後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

たった独りのクリスマス

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中は一寸さきは闇だと言います。一昨日の昼食後、激しい嘔吐をして、それから18時間ほど嘔吐10回、下痢15回の七転八倒をしました。ノロウイルスにやられたようです。嘔吐するときの気持ちの悪さと胃腸の苦しさで寝ても身の置き所が無く蒲団のなかで転がりまわっていました。

今日の昼食からオカユ、茶わん蒸し1ケ、パイナップルの缶詰め2切れを食べましたが下痢は止まっています。

しかし24時間の絶食でフラフラしていて今夜のクリスマスイブのミサへは行く気力がありません。ゴム手袋、消毒液、汚れ物はビニール袋に入れて外へと、ずいぶん気を付けていた家内も今日の朝食後から嘔吐しはじめて何回も苦しんでいます。

そこで今夜のミサは諦めて午後の暖かい時間に独りで教会に行きクリスマスのお祈りをして来ました。一年間イエス様にお世話になったことへの感謝の祈りです。来年もどうぞお守りくださいというお願いです。会堂には暖かく陽が差し込んでいました。

オルガン奏者がクリスマスの歌の伴奏を練習しています。

家内のぶんもお祈りしながら、こうしてたった独りのクリスマスも良いものだと思いました。苦しがっていた家内も大分落ち着き「老老介護の予行演習ができた」など相変わらず楽天的なことを口にするようになってホッとしました。

明日、25日の10時からのミサには行けそうです。

皆様はクリスマスイブをどのようにお過ごしでしょうか?くれぐれも伝染性のノロウイルスにはお気をつけて下さい。

下に先ほど撮って来た写真をお送りいたします。

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私の郷土史(3)八王子千人同心の半分武士・半分農民の不思議な歴史

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

甲州街道を下って八王子の中心街から高尾方面へ出ると「千人町」という交通信号ががあります。

昔からそこを通るたびに不思議な名前と思い、いろいろ調べてきました。

主な資料は八王子郷土資料館にあります。そして小金井公園の江戸・東京建物園にはその千人同心の組頭だった塩野家の農家が復元展示してあります。

この千人同心は徳川側に滅ばされた武田信玄の下級の武士だったのです。それを徳川家康が引き取って江戸幕府の一つの組織にしたのです。その事も特異な歴史と思いましたので以下に簡略にご報告します。

まず八王子郷土資料館の展示の写真から紹介いたします。

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千人同心の役割は日光の東照宮の警備や江戸幕府の種々な雑用から幕末戦争への参陣でした。

苗字帯刀は許されず必要がある時だけ刀をさして良いことになっていました。幕府からの扶持米では生きて行けないので普段は農業をしていました。下の写真は勤めに出るために正装した同心の幕末期の写真です。刀を腰にさしています。

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次に小金井公園の江戸・東京建物園に復元してある千人同心の組頭の塩野家の家の写真です。

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下に塩野家が復元されたいきさつの説明を示します。

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下は家の内部の写真です。一般の幕末のころの農家と全く同じです。ただ少し裕福な農家のように見えます。したがって千人同心は武士階級ではないと考えられています。

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下にWikipedeaの「八王子千人同心」の項目からの抜粋文を示します。それにしても、八王子千人同心の歴史は悲しいものと私は感じています。

江戸時代は複雑で地方、地方によっては非常に異なる統治形態がとられていたのです。

特に関東地方は天領が多くて、独立した藩が無かっただけに歴史の実態は不明なことが多いのです。江戸幕府直轄の新田開発も活発でした。関東の開発は江戸幕府によって随分と進められたのです。

=====参考資料===============

八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。 寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った。

千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。

例えば、千人同心は苗字を公称することがゆるされておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた、そして同心の家族であっても帯刀はゆるされず、引退した同心経験者であっても同心職を退いたならば帯刀は出来なかった。さらに同心職の譲渡にあたっても養子縁組を擬制することなく同心職のみが継承された。

