後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大宮司弘昌著、「ある老技術者が原発に関して若者へ遺す一文」

2012年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

私の大学の同級生は技術者として日本の高度成長を必死に支えました。1935年前後の生まれですから現在は悠々自適の境地にあります。

世の中は「原発反対」か「再稼働」かで騒がしい状態が続いています。特に12月16日の衆議院選挙へ向けてそれぞれの候補者にとっては原発反対か否かは踏絵のようになっています。

私は、老人が原発をこうすべきと声高に主張すべきでないと信じています。それはこれからの日本を背負って立つ若い人々が決めることです。彼らを信用して任せるべきと思っています。

しかし一方、老人の感想文くらいは静かな気持ちで読んで頂きたいとも思います。

そこでかつて日本鉱業株式会社で銅の精錬技術の革新に努力してきた同級生の大宮司弘昌さんの原発に関する感想文を以下にお送りいたします。残念ながら原発廃止もやむをえないという悲しみに満ちた一文です。

若い方々が心を静めてゆっくり読んで頂ければ嬉し存じます。

====大宮司弘昌著、「ある老技術者の原発に関して若者へ遺す一文」======

 昨今原発論議が盛んです。どれが正しいかは神のみぞ知るで、軽々しく言えないのですが、現下の風潮は脱原発、のようです。この中には、ヒステリックにここをせんぞとばかり偏見を振り回しているのもありますが、かなりのインテリがそれなりの知識・情報に基ずいて脱原発止む無しとしているのもあり、原発擁護派は防戦一方のようです。これにはそれなりの理由があるように見えます。

 つらつら考えるに、電力業界のみならず、産業界を支配している力には、人間の作った法律・規則の支配力と自然界の真理の支配力(全能の神の力といってもいい)が存在する。(芸能界や宗教界にはまた違う支配力が存在すると思いますが)

およそ産業界で仕事をするには、この2つの力に反しないように、うまく、バランスよく利用せねばならない。

我々が現役時代に携わっていた製錬業などでは、法の支配は少なく、専ら真理の力を信じて仕事をしていたと思うのです。

溶鉱炉の水冷ジャケットの水が切れたら、これは大変です。あるいは水漏れして炉に流れ込めばそれこそ大爆発しかねない。

だから現場の担当者はどんなことがあっても水だけは切らさないように、常に考えていました。

 一方原発関係の様子をテレビなどを通して知るところでは、このバランスが著しく法律寄りに偏っているように見えるのです。

あれだけの事故が起こっても、多分法律上は問題ないのでしょう。責任を取った人も問われた人もいないようです。

事故直後から想定外・不可抗力の連発で、責任はない、違法性もありませんという態度です。

事故が起こったのは事実で、これは真理なのに、全く反省の気配が感じられない。多分社長も安全規制の担当者も、関係した管元総理はじめほかの大臣連中も、偶々事故に出くわし運が悪かったという態度が見え見えでした。

責任感みたいなのが伝わってこないのですね。

多くの国民が脱原発止む無しと思っている最大の理由はこの辺にあるように思います。

言うだけ得みたいに 赤字になりますから電力料金値上げを申請しますには、あきれるやら、腹が立つやら。

東電社員は今度の事故以来給料が大幅にカットされ、生活が大変なそうだとか、こういうニュースが流れたら、東電も本気なんだなと見る目はずいぶん違ったように思います。

普通の会社なら当然こうなるはずですから。

 私は定年退職前、石油の備蓄会社にいました。この社は事業の性格上電力会社に似ていて、法の支配が優先している会社です。

私が赴任して、安全性を再点検したいと言いましたら、狂人扱いするんですね。この件はこの時点でこの書類で通産のお墨付きをもらってある、何を今さら見直すのかというわけです。

