・・・どこまで書いてたっけ?A産業のこと。倒産劇については
sariさんが詳しく書いてくれたので、私は当時の思い出を少々・・。
A産業で配属されたのは鉄鋼輸出課で私はアメリカのある企業向けにワイヤーロープの輸出業務を担当させられた。今を去ること30年以上も昔のことで、当時パソコンはおろか電動タイプライターさえなかったと思う。Eメールなんてとんでもない、FAXさえまだない時代で、商社の通信方法はすべてテレックスだった。
各営業部には、タイプを打つのが専門のタイピストグループがいて、彼女たちのところに原稿を持って行きインボイスなどの船積み書類をタイプしてもらったし、アメリカへの連絡には原稿作ってテレックス室にテレックスの依頼をした。まだそんな時代だったのよ。
まだまだ男女雇用機会均等法だとか総合職とか一般職だとかの区別さえ話題にもならなかったような時代で、大学出て遊んでいた私がとりあえず大会社で働けるようになっただけでもラッキーだったかも。
今でこそアフターファイブの活動で忙しい私であるが、仕事もやるときゃやるんですよ。ホントは有能なんだから。
この商社は、何だかおっとりしていた。社員もお坊ちゃん的な鷹揚なタイプが多かったし、A財閥というかAファミリーは芸術・音楽関連のパトロン的存在で、稼いだ金をそっち方面にかなりつぎ込んでいたし、Aファミリーの助けで一流の音楽家になった人たちもかなりいたはずだ。
同じ課で一緒に組んで・・というか私を指導するように上司から言われたんだろうけど、その3つ上の男とホントに仕事の息が合ったのよね。
で、ある日曜日に私達はデートをしたのだった。といっても単に会って食事しただけ。彼には当時彼女がいてその彼女のところから出てきたらしく、私はまだ結婚していたし、何かいけないことしてるみたいな気になって・・・2人とも真面目だったのだ。
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でも、お互いに引かれていたわけで、お互いに密かな片想いをしていたわけですな。で、たまの週末に会社のヨット部員だった彼にヨット乗せてもらったりしていましたが、だんだんこの状態に耐えられなくなったんですね。
つまり、結婚したまま別の人のことを想うというのは結婚相手に失礼なことだ・・と考え始めたわけです。私はその辺り真面目なのだ・・・というか、嘘に耐えられないというか・・。それプラス、1人になりたい・・・、1人になって罪悪感なしに別の男のことを考えたい、ひとりになったら部屋のカーテンはこんなのにして、インテリアはこうして・・・・とだんだん『ひとりになりたい症候群』に取り付かれてきたのだけど、いざ別れるとなると・・・長年一緒にいる仲のいい兄弟と引き裂かれるような気持ちにもなったりして・・・いや~、離婚って疲れるというかストレスの塊になるか・・・もう2度とゴメンだわ。
そんなこんなを半年悩み、遂にお互い納得の後、2人で仲良く役所に離婚届を提出に行ったのだった。で、2年間の結婚生活に終止符を打ち、それぞれ別のアパートに引っ越したのだった。
でも急にひとりになると寂しくて、最初は互いのアパートに行き来して一緒にご飯食べたりしたりもしたっけ。そのうち、1人暮らしにも慣れてきて段々会わなくなってきた。・・というか、いつまでも会ってたら離婚した意味ないし、別々の道を行きましょうということにしたのだった。もはやコンタクトはないが、幸せに暮らしているといいのだけど。勝手な女だと深く反省しております。
あ、思い出した。その頃、突然1人暮らしを始めた私の気を紛らせてくれる面白い仲間がいたのだった。それは東大田無寮に住む連中だった。今ではこの寮はおそらく閉鎖になっているんじゃないかと思うけど、当時その寮に東大の院生だけでなく、卒業生だとか別の大学の卒業生とか素性不明な連中が住み込んでいて遊びに行くとどてらを着た男どもが七輪で焼き鳥なんかを焼いてもてなしてくれたりして、私はしょっちゅう入り浸っていた。
かなり頻繁に彼らのところに遊びに行き一晩中宴会などをして田無寮からA産業に出社したり、ある時は東大の農学部研究室で宴会してそこの机の上に寝てそこから出社したりという滅茶苦茶なこともやってたっけ。皆今頃どうしてるんでしょう?