また江戸時代中期頃より株売買による千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達にかわり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになる。 千人同心たちは居住する村落では人別帳に他の農民同様に百姓として記載されており、幕府代官所をはじめとする地方領主達は、かれらを武士とは認めていなかった。このため千人同心たちはたびたび御家人身分の確認をもとめて幕府に願い出るが、幕府は毎回これを却下している。例えば幕府の最高法廷である評定所は、人別帳への苗字記載をめぐって争われた苗字一件において、明確に千人同心が正規の御家人身分を有しないとの判決を下している。

今日では武家奉公人にあたると考えられている。

以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%8D%83%E4%BA%BA%E5%90%8C%E5%BF%83です。


山里のコンニャクつくりの様子・・・失われた日本の原風景

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

水田の出来ない山の村落では昔から蒟蒻芋の栽培がおこなわれていました。それは換金価値のある貴重な作物でした。

山の斜面の畑でも庭先の小さな畑でも栽培できます。

蒟蒻芋を輪切りにして、干して、粉ににして蒟蒻製造工場へ売るのです。工場ではコンニャク粉を水にといて加熱して炭酸ソーダか消石灰を少量加えコンニャクを固めます。それをお湯で煮だしてアクをとり、いろいろな形に切って出荷するのです

蒟蒻芋は元来、東南アジアの山地に住む人々が栽培していたのです。それが南中国へ伝わり、日本へも伝わった農作物の一つです。
関東地方では群馬県の山裾の村落はコンニャクの産地です。その中でも下仁田はコンニャクと下仁田ネギの産地として有名な所です。

この地方のコンニャク粉の作り方は江戸時代末期に現在の茨城県大子地区から伝承されました。

コンニャク工場で蒟蒻芋を輪切りにして乾燥するのです。その仕事は冬の辛い仕事でした。しかし子供でもそれをしないと生きて行けない時代でした。蒟蒻芋を売り、粉にする工賃とが収入になったのです。

日本の富国強兵の陰にはそのような山里の風景が全国にあったのです。

まさしく失われた日本の原風景の一つです。

以下にそんな様子を描いた横山美知英彦さんの文章をお送りします。

======「風吹かし」と蒟蒻の加工、==============

横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景」への補足:

 「風吹かし」と云う言葉は、地元の蒟蒻加工業者の乾燥場に吹き付ける「空っ風」の状態から出たのではないかと推測する。

 現在は全て機械化され、蒟蒻芋の洗いから切断、乾燥まで建物内で行われており外の乾燥場は時代と共に消えた。

 蒟蒻玉が造られ、加工された粉蒟蒻(荒粉)の製法を発明したのは、1745年に茨城県諸沢(現在常陸大宮市)に生まれた中島藤衛門である。

 その後、常陸保内郷大瀬出身の斉藤周造(1832年生まれ)により、群馬県南牧村に蒟蒻の製粉技術を持って住み着いたのが始まりと云われており、南牧、下仁田地区に加工業者が根付いた発端になっているようだ。現在も茨城県大子地区の蒟蒻業者と下仁田地区の蒟蒻業者との交流は続いている。

 蒟蒻芋は冬に弱く、屋外での保存はむずかしく、毎年秋口に畑から掘り起こして農家の納屋で年を越し、翌年の春に再び畑に植える。それを34年繰り返し加工に適した玉にする。

  農家で生産された蒟蒻玉(和玉)は蒟蒻加工業者の庭先に運びこまれる。

 まず土を落とす作業から始まる。大きな、たらい状の器で従業員により洗われる。その後刺し子と云うアルバイトの親子を毎年雇い加工の一部を手伝わせる。私も小学校から中学校の数年は毎日手伝った。所謂「蒟蒻さし」である。

 手伝うと云うより、家族ぐるみで生活費を稼いだのだ。秋口は私にとってと云うより遊びたい盛りの子供達にとっては苦しい日々だったと思うし、何とも正月の待ち遠しかったこと。

