創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-28

2018-01-27 09:29:54 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
    ------(P173)---(以下、本文)-------

2 ピジョンなき政権欲ボケ
  なぜ、こうも路線が終始一貫を欠くのか
◆ クルクルと路線変更するにはワケがある
 前章にみたとおり、公明党路線の振幅の大きいこと、「右往左往党」「世論調査党」「ジグザグ路線党」の異名がつけられているほどである。
 なぜ、そのようにジグザグコースをたどるのか、いま少し、その時々における変転ぶりを検討してみる。

 例えば昭和四十六年十一月の、いわゆる沖縄国会において、野党共闘で徹底抗戦を示していたにも拘らず、終盤に至り公明党は党決議案を条件に自民党と組み、国会審議再会を図る。これにより、野党は敗退、沖縄返還協定は成立した。文字通り、一夜にして共闘を裏切る体の“変り身”の早さは、言論・出版妨害事件における田中角栄及び佐藤・自民党への借りを返したものだ。
出版妨害に一役買わされた田中角栄の、「少々のお節介をやきすぎたが……政治に素人集団だから、面倒みてやって、将来何かの際に備えたかった」という弁解を思い出すことができるのである。

<くるくる変わる公明党>
 安保
  安保段階的解消(昭和43年)
  安保即時廃棄(昭和48年)
  安保合意廃棄(昭和50年)
 自衛隊
  自衛隊、違憲の疑い濃厚(昭和48年)
  「自衛隊」の存在は規定事実化‥‥(昭和53年)
  総合的な立場で自衛隊を‥‥公明党の‥‥(昭和56年)
 政権構想
  とりあえずキャスティングボートを目指す(昭和43年)
  中道革新連合政権(昭和47年)
  八〇年代連合政権要項、自民党勢力との連合含み(昭和55年)
  自民党と連合<二階堂擁立構想>(昭和59年)

  次に四十八年になると、安保即時廃棄、自衛隊違憲の疑いあり、が出てくる。この間、四十七年総選挙の敗北がある。この時は、十八議席を失った。ここから、公明党は革新路線への転換を図る。安保即時廃棄も反自衛隊姿勢も、その表われだ。首長選挙でも、それまでの自民党支援から社共寄りへ動き、自民党案小選挙区制に対しては、社共両党と共闘を組む。ただし、第十一回中央委員会(四十八年五月)では「政権構想につながる持続的・包括的共闘と、個々の国民的要求の課題での共闘は区別する」とした。
 共産党との共闘は「国民要求の課題」に限ったのだが、いずれにしても、公明党の“革新色”は強まったとみえた。
 選挙で党勢退潮とみれば革新寄り、勢いづけば保守と組む。そういうパターンをとる、特異な嗅覚をもつ政治集団なのである。私が、創価学会・公明党の「保守」も「革新」もそれ自体は大した意味をもっていないというのは、このことである。しかし、それは政党間の党利党略の力ケヒキよりも、政治をヤミ取引をテコに混迷させ、国民の判断を誤らせるという点では、まことに悪質で危険な体質という他ない。

 ともかく、五十一年総選挙で公明党は五十五人も当選させ、第三党・野党第二党の地位を挽回する。期せずして、創価学会・公明党は内と外からの難題を抱え、“革新色”はおろか、野党色も薄めて自民党及び民社党にすり寄っていった。再び路線変更である。

変り身の早さだけがとりえ
 創価学会・公明党にとって、この時期、内外からの難題は大きく分けると二つあった。一つは本山・大石寺との確執・相剋から、宗門及び学会内部に噴き出してきた批判、内紛、造反事件である。外からの難題とは、「特別財務」の名目で集めた膨大な資金による学会の資産づくりが、注目と疑惑を招いたことだ。田中角栄の“列島改造”ブームの小型版よろしく、創価学会は全国に約四百か所の会館、土地、数十万坪単位の研修所(ホテルなみの施設)、墓苑を手に入れた。資産総額は二兆円ともいわれたものである。この驚くべき、宗教団体らしからぬ資産づくりについて、民社党が動いた。(次頁の表-省略-は内藤国夫著『創価学会の野望』より)
 五十二年四月、民社党は「創価学会の取得、保有する不動産等に関する質問主意書」というのを、政府あて提出の準備にかかった。
 思いがけない伏兵--民社党の動きに、創価学会・公明党は狼狽した。質問主意書は、学会所有全国各施設が、--
 ① 非課税対象になっていれば宗教法人保護措置濫用の脱税行為に当たるとして実態調査を
   要求、
 ② 国立・国定公園地域内の学会施設に通念を超えた許可の疑いなどがあり、許可申請内容、
   許可状況、及び許可内容と現実の施設実態との相違の有無につき調査、報告を要求して
   いたものだ。--
 民社党の質問主意書は、公明党から頼み込み、提出は食い止めた。

 開館、開所、新装した創価学会施設(改装、建築中も含む。数字はその年度……省略
       ----------改頁----------
 政治問題化することなく不発に終わったのであるが、ナ二があったかは問う必要もない。以後の状況をみることで十分である。
 この他にも、外からの難題は、五十一年に創価学会が池田スキャンダル(女性関係)問題で、名誉毀損として告訴した「月刊ペン」裁判がある。十年裁判となったが、未だ決着をみるに至っていない。
 さて、五十年になると公明党は、第十三回党大会において、安保合意廃棄(外交交渉による)と改める。この方針転換は、さらに四年後には、日米安保条約は「当面存続」となる。自衛隊については、専守防衛、シビリアン・コントロールを強化して保持すると、完全に認知することになる。

 続いて、五十五年になると、公明党は反自民の規定をはずす。“人間ノ正道ハコレ滄桑”という言葉がある。変化するのが人の世の姿であり、変化なければ進歩もあり得ないというものだ。
 しかし、いかに“正道ハコレ滄桑”とはいえ、公明党のかくもめまぐるしい“変身”ぶりには誰しも首をひねるところだ。うさん臭さ、眉ツバものと思わせられる。
 要するに、公明党の“変り身”の早さは、進歩でも前進でもない。時流の表面だけを見るものの、底流は考えない。 政党として現実変革の意志などあるわけはないから、現実追随のためには百八十度方針大転換は、朝メシ前だ。路線転換の理由、自己批判は一切、この党には無用である。もちろん、党内での批判は出るが、もともと、上意下達の議員政党である。執行部の「……字句の修正ならともかく、原案否定となれば執行部として重大な決意をしなくてはならない」(政教分離後の新綱領審議における書記長発言)といった姿勢で押し切る党である。
 反自民→革新寄り→革新離れ→親自民も安保即時廃棄→段階的解消→当面保持も、公明党として党勢維持、拡張のため計算づくであったのだ。学会票だけでは限界にきているからには、学会以外の支持票を掘り起こさなければならない。そのため、現実追随路線を選んだのであろう。政教一致はタナ上げしたものの、政権の一角にとりつく戦略からしても、公明党のジグザグ路線は、絶えざる監視のマトにされなければならない。
       ---------(180P)-------つづく--

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