というわけで1人になった寂しさを紛らわせてくれる楽しい仲間もいたし、晴れて1人だ!でも私は、会社の同僚には何にも教えなかった、もちろん片想いの彼にも。
その後数ヶ月は単なる会社の同僚で何事もなく過ぎ去ったのだけど、どういういきさつだったかもはや記憶にないが、ある時帰宅したら、アパートのドアの前にウィスキーの水差しに入った大きな大きなマーガレットの花束が置いてあった。水差しに書いてあった文句は忘れてしまったけど筆跡から片想いの彼だということがわかったのだった。
オ~!マーガレットの花束!何てスカシタ事するやつじゃ。これが彼の愛の表現なのねってことで、再び話をする中になったのだった。
で、ある時この彼を東大田無寮の連中の飲み会に連れていったことがある。初めての異種交流といった雰囲気。かたや商社の猛烈サラリーマン、かたや浮世離れした金儲けとは縁がなさそうな、でもお勉強好きそうな連中。この異種交流は商社マンの彼には刺激になったみたい。
教訓: 男の気持ちを動かすには、ライバルとなりそうな男に合わせること。
・・・ところが!そこに降って沸いたようなA産業アメリカがオイルの3国間貿易に失敗しての600億円債権焦げつき事件が発生、あれよあれよという間に競合他社と合併の話が出て、そのどさくさでまだ下っ端だった彼はリストラの対象になったのだった。
ある時彼は今後の人生計画を作ってみたとそのプランを見せてくれたことがある。それは会社を辞めた後、大学に戻り院を出て、助手になり教授になる計画だった。(もしかして東大田無寮の連中に刺激されすぎた?)それを見て、「この人甘い。仕事は出来るけど、研究者タイプじゃないし、そんなに頭もよくないじゃん。」と冷静に考えている私がいた。
一度彼の実家にも連れて行かれたことがある。大阪。こわ~~いお母さんがいた。別に意地悪されたわけではなく、慇懃無礼にもてなしてはくれたが、こりゃ、あかんわ・・ひと目で悟った。「息子の嫁は自分が選んだ人じゃなくってはダメ!」光線がランランと放たれていたもん。
ともかく、会社が倒産・合併のあおりで彼は大阪に戻ることになり、私はそんなところ行く気もないし、怖いお母さんダメだし、2人は泣く泣く別れたのだった。彼が形見に欲しいといった私のセーター、当たり前だがもう捨てられてしまったことでしょう・・。彼も幸せになっているといいのだけど。(こればっかり)
そのうち、同じ課の連中もどんどん辞めていって、残った私はどんどん忙しくなり、そのうち契約書作りから乙仲との交渉、船の予約から船積み書類の作成、そして、メーカーへの代金の支払いまで全部やることになり、最後の方は月の残業時間が80時間くらいになっていた。土日も朝から終電までの仕事。私は仕事が忙しいと、ものすごく張り切ってがんばるのだ。だけど、もう倒産だから、辞めるっきゃない・・・次どうしよう・・・と考えていたらヒョンなことから新しい仕事を始めることになったのだった。
あ~、また思い出した。あの頃から課外活動が好きだったのか、大学時代にあまりにも勉強してなかった反省からか・・、この商社OL時代、私は週3回夜はアテネ・フランセに通ってフランス語の勉強をしていた。あの頃からフランス語のレベルはちっとも向上してないんだけどね。
で、「私はいかにしてこのような性格になったのか」とか考えるのが大好きであの頃は心理学や精神分析の本を片っ端から読みまくり、そうだ!もう一度働きながら大学に行こう!なんて考えてたっけ。で、商社のOL生活もそろそろ終りだという頃、都立大の夜間の心理学科に学士入学しようと試験を受けたのだった。第一次の英語とフランス語の試験には合格し、2次の専門と面接に10人ばかり残された。
女は私1人だった。で、その時にある有名な心理学者の先生が面接で、「貴方、こんなことしてないで、結婚したらどうですか?」なんて言ったのよ。
今だったら、セクハラ発言だと思わない?でも30年前にはセクハラなんて言葉もなかったしね。結局受かったのは男性がひとりだけ。ま、しゃあないわ。どうせ、熱しやすく冷めやすい私の性格だ。またすぐに気が変わって心理学もすぐ飽きてしまったのだった。
・・・・続く・・・