政権が替わり、事業仕分けの様子が連日のように報道されます。
わたしたちの税金の使い道が、無駄のないように検討されるのは、大いに歓迎すべきところ。
でもさ。
なんか、疑問なんだよね。
一見無駄と思われることでも、
10年・100年先のことを見据えた研究なり仕事は必要でしょう。
なんでもかんでも、「まず削除・削減ありき」でとらえていませんか?
そのひとつが、スーパーコンピューターの開発の縮減と学力テストの大幅縮減。
こんなこと書くと、アンタはイシャだから、勉強ができたから、そう思うんでしょ、
って言われそうだけど、そうじゃない。
競うことは、いけないことですか?
スポーツ少年団は?
サッカーは?
野球は?
中体連は?
インターハイは?
国体は?
箱根駅伝は?
ワールドカップは?
オリンピックは?
さまざまな、コンクールは?
学問や学力は、競ってはいけないのですか?
競うことで、自分の位置がわかり、それを励みにしてさらに上を目指す。
自分のために。
人を見下すのではなく、自分の励みとして、自分の位置を知る、
そのひとつとしての学力テストなのではないですか?
勉強ができることがエライのではなく、自分自身のためのものとしての学力テストなのだ、
と、児童生徒に教育するのが、先生方のお仕事でしょう。
社会に出れば、あらゆる場面で競わなければなりません。
悔しい思いも、情けない思いもします。
そのトレーニングのひとつとしてとらえても、いいじゃないですか。
日本国憲法で謳っている「人は皆平等」という文言、
これは、「みんなが同じ」ということではないはず。
それを、何か勘違いしてませんか?
人はみんな、ひとりひとり、違うのです。違って当たり前なんです。
違うことは、悪いことじゃない。
かけっこが遅いことも、算数ができないことも、人として劣っていることじゃない。
あれは、息子が小学校に入学して初めての運動会の時のことでした。
私に似て運動神経が欠如しているひ等しい息子が、なんと、かけっこで2等賞でした。
「すごいねぇ!! 頑張ったねぇ!!」
親バカですから、心から喜び、息子の健闘を讃えました。
でもね。
よくよくその内容を後で知ると、
あらかじめ行った体力テストで、タイムの速い児童、遅い児童、のグループに分けて、
かけっこのグループを決めていたのです。
これでは、意味がないでしょう。
一等賞もいれば、ビリもいる。
それが、世の中です。
でも、一等賞もビリも、人の価値としての優劣ではないのです。
それを小学校の時に教えずに、見せかけの平等で大事な子ども時代を過ごしたら、
いざ世の中に出て、本当に競わなければならない時に、心が付いて行きますか?
わたしは、可哀想に思いましたが、息子に言いました。
あのね、2等賞は、本当のオマエの実力ではないんだよ。
でも、頑張って走ったのは、偉かったね。
1年生の息子には、はじめピンとこなかったようでしたが、
学年が進むにつれて、母の言ったことを理解していたようです。
スポーツや芸術を競いあうように(正確には、芸術は競い合うものではないと思いますが)、
学力だって、競い合っていいと思います。
そこで、人を見下すことなかれ、と教え続けること、それが一番大切なことだと思う。
わたしがかつてK先生から教わったように・・・。
いい意味での競い合いがなければ、学力の向上も望めないでしょう。
今現在の子ども達の学力が向上しなければ、日本の将来はどうなるのですか。
ここで言う学力とは、判断力や創造力につながる総合的な学力という意味です。
その基礎となるのが、小学校で学ぶ、「読み書きそろばん」なのだと思います。
学力テストは「読み書きそろばん」の力試しではなのいですか?
何度でも言います。
学力を上げるためには、学力テストは必要です。
今現在の自分の位置がわからなければ、その後の方針も立てにくい。
これは、スポーツなら当たり前のことでしょう。
マラソン選手が時々後ろを振り返るのだって、そうでしょう。
国策として子どもの学力を上げることが無駄とは、わたしには思えないのですが。
(都道府県別ランキングとかは、どうかな~、とは思うけど)
わたしたちの税金の使い道が、無駄のないように検討されるのは、大いに歓迎すべきところ。
でもさ。
なんか、疑問なんだよね。
一見無駄と思われることでも、
10年・100年先のことを見据えた研究なり仕事は必要でしょう。
なんでもかんでも、「まず削除・削減ありき」でとらえていませんか?