 私は蒟蒻をあまり好まない。「おでん」は好きでも中に入っている蒟蒻は出来れば避けたい心境は、その当時の抵抗なのかもしれない。

  昭和25年から30年代の蒟蒻粉が出来るまで

?       農家で秋口に畑から蒟蒻玉を掘り出す。

?       蒟蒻加工業者に出荷(35年程度のもの)。

?       土を洗い落す。

?       蒟蒻刺し------近所の親子が総出で小使いや生活費の一部を稼ぐ為10       月から年末まで以下の作業が続く。

?       蒟蒻玉を「突き板(せん)」で3mm程度にスライスする。

?       1,5m程度の篠串に指幅の間隔でスライスされた蒟蒻を刺し込む。

?       篠串20本を1連とし、かつ糸で束ねる。

?       連場で風を利用して乾燥させる。「風吹かし」ここからきているの                 は?

?       充分に乾燥した連を連場からおろし、蒟蒻片を篠串から外す。

?       水車に設置された石臼で細かく粉になるまで突く。

 冬の風のある中での作業で、蒟蒻の粉(舞粉)か空中に拡散する結果、若者から年寄まで、呼吸器を痛め「ぜんそく病」が甘楽地区には多かった。

  加工業者の現在は、規模の大きいところでも、従業員は23人でほとんど機械化され、水車の和らいだ音とは異質の機械の騒音となり、夜の闇の中を複雑に飛びかっている。

 蒟蒻加工の作業工程や器具については、私の中学時代の記憶から、加工業者とは別の角度から見て作成したもので、実際とは異なる部分もあると思いますが、ご容赦下さい。      

                          (平成241221記)


冬の雑木林の美しさと淋しさ

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真は武蔵野の雑木林を保存したものです。府中市の郷土の森公園にあります。

冬の雑木林は緑が見えず淋しいものです。寒風に梢が揺れているだけです。しかし青空を背景にした樹林のシルエットは美しいものです。詩的なムードが流れています。

見ているといろいろと今年の出来事を思い出します。そして何故雑木林が美しく見えるか考えてみました。

私が雑木林に興味を持つようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。

その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新後のようです。

明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。

江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。

明治維新は日本の政治体制や社会構造を変革しただけではありませんでした。

日本人の自然の風景の好みや美意識が変革したのです。

この広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。

ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。

彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。

それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。

若い頃、この「武蔵野」という本を読んで、すっかり雑木林の魅力にとりつかれました。以来、茫々50年、60年、今でも雑木林が好きで武蔵野を広く散策して写真を撮っています。

何十年か前に山梨県の山の雑木林の中に小屋を作って、通っているのも「武蔵野」という本の影響もあると思います。

そこで下に甲斐国の八ヶ岳と甲斐駒岳の写真をしめします。どちらの写真にも高い山々の麓に広がっている雑木林が写っています。

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上が甲斐駒岳で下が八ヶ岳です。

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武蔵国でも甲斐国も雑木林の多くは農民が植えて育てた林なのです。

木の幹は小屋や家の材料にします。炭焼きの原料です。枝は薪にして燃料です。落ち葉は畑の肥料にします。このように人間が植えた雑木林なので木々が整然と並んでいます。木の種類も一種だけの林があるのです。

ですからこそ見て美しいと思うのかも知れません。

冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。

武蔵野では平地ですが甲斐の雑木林にはなだらかな起伏があって散歩がより一層楽しくなります。冬の雑木林では見透しがきくので遠方にサルの群れやシカが見えます。

そんな雑木林を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。

小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。残念です。本人も、もっともっと文学作品を書きたかったことでしょう。心残りだったに違いありません。

皆様も近所の雑木林の美しさをお楽しみ下さい。冬の雑木林をお楽しみ下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===========================

「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。

そして国木田度独歩の経歴を下にご参考までに掲載して置きます。

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国木田 独歩(くにきだ どっぽ、18718月30明治47月15 - 1908(明治41年)6月23)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9