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白村江(天智2・紀元663)の真実

2019-01-24 20:56:18 | わかってみたいな、日本古代史

「筑紫(福岡)まで出兵した中大兄皇子は、戦闘に参加せず、天皇の喪を理由に大和に引き揚げてしまったのです。この時の地方での動きが『備中国風土記』に“邇摩郷(ニマノサト 岡山県倉敷市)は斉明天皇の要請で二万の兵を準備したが、斉明天皇(大きく悦ばれこの邑を二萬の郷・‘邇摩郷’と名づけられた)の死で兵は出発しなかった”と書かれています。中大兄皇子は近畿軍を戦線に投入しなかっただけでなく、吉備の兵二万も参戦させませんでした。兵力の温存を図ったのです。半島での決戦は、倭国・九州王朝傘下の兵だけでの戦いとなりました。

なぜ、中大兄皇子は軍を引き返したのでしょうか。一つの可能性として近畿天皇家と新羅の関係が考えられます。七世紀始め、飛鳥地域から出土する新羅土器が急増します・・・飛鳥にある新沢千塚一二六号墳からはペルシャから新羅を経由し大和に伝えられたローマングラスなどが出土しています。また記紀、風土記などに但馬、若狭、近江における新羅の王子天之日矛の伝承が語られています。地理的、海流の流れからも、古くから新羅と山陰から近江にかけての交流があったことが考えられます・・・

」  (『「日出処の天子」は誰か よみがえる古代の真実』 大下隆司・山浦純 2018.8 ミネルヴァ書房 p139~ )

 

この中大兄皇子は金春秋・天智天皇だったんでしょうねぇぇ・・・そこんところが、なかなか受け入れられない・真相を語らない歴史学の世界ということなんでしょうかぁぁ・・・

白村江 備中国風土記  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%20%E2%80%9D%E5%82%99%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E2%80%9D


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