自民党”論も、安保の段階的解消も、国民の自民党批判、憲法改正・日米安保強化反対という革新上げ潮ムードに乗ったものである。安保の段陪的解消論といっても、即時廃棄は非現実的であるが、将来は「当然解消されるべきもの」と、及び腰で常識論をもちだしたというところだ。
そこへ、四十四年から四十五年にかけて、言論・出版妨害事件が起きる。世論のフクロ叩きにあった創価学会・公明党は、池田大作の“お詫び講演”で、政教分離を公約する羽目に至ったのである。公明党はその後、第八回党大会で政教分離を決定、新綱領を採択して党規、組織を改正した。新綱領の第一に、今度は国民政党への転換が示された。
言論・出版妨害事件に関し、敢えて重複を承知でいうなら、事件の直接的ヒキガネとなった『創価学会を斬る』の出版妨害に、自民党幹事長(当時)・田中角栄が介入したことで、創価学会・公明党の反自民、革新寄りがいかにみせかけであったかが、白日の下に明らかにされた。
それ以後の公明党の動きをみると、自民党支配勢力と公明党の水面下の連繋は切れることなく続いていた。それは、佐藤内閣(田中幹事長)から田中内閣、そして自民党カゲの支配者として“闇将軍”と呼ばれた田中角栄全盛時代を通じて、ほぼ一貫していた。
田中全盛期と公明党の野党第二党安定期は、ビタリと符節を合しているのである。まさに「カクの傘」に安全保障されたケッタイな野党ということだ。
しかもその間、公明党は保守、革新、中道革新と往きつ戻りつし、めまぐるしい。そのめまぐるしさを、年表ふうに記してみよう。
昭和47・12・10 田中内閣の下、総選挙。公明、前回より十八議席減。当選二十九。第四党転落。
昭和48・01・28 公明党第十回中央委、安保即時廃棄表明。
05・15 小選挙区制反対、社共両党と共闘を組む。
09・04 第十一回党大会で安保即時廃棄、中道革新連合政権構想決定。
09・18 共産党と「憲法論争」始まる。
昭和49・06・06 参院選で社公選挙協力きめる。
11・26 田中角栄退陣。
12・28 「創共協定」調印。
昭和50・07・27 「創共十年協定」発表。
07・28 「秋谷(創価学会副会長・当時)見解」発表。協定空洞化。
09・21 総評と定期協議会設置に合意。
10・14 第十三回党大会で、安保即時廃棄から合意廃棄へ。
昭和51・10・19 同盟と「政策懇談会」
11・11 総選挙で公民協力合意。
11・26 竹入発言、自民党と対決する保守とは提携。
11・28 総選挙で社公協力合意。
12・05 総選挙、公明五十五議席、第三党に。自民単独過半数を割る。
昭和52・06・11 参院選で社公協力合意。
06・13 参院選で社公協力合意。
08・20 第二十六回中央委員会、竹入「中道革新ブ口ックの形成」提案。
10・16 釧路市長選で自公民連合、革新市長に勝つ。
昭和53・01・11 第十五回党大会、安保.自衛隊是認の挨拶(竹入)
08・16 正木政審会長、有事立法賛成の「党見解」発表。
09・06 矢野書記長、自民的有事立法に反対発表。
昭和54・04・08 東京、大阪首長選挙、保守・中道連合が革新に勝つ。
09・11 総選挙で公民協力合意。
09・15 矢野、富塚総評事務局長、選挙協力で合意。
10・07 総選挙、公明党五十七人当選。
12・06 公民両党「中道連合政権構想」合意。
ざっとみただけでも、公明党が保守、革新、中道と揺れ動く時は、党勢の消長、保革の力関係、社会情勢の動向とパラレルだ。保守、革新、中道を往きつ戻りつは、いかにして第三勢力として割り込み、キャスティングポートを握るかの日和見のみである。
---------(172P)-------つづく--
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