ドイツ日記 Les plaisirs et les jours

ドイツに滞在して26年経過。2年後に日本へ本帰国予定。ゴルフを始めて4年半ですが相変わらず下手な初心者ゴルファーです。

ドイツを憎んだドイツ人の死 その2

2005年04月11日 | 日記
納骨の後最後まで居残った我々日本人3人、R氏の面倒を見ていたMとPHの2人,彼らのドイツの家の隣人夫婦の合計7人で、ムルソーのMの家に集まり、皆でワインなど飲みながらR氏の思い出話をしましたが、とにかく葬儀に参列した誰ひとりとして彼の本当の生い立ちの詳細を知らないということでした。R氏の話は虚実混ぜ合わせた話で、どれが本当なのか誰もはっきり知らないらしいのですが、とりあえず大体わかったのは・・・ポーランド系ユダヤ人でもイギリス人でもなくて彼の本当の両親は純粋なドイツ人であったこと。父親が社会主義者であったためナチスに捕らえられ収容所で殺されたこと、また同じく社会主義活動家であった伯母さんが暴行されたりするのを見て大変傷つき、ドイツをさらに憎むようになったこと。青少年交換プログラムでイギリスに行っているときに、父親を殺したドイツには2度と帰りたくないということである女性の養子となりドイツ人からイギリス人になったらしいこと。この辺り、父親の死とイギリス行きの前後関係は不明。フランスはカーン(Caen)大学出身で、仕事でいろんな国に行っているが1976年からムルソーに越す2000年まではドイツのデュッセルドルフに住んでいたこと・・など。

おそらく父親っ子であったR氏は愛する父親を殺したナチスドイツを徹底的に憎んだらしく、他人が、自分の名前を養子先のイギリスの姓までちゃんと言わないと気分を害したらしい。何年か前、私はドイツ名・ドイツ姓+イギリス姓の順番に並んだ彼の名前が不思議で、もしかしたらイギリス女性と結婚して2重姓を名乗っているのかな・・と思って彼にそれとなく聞いたら、ポーランド系ユダヤ系イギリス人だからドイツっぽい名前なのだ・・・というようなことをぶつぶつ言っていたのでした。しかしそれも嘘だったようです。仕事の関係でずっとドイツに住んでいたR氏には結婚歴も不明、しかし、どうもゲイではないような・・・、PHを通じてMの古里ムルソーを知り、最後にはそこに引っ越してしまい2度とドイツにはもどらなかったわけです。ドイツを憎んだドイツ人R氏は、ブルゴーニュはムルソーのブドウ畑の真ん中にあるきれいな墓地の一角、しかし全く血縁関係のないMの母親の脇に永遠の安らぎの場所を見出したわけです。合掌・・。

偶然にも、本日ドイツのブッヘンバルトのナチスドイツ強制収容所の解放60周年記念式典がワイマールで開催されました。この収容所では主にナチスドイツに反対する政治犯が収容され殺されたそうです。式典には500人あまりの収容所生存者が出席しましたが、あと10年もすれば彼らもいなくなり、この歴史の悲劇の目撃者がいなくなってしまうことに彼らは危機感を抱いています。

ドイツを憎んだドイツ人の死

2005年04月11日 | 日記
R氏の葬儀はムルソー(Meursault)の教会で9時に始まりました。友人で身元引受人だったMより遺体を一緒に引き取りに行くかと聞かれましたが我々日本人3人は大泣きしそうなので、それはやめて教会の前で棺が運ばれてくるのを見守りました。R氏は2年前に葬儀保険を掛けていたそうで、棺のタイプや葬儀、火葬にすることなどを決めていたそうです。フランスでの葬儀は初体験で、神父の説教やお祈りなどがしばらく続いた後、最後に参列者各人が順番に神父から渡されたステッキのようなもので棺の上に十字を切るの(仏教の焼香に当たる?)ですが、これが一巡して葬儀は終わりとなりました。
棺が葬儀会社の連中によって運び出され、我々友人たちも車3台でディジョン(Dijon)の火葬場まで同行しました。棺に黙祷し火葬場のボタンが押された後、参加者9人で共和国広場のレストランでランチ。2時過ぎに骨壷を引き取りに再び火葬場へ。日本のように親族が骨を拾ってつぼに入れるというような習慣はこちらではないし、またあったとしてもR氏は一族の最後の生き残りで親族もいないわけで、すでに骨壷というか木箱に遺骨が入れられネジでとめられていて空けて見ることはできないようになってました。その後、ムルソーの墓地へ行くとMの母親の墓地の隅に納骨用の穴がすでに掘られており、骨壷を納めたのち、納骨参加者がそれぞれ土を掛けてお祈りし、納骨の儀式は終わりとなりました。