そのひとつが、スーパーコンピューターの開発の縮減と学力テストの大幅縮減。
こんなこと書くと、アンタはイシャだから、勉強ができたから、そう思うんでしょ、
って言われそうだけど、そうじゃない。
競うことは、いけないことですか?
スポーツ少年団は?
サッカーは?
野球は?
中体連は?
インターハイは?
国体は?
箱根駅伝は?
ワールドカップは?
オリンピックは?
さまざまな、コンクールは?
学問や学力は、競ってはいけないのですか?
競うことで、自分の位置がわかり、それを励みにしてさらに上を目指す。
自分のために。
人を見下すのではなく、自分の励みとして、自分の位置を知る、
そのひとつとしての学力テストなのではないですか?
勉強ができることがエライのではなく、自分自身のためのものとしての学力テストなのだ、
と、児童生徒に教育するのが、先生方のお仕事でしょう。
社会に出れば、あらゆる場面で競わなければなりません。
悔しい思いも、情けない思いもします。
そのトレーニングのひとつとしてとらえても、いいじゃないですか。
日本国憲法で謳っている「人は皆平等」という文言、
これは、「みんなが同じ」ということではないはず。
それを、何か勘違いしてませんか?
人はみんな、ひとりひとり、違うのです。違って当たり前なんです。
違うことは、悪いことじゃない。
かけっこが遅いことも、算数ができないことも、人として劣っていることじゃない。
あれは、息子が小学校に入学して初めての運動会の時のことでした。
私に似て運動神経が欠如しているひ等しい息子が、なんと、かけっこで2等賞でした。
「すごいねぇ!! 頑張ったねぇ!!」
親バカですから、心から喜び、息子の健闘を讃えました。
でもね。
よくよくその内容を後で知ると、
あらかじめ行った体力テストで、タイムの速い児童、遅い児童、のグループに分けて、
かけっこのグループを決めていたのです。
これでは、意味がないでしょう。
一等賞もいれば、ビリもいる。
それが、世の中です。
でも、一等賞もビリも、人の価値としての優劣ではないのです。
それを小学校の時に教えずに、見せかけの平等で大事な子ども時代を過ごしたら、
いざ世の中に出て、本当に競わなければならない時に、心が付いて行きますか?
わたしは、可哀想に思いましたが、息子に言いました。
あのね、2等賞は、本当のオマエの実力ではないんだよ。
でも、頑張って走ったのは、偉かったね。
1年生の息子には、はじめピンとこなかったようでしたが、
学年が進むにつれて、母の言ったことを理解していたようです。
スポーツや芸術を競いあうように(正確には、芸術は競い合うものではないと思いますが)、
学力だって、競い合っていいと思います。
そこで、人を見下すことなかれ、と教え続けること、それが一番大切なことだと思う。
わたしがかつてK先生から教わったように・・・。
いい意味での競い合いがなければ、学力の向上も望めないでしょう。
今現在の子ども達の学力が向上しなければ、日本の将来はどうなるのですか。
ここで言う学力とは、判断力や創造力につながる総合的な学力という意味です。
その基礎となるのが、小学校で学ぶ、「読み書きそろばん」なのだと思います。
学力テストは「読み書きそろばん」の力試しではなのいですか?
何度でも言います。
学力を上げるためには、学力テストは必要です。
今現在の自分の位置がわからなければ、その後の方針も立てにくい。
これは、スポーツなら当たり前のことでしょう。
マラソン選手が時々後ろを振り返るのだって、そうでしょう。
国策として子どもの学力を上げることが無駄とは、わたしには思えないのですが。
(都道府県別ランキングとかは、どうかな~、とは思うけど)