この抵抗を押し切って事を進めるのは、大変な信念とエネルギーが要ります。この雰囲気にずっと浸かっていた人はまず言い出さないし、やりません。

私は事故が起こったら取り返しがつかないと思ったのでやりましたけど。

 とにかく今の制度では、原発管理運営の基本は法律に従っていること、それさえ守っていればどんな事故を起こしても、罪に問われることはないのです。

じゃ法律を作った人が責任を問われるかというと、それもない。手続きさえ踏んであれば、結果はどうでもいいのです。

いざという時に全く機能しない非常用電源や発電機、流失したオイルタンク、復旧できない電気配線、緊急時の指揮命令系統の混乱・醜態など普通の会社なら倒産ですね。

ヘリコプターで空中から散水するなど、全くの茶番劇でしかありません。

多くの国民はこれらのニュースを直接に見せられ、見切りを付けたのです。

そしてこの法律支配制度が変わる気配はないわけですから、真理を見つめる技術屋の良心なんてのは、期待できません。

従って多分現状では、無責任なへぼな管理・監督者が運営しても絶対に事故が起こらない原発が確立され、原発関係者は従業員から社長まで、家族共々原発5キロ圏以内に居住するなどしない限り、安全性に対する信頼回復はできないでしょう。

 話の方向を変えます。

真実はわかりませんが、私の推測では、たぶん将来原発はほとんどゼロになるのでしょう。石油やガスの価格が下がる要素はなく、当然電気料金は上がり続けます。これは今でも競争力の無くなった製造業に壊滅的打撃となります。もはや合理化などで中国や韓国に対抗できるレベルではありません。

すでに貿易収支は赤字ですが、経常収支が赤字になるのも時間の問題です。

これは日本を貧乏が襲うことです。

戦前の日本の貧乏さ、我々は忘れていません。

資源がなく、食糧も自給できず、貿易も赤字、経常収支まで赤字になったら、これは恐ろしいことです。

あらゆる算段をしても食べるものがなく、娘を遊郭に売るしかないような貧乏が、ついこの間まで長年続いていたのです。いくら何でもここまで落ちる前に方向転換するくらいの分別は若い人々にあると思いますが。意外に早く、真実は明らかになるでしょう。それまで必ずだれか若い人々が生きのびていることを祈っています。(終わり)


津波で流された息子のなきがらを今も探す父親・・・地球は悲しみをたくさん乗せた宇宙船

2012年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0748_2 昨日の読売新聞夕刊の5頁のほぼ一頁を使った大きな記事です。ご覧になった方も多いと思います。

石巻で校庭に避難していた大川小学校の児童が多数津波に流された悲劇がありました。下の写真もその一人です。

もう1年8ケ月になりますが、なきがらが見つかりません。トラックの運転手をしていた父親が仕事を止めて瓦礫整理の重機の運転の仕事に変わります。そして大川小学校付近の瓦礫整理を続けています。

その合間、あい間には流されなかった自分の漁船に乗って海の中を覗きこみながら石巻湾を探し回ります。「おっどうがお前のなきがらを必ず見つけてやるからな」と姿の見えない息子に話しかけながら探すのです。もう一年8ケ月も探し続けていますが可愛かった息子の姿は見つかりません。

大津波の2日後、大川小学校にやっとたどりついて見つけたものは息子の琴くんのランドセルと上履きだけでした。見えるものは、無残に荒れ果てた校舎とガレキが広がる校庭だけでした。

通学路を自転車で走って行ったときの声。近所の海に飛び込んで遊んでいた夏の日の情景。いつも笑っていた琴くんの明るい顔。胸のなかで噛みしめながら父親は黙々と探し続けているのです。

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地球はたくさんの、沢山の悲しみを乗せた宇宙船です。広大な青い宇宙に漂っている宇宙船なのです。琴くんはもうその宇宙船には乗っていません。遠く離れた天国で「はやぶさ」という鳥になって永遠に生きているのです。

そして「おっどう。探さなくてもよいよ。でもおっどうの気持ちが嬉しいね」と言っているのです。

いつの日か父親が年老いて寿命が尽き、天国へあがってきます。はやぶさになった琴くんがその老いた父親の肩にとまります。おっどう。その鳥が探し続けていた息子の琴くんなのです。そう私は語りかけたいのです。

大川小学校の児童のなきがらの捜索のための義捐金は大川小学校へご連絡ください。電話は0225-62-8215 と読売新聞に書いてありました。

今日は琴くんのご冥福を心からお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)