後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

石塚園芸店の12月の温室の中の花々

2012年12月17日 | インポート

12月になると流石に公園の花々も絶えます。

そこで昨日は今年の1月14日掲載の記事、「新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します」でご紹介した石塚園芸店に行ってパンジーとランの写真を撮ってきました。

ついでに石塚園芸店の裏に広がる東久留米市の公園を散歩してきました。そうしたらまだ落葉していない柳の枝が風に吹かれていて綺麗だと、家内が撮っていました。

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横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

2012年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

横山美知彦さんは家内が群馬県の下仁田町に疎開していた時の小学校の同級生です。

時々ご自分が書いた文集を送ってくれます。生まれは東京 板橋区ですが、6歳の時に下仁田町へ疎開してきました。、やがて富岡高校へ進学し、東京の会社で働いて定年後にまた故郷の下仁田にもどって悠々と暮らしています。

文章がゆったりとしていて読む人の心を鎮めてくれます。心地よい文章なのです。以前にもこのブログに以下のように2回、掲載してご紹介したことがあります。横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)

昨日、久しぶりにその文集の最近号を送ってくれましたので、その中から「赤岳」という題目の文章を以下にお送り致します。

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 「赤岳」

  まだ独り者だった頃の話である。会社の同僚のH氏と共に、経理部財務課

   で連日連夜、月次、年次決算事務作業に明け暮れる生活だった。それは過酷

  と言ってもよかった。当時は便利なパソコンなどなく、オリベッテイの電動計算

   機(イタリー製)一台の他は人海戦術だった。

   そんな合間を見つけての、夜行日帰りの山行が楽しみだった。関東の山々を土、日を利用して季節毎に歩いた。

   ある夏、H氏と八ヶ岳に登ることになった。新宿駅を深夜に出る中央線に乗り込んだ。茅野駅で下車、バスの終点までは小一時間、八ヶ岳を裏側(北面)から眺めることになる。

天候は良いと思ったのだが、山に取り付いた頃から雲行きが怪しくなって  来た。

   無言の歩行が続く。八ヶ岳の主峰赤岳の真下まで登り詰める。やや風が出て来ていた。黙々と歩く。直行ルートはなく、赤岳を左に見ながら権現岳方面へと斜めに登る。風の勢いが激しくなって来た。

   夏山でもあり、装備は軽いものだった。もちろんヤッケや着替えはザックに入っているが、まだそれを着ることも無かろうと、岩場に取り付いたのが誤算だった。赤岳まで直線で100mほどの足場の悪い岩場で足が止まった。

   強風に煽られ岩場を抑えている手を離すことが出来ない。H氏と時々顔を合わせるのだが、お互いに危険を察知した表情だ。あと10数メートルで反対側に出られるのだが、動くことが出来ない。ロッククライミングの基本三点支持どころか、手足が総べて岩にへばり付いている。

   寒さが襲ってくる、吹き上げる風に体温がどんどん取られて行く。それが実感出来るのだ。ザックの中のヤッケを出すことも出来ない。あせっているがどうにもならない。恐怖感を感じる。

   風の少しでも緩やかになるところを、眼で探しながら数メートル程度の前進を重ねた。危険な状態の箇所をなんとか登りきり、南面の岩場にたどりつくことが出来た。小一時間はかかったろう。助かった!!

   南面は、嘘の様に風はなく、何事もなかった様に、夏の高山の静かな顔を見せていたが、数人の先客が不安そうに腰を下ろしていた。

   ほんの数時間の出来事だったが、「死」と隣り合わせの登山で、これで雨にでも見舞われたら、間違いなく下界の話題になっていたに違いない。

   気持ちの回復を待って一気に、牛首山を通過、清泉寮まで下りた。夢中だった。

   清里から小海線に乗った瞬間、安堵からか眠気が襲って来た。

   あくる朝、何事も無かったように出勤して、H氏と顔を合わせたが、山行については、一言も口にしなかった。

   75歳になった現在、山に行く機会が全く無くなったが、若さの中で、無心に歩いた頃を懐かしく思い出すことがある。(平成241129日)

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下は八ヶ岳の写真です。2012年4月に撮りました。

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「日本を取り戻す!」と叫んだ安倍自民党が圧勝・日本人の本音へ訴えた

2012年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、Yomiuri On Line, Net版です。)

「日本を取り戻す!」とはどんな意味でしょうか?経済の高度成長期の日本を取り戻すという意味と理解した人も多かったと思います。その頃には不況も雇用不安も無い豊かな日本があったのです。

日米安保によって中国を圧迫していた冷戦時代の日本を取り戻すという意味もあったのでしょうか?

