--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
続・創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道・昭和46年(1971年)
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◆ ウソで固めた“社公民三党協力”-1
四十六年六月における社会、公明、民社三党の選挙協力は国会議員選挙における初の野党共闘として注目をひいたが、いったいこの背景にあったものは何であろうか。
第一は野党再編構想である。野党再編構想はまず故西村栄一民社党委員長によって四十五年七月に提唱された。それは自民党政権がこのままでは当分つづき野党に政権がころがりこんでくる可能性は近い将来にない、したがって政権をとるには革新政党の民主的統一がなされなければならず、それが成って初めて革新統一政権が樹立される。その意味においても野党は再編しなければならないというものであった。その構想は、“反自民、非共産革新連合”による政権担当というもので野党再編のお題目としては一応十分であった。その目標を彼は一九七二年の民主的革新政党結成、七五年の民主的革新政権の樹立ということで四十五年六月に発表した。
これに対して公明党は、竹入委員長が同じく六日に西村構想との関連で、政策協定の積み上げ→中道革新連合の結成→政界再編成、という三段階による野党再編成構想を明らかにしている。
他方、長期低落傾向で悩み、その打開に苦慮していた社会党は、一方で社共共闘を考え、他方で公明、民社の協力を願うといった、いわゆるブリッジ方式を考えだした。石橋書記長は政権構想をいちおう棚上げして“反自民”の線で社共共闘と、社公民協力の共存をねらったわけである。
しかし社共共闘のほうは、共産党が「統一戦線結成のためには、ちゃんとした政策協定が結ばれなければならない」とし、その協定には少なくとも--
① 日米軍事同盟と手を切って中立を守る
② 大資本中心の政治を打破して国民のいのちと生活を守る
③ 軍国主義の全面復活に反対し、議会の民主的運営と民主主義の確立をめざす--
という“革新結集の三原則”が盛り込まれなければならない、ということを明らかにした。
だが共産党の主張する政策協定の締結、持続的共闘の保証、意見調整のための連絡員の設置を社会党は受入れることができず、社共共闘は不調に終わり、結局社会党には社公民協力のみが残ったのである。
ところが社公民協力について三党の思惑はまったくバラバラであった。社会党はとにかく長期低落傾向を食い止めるために、また成田、石橋にすれば、成田=石橋執行体制を維持強化するために、どことでも手を結ぼうとしていた。そのため、民社、同盟といった、社会党や総評と組織の攻防をめぐり血と血で争うことをしてきたものにすら協力を呼びかけたのである。また立党の精神が根本的に違う公明党に対しても、ただその票欲しさだけのために説得工作をしたのである。
民社党とすれば、少数改党として低迷し、下手をすると共産党にも抜かれかねないという危機感、また“第二保守党”という好ましくないイメージを払拭し、“革新”というイメージを打ちだすために社会党との協力を考えたといってよいだろう。
ところで社会党はついこの間まで『社会新報』で公明党をファシズムといって非難したことがあるし、民社党の公明党批判はさらに徹底していた筈である。
すなわち『社会新報』(四四・ニ・ニ七)は公明党を論じ、「われわれは歴史上においても、ヒットラーのナチ党が独占資本の利益を代弁しながら『革新』を旗じるしに大きく台頭し、世界の人民に取り返しのつかない戦禍を及ぼしたことの記憶を思い改める必要がある」とまで言つたこともある。
民社党は民社党で、春日一幸(現委員長)は、四十四年十二月の総選挙ののち「政権担当能力を持つ革新野党結成の風雲を望む」と題する論文を『改革者』誌上に発表し、その中で、--「かってナチスの魔性の呪文が全ゲルマン民族の脳髄を腐らしたように、善良な国民大衆が、それはくたびれた蟻の如くに絢爛豪華な伽藍にむらがって貼りつき、また、餌に餓えた豚のごとくに、あさましくも御利益を求めて鼻を鳴らしていた信者集団のうごめきは、まさにわが民族が熱病にうなされている光景であった」--と創価学会を徹底的にこき下したのである。
ところが故西村委員長は四十五年七月に「社会、民社、公明の三党間でまず政策協定を話合い、その過程で、七一年の首長選挙や参院選挙について選挙協定を結びたい」と述べた。
では何故、西村委員長は公明党をも革新新党の対象としたのだろうか。彼は「政治というのは日々流動している」と指摘し、「公明党を固定的に見ていないんで、あの公明党の持つ若さが、流動化の中に一つの新しい、正しい方向を求めて発展していくのだと考えている」と、「流動化」ということのなかにすべてを解消しようとしている。さらに池田会長は政教分離を行なうといっているし、「公明党の行くべき道は、共産主義、全体主義でない民主主義の立場において『革新中道』の途を提案されている」からムキになって攻撃する必要はない、むしろ提携すべきだと主張している。さらに、「私は別に、公明党、社会党の右派が対象でなく、広く国民を対象として政界再編成に乗り出した。その呼び掛けに、幸いにして公明党がいの一番に呼応した」だけのことであるとも述べている。
しかしかって西村は「創価学会青年部三百万の手足が欲しい」ともらしたことがあり、これがむしろ本音といえるかもしれない。
社会党も民社党も公明党と同じく少しも党の主体性が確立していないのである。
社会党は自己の党の低落を社共共闘や、社公民協力でカバーしようとし、自らの力でもって政権を闘いとる自信も意欲も欠いている。
民社党は民社党で、社会党右派や公明党の力まで借りて、新たな政党をつくりあげ、改権の座につらなろうとしている。
つまり野党再編は単に各政党のお家の事情だけで動いただけのことであり西村構想の“反自民、非共産革新連合”が必ずしもその原動力ではなかったのだ。
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