後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小林實著、「1959年、氷川丸にてアメリカ留学の記録」その一

2012年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 氷川丸のこと 

私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。<stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 247.2pt; HEIGHT: 162.6pt"></shape><imagedata o:title="59-2氷川丸" src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata>

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   出航準備の氷川丸(今よりもきれいな船体だった)<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype>

この船は日本郵船のそれこそフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の貨客船として活躍しました。戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船のひとつです。建造は昭和5年、アールヌーボーの雰囲気の1等客室が好評で、戦前、チャップリンはじめ日本贔屓(びいき)の有名人が数多くこの船を利用したようです。昭和30年代から宝塚のアメリカ公演、これから申し上げるフルブライト留学生、高校生の留学などを一手に引き受けました。今、私の手元に残っている氷川丸の「乗船案内」と題したパンフレットがあります。そこには、「すててこ姿で船内を歩くな!」とありましたが、まだ海外旅行が解禁になるだいぶ前でしたから、船旅に慣れない日本人がこんな姿で外国人と出会うのを船会社が危惧したからなのでしょうか。

      Img_0678   <shape id="_x0000_i1027" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 156.6pt; HEIGHT: 228.6pt"></shape> <imagedata o:title="59-3氷川丸" src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image003.jpg"></imagedata>

     出航風景(日本を後にするのでテープが飛び交った)

当時はまだジェット旅客機がなかったころでしたから、今ではもうお目にかかれないパンナム(Pan American Airways)のターボプロップ「空飛ぶ2階建て」のストラトクルーザーが羽田サンフランシスコ間に就航していました。航続距離がもたないので給油のため羽田からウエーキ、ミッドウエイそしてホノルルで1泊しなくてはなりませんでした。今から思うと、アメリカはすなわち遠い国というイメージが強かったかと思います。

当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。こうした意味からも、政府が保証する交換留学生制度というのは人気があったわけです。横浜シアトル間は13日かかりますから一日1時間時計の針を遅らせればちょうど時差分に当たりまったく時差ぼけはこの航路では発生しません。 <shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype>

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     洋上の氷川丸で(結構若かった?)

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洋上の氷川丸(この写真は貴重でしょう!)

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二等船室からの眺め(かなり閉塞感あり)

フルブライト留学制度というのは、アメリカの上院議員であったフルブライト氏が提案し1946年に法律として議会を通過しました。彼の発想は、わが国への原爆の投下にその大きな理由があったということです。氏は、世界の人がお互いにもっと知り合う機会を作れば無残な戦争など避けられる、すべてのアメリカ人に外国を知ってもらうのは無理だから、次世代を担う世界の若者たちにアメリカを見てもらう、いわゆる国際体験の機会を与えようというのがその発想です。

ですから、単に休暇であわただしく見て回るのではなく2,3年という定住型の留学をしてもらい、アメリカの生活になじむことに狙いがありました。この法律が当時まだ伝統的に教育や文化事業に関心の薄いアメリカ合衆国において、ましてや旧敵国人を招くなどという発想は議会を通るはずがなかったことは至極当然でしたでしょう。そこで、彼は名案を考えます。海外ことに戦敗国に残っているアメリカの在外資産をそれぞれの国に売却し、その支払いという形で留学生をアメリカに送る経費としてそれぞれの国にこれを負担させるというものでした。

戦後どの国もドル不足に悩んでいましたし、その支払いは自国の通貨で対応可能ということですから払うほうも楽なわけです。つまり、この法案が議会をうまく通過した最大の理由はアメリカの在外資産をうまく処理できるということをうたい文句とし、留学生制度をつけたしたのです。この法案がほとんど抵抗なく上下両院を通過し、1946年に法律として大統領が署名して成立しました。日本は1951年に1回目の留学生を送り込みました。(以下続く)


中央高速道路、笹子トンネル天井崩落は何故起きたか?

2012年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

まず時事ドットコム(http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_soc&p=ssg122-jlp13699320)の写真集からお借りした現場の様子を示します。

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今朝のテレビニュースでは9名の方々が尊い命を落としたと告げていました。

謹んで心からご冥福をお祈り致します。そして悲しみにくれているご家族や友人の方々へ神様の慰めと、慈しみがありますようにお祈り申し上げます。

これから何故天井が崩落したか、その科学的な調査が慎重に進められると信じています。

ところで報道によると、平らなコンクリートの重い天井板を、トンネルの上のコンクリートへ打ち込んだ鉄製のボルトで吊り下げていた構造だったそうです。そしてその鉄製のボルトが抜けて数十枚の天井板が落下したと報道されていました。

私は職業上、鉄鋼材料の腐食や経年変化、そして構造物の力の配分についてはいささかの知識がありました。

まず構造設計上の欠陥の可能性です。トンネルの頂上に近いコンクリートへ鉄のボルトを打ち込んで、天井板の重さを支えていたという報道がありました。

問題はそのボルトを太いナットに捩じ込んで、太い部分ごとトンネル頂上のコンクリートに固定していたか否かという問題です。ナットの太い部分がトンネル頂上の鉄筋コンクリートにしっかり食い込んでいれば、そのねじ穴に捩じ込んだボルトが抜ける筈がないのです。

そしてトンネル頂上付近のコンクリートの中に入れた鉄筋が充分であったかというコンクリートの強度そのものも問題になります。コンクリートの強度は経年変化で落ちろものもありますが、そんなことは土木技師の常識です。仕上げた現場の人の施工はどうだったのでしょうか?

さて一方、トンネル頂上近辺のコンンクリートに打ち込んだ鉄製のボルトの腐食も問題になります。普通の炭素鋼は安いのでよく使用されますが錆びやすいのです。耐食性の要求される場所ではステンレス鋼のボルトを使用します。あるいは海水中では塩水に接しても何十年間も腐食しない船舶用の合金で固定することもあると聞いています。(その上鉄よりも溶けやすい亜鉛電極を着けて、カソード防蝕もします)。

笹子トンネル上部の岩石から金属を腐食する硫酸成分を含んだ酸性の地下水が沁みだしていたのでしょうか?あるいは中性の地下水でも塩分を含んでいればボルトのネジ山は短い時間で腐食してしまいます。笹子トンネルの甲府側に出たところには塩山という地名の町があるので素人ながら心配です。

勿論、トンネルのコンクリートは完全に水を遮断する水密性のコンクリートですから地下水が沁み込む筈はありません。

これから厳密な調査がはじまります。いつもそうですが「慎重な調査結果が出るまでは発表しない」という秘密主義が見られます。

しかし似たような構造のトンネルが日本全国に数十あるそうです。大胆に天井板崩落の原因を仮定して、まだ崩落していないトンネルを早急に検査すべきではないでしょうか?

お役人や日本的な精神の技術者は、「科学的な仮定」の作り方が得意でありません。その上「仮定は予想だから信用しない」という間違った実証主義にこり固まっているものです。

柔軟な発想で早急にすべてのトンネルの吊天井の安全を確認して貰いたいと願っています。

今日は土木構造物の安全検査が全国で早急に進むことを祈ります。

後藤和弘(藤山杜人)