そして原子力発電が順調に稼働していた頃の日本を取り戻すという意味もあったのでしょうか?

兎に角、1964年の東京オリンピックからバブル経済の崩壊の1990年までの26年間は日本が輝いていた時代だったのです。その日本を取り戻すという主張だったようです。

アメリカに押し付けられた憲法を破棄し、新たに作るのです。日本国の主権を取り戻すのです。そして自衛隊を軍隊に変えて大日本帝国時代のように軍事力で外国から尊敬される日本にしたいのでしょうか?

上に書いたようなことは案外多くの日本人の本音に違いありません。

経済不況と雇用不安の続く日本では経済の高度成長時代の日本を取り戻すことが明るい希望なのです。

安倍さんはテレビで何度も「日本を取り戻す!」と叫んでいました。そうして選挙で大勝し、公明党と合計すると衆議院の三分の二以上の議席を獲得したのです。

これで参議院で法案が否決されても、もう一度衆議院で可決すればその法案は成立するのです。今朝のテレビでは自分が総理大臣になれば石破さんを又幹事長にしていろいろな政策を進めると言っています。

アメリカのオバマ大統領も声明を発表して安倍さんの勝利を歓迎しています。

さてこれで2つの事には結論が出ました。一つは日米関係が堅固になることです。中国との関係は緊張します。中国にある日本企業は苦しい立場になります。

もう一つは安全度の高い原発から再稼働して行くことです。最終的に何基の原発に落ち着くのかはこれからゆっくり決めて行くと言います。

今度の選挙で原発廃止の理由で投票先を決めた人は僅かに10%と少なく、60%くらいの人は不況対策と雇用増大を言っている候補者へ投票したというテレビ報道を見ました。

ようするに原発廃止か再稼働はあまり重要な問題ではなかったのです。原発ゼロを訴えた嘉田さんの日本未来の党が惨敗し、原発ゼロだけを主張した菅直人さんが小選挙区で敗北したのは象徴的な現象でした。もっとも菅直人さんは比例代表選挙で復活当選しましたが。

さてここからが私の個人的な考えです。

日本民族の繁栄は二度と無いと思います。日本民族が衰退するという巨大な運命の歯車がゆっくり回りだしたのです。誰にもそれを止めることが出来ないのです。

雇用不安と言いますが、仕事を選り好みしているに過ぎません。戦後の失業時代の状態を振り返ってみると現在の日本は「自分の好きな仕事」にこだわり過ぎているのです。これでは雇用不安は永久に解消しません。

経済不況も同じように現在の日本人が必死に働かなくなったのも一つの原因です。

日本の不況はアメリカやヨーロッパの金融危機が大きな原因ではあります。しかし同じ国際経済環境の中にある中国の経済だけが毎年7%くらい伸びているのでしょうか?彼らは必死に働いているからです。

日本民族はアメリカと同様にゆっくり、ゆっくりと衰退しているのです。

2030年になると世界はアメリカ、ヨーロッパ連合、ロシア、中国、インドのような多極的な世界になるそうです。世界一の繁栄を誇っていたアメリカはゆっくり衰退して行き中国などと肩を並べるのです。日本もアメリカと共に間違いなく衰退して行きます。

巨大な運命の歯車が今日もゆっくり、ゆっくり回っているのです。

何もおそれることはありません。何もこわがることはありません。それがこの世というものです。安心して平和な気持ちで過ごせば良いのです。選挙結果にいちいち心を騒がせないようにしたいと私は思っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)