「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「疎開」

2018年07月10日 | ニュース・世相

  

西日本を襲った集中豪雨は、雨が止んだ後で時間の経過とともに、その被害の大きさがあちこちで表れてくる。
そしてその被害の重大さは日を追って甚大なものになって来ている。
恐ろしい実態が、大きな悲しみの声とともに目や耳に届くと、毎回のように自然の猛威に翻弄される人間の弱さや生活実態の脆さなどを、嘆かわしく思ってしまう。そして、なんとかならないものかと考える。

考えてはみてもこれといった知恵も妙案も浮かばない。そこにまた、穏やかに暮らす人間生活に付け込む自然の気まぐれがまかり通る。
そんな構図は昔から大きく変わらないのに、未だ根本的な対策が見つかっていないということか。
避難指示の出し方やタイミングはどうだったのか?などと、結果論で行政や担当者を責める論調よりも、本当に災害に強い国家のもと、自然の猛威に対応できる自治体の構築が望まれる。などとかっこいいことを言ってはみるが、解決には程遠いねー。

お隣の呉市に住む倅一家が、昨夜遅く、まるで夜逃げ状態で我が家に疎開してきた。
大きなマンション住まいなので個人的には被害なし。ところが、今回の豪雨で最も深刻な被害の広島県である。ライフラインがズタズタになった。先ずは断水である。これは日々の生活に直結した死活問題。ついで道路の寸断による食料調達の孤立状態。
勝手に買い物にも行けない。行けたとしても流通体型の崩壊で品物不足。特に食料は底をついているという。

普段なら幾通りもある、呉と岩国を結ぶ道路。そのことごとくが被災通行不能となった。昨日午前やっとこさ1本の道路がなんとか復旧したという。それも大幅な迂回を余儀なくされる上に「自己責任で通行を許可」という但し書き付き。それでも昼間は大渋滞であろうことを見越して深夜に、慣れない道路をたどり、普段の1.5倍の時間をかけて里帰りした。嫁にとっては「初体験の疎開」であり、大きな安堵であったような。

「疎開」というと、なにやら暗い過去や、追い詰められた切迫感の漂う語感があるが、昨夜の嫁を見ていたら、5歳と1歳の子供を抱える母親の強さと安堵が交錯する、まさにその昔の「疎開」を彷彿とさせるものであったようだ。
深夜にも関わらず、子どもにシャワーを浴びさせた。子どもはとても気持ちよさそう。それを見て自分も心から安堵していた。

一夜明けた物干しざおには、大小、色とりどりの洗濯物が風に揺れる。まさに満艦飾。
倅は仕事で間もなく呉に帰るのだろうが、嫁と子どもはしばらく同居となる。大災害の難儀をよそに喜ぶことではないが、朝からスイカをもいだり、切って食べたり、華やかな真夏に濃い汗を流している。ただただ一日も早い復興を祈る気持ちに変わりはない。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい