後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新選組のふるさと日野の多摩川風景

2012年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

新選組の組長の近藤勇は調布の出身で、お墓も調布のお寺にあります。その一方、土方歳三達は日野村と近辺の農村の出身で、お墓も日野のお寺にあります。

NHKのドラマなどで新選組が有名になったので日野市は「新選組のふるさと日野市」という看板をあちこちに立て、町おこしに懸命です。新選組は日野市の役に立っているのです。

しかし以前は地元ではあまりかんばしくない噂がながれていました。暴れ者で迷惑した人もいたらしいです。京都では遊び過ぎたようでもあります。

しかし函館での死に方が壮絶だったので函館での評判は良かったのです。

家内は土方歳三の遠い親戚なので歳三のそんな噂を聞いていました。日野市の家内の実家に私も結婚直後に1年位住んでいたので懐かしい土地です。時々その日野の多摩川の川原に散歩に行きます。

下に昨日散歩に行ったときの写真をお送りします。

川を見ると何故か旅情がかき立てられます。幼少のころ育った仙台の広瀬川を思い出すのです。あれから長い間ずいぶんとあちこちに旅をしたものです。その旅をも思い出すのです。

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意外にも豊富な水が悠然と流れていました。

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川面に青空と白い雲を写しています。

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何故かシロサギの群れとカワウが集まっていました。家内が泥道を苦労して近づいて撮影しました。私は遠方の堤防の上から家内の奮闘ぶりを静かに眺めていました。

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下は立川から多摩動物園へ行っている「多摩モノレール」の車両です。以前は無かったものです。

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相模湖の湖畔のソバの「喜庵」に行ってきました。

2012年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は小春日和です。車を駆って相模湖の湖畔にある「喜庵」に行ってザル蕎麦を食べてきました。天麩羅蕎麦や鴨南蛮蕎麦にすると天麩羅や鴨の味が強いので蕎麦そのものの味がわかりません。そこで今日ははじめからザル蕎麦と決心して家を出ました。(決心するほどの重大事ではありませんが)

やはり正解でした。蕎麦の香がふくよかとして実に美味です。感心しました。

蕎麦はザルに限りにます。下に近くの相模湖と「喜庵」の写真をお送りいたします。

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蕎麦を食べ終わったところでご主人が出てきてくれて少し話をしました。大学を出てから中軽井沢駅前のソバの「かぎもとや」で修業をしたそうです。懐かししそうにしていたので帰宅後、検索してHPを見ましたを。明治3年創業の本格的な蕎麦店です。下にその本店の写真をHPからお借りして示します。

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中軽井沢駅前、「かぎもとや本店」(http://www.kagimotoya.co.jp/access.html

尚、「喜庵」の場所やメニューについては以前、このブログでご紹介いたしました。以下をクリックすると詳しい情報が出てきます。美味しいそばの店、喜庵・・・相模湖の傍です(2012年6月29日掲載記事)


小林實著、「1959年、氷川丸にてアメリカ留学の記録」その二、大陸横断鉄道の旅と驚異のアメリカの大学

2012年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

終戦後、疲弊した日本から繁栄していたアメリカへ渡航した日本人はアメリカの豊かさに度肝を抜かれました。「これでは戦争に負けるのが当然だ!」とみんなが心の中で呟いたものです。私もつぶやきました。

後に警察庁の研究所で道路交通の安全を研究し、日本の交通事故の減少へ大きな貢献をした小林實さんは前回の記事のように1959年に氷川丸で太平洋を横断し、シアトルに上陸しました。

今回はそのシアトルから大陸横断の列車の旅です。

当時の日本ではまだ新幹線も無く、蒸気機関車全盛の時代でした。電化していたのは東海道本線だけでした。

東海道本線の特急、「つばめ」だけが食堂車もついていて高級な列車でした。

しかしアメリカの鉄道は広軌の上、大型ジーゼル機関車の重連で大陸を驀進するのです。その上、客室は豪華で2階建ての展望車までついています。

小林青年はその大陸鉄道の旅の後にオハイオの州立大学に留学したのです。

余談ながら私も1年遅れで同じ大学へ留学しましたがその大学の立派さには驚きました。大学なのに本格的な18ホールのゴルフコースを2つ持っています。キャンパスも広大で芝生が青々としています。その上すべての建物が立派で、飛行場まで持っていたのです。

当時の日本の大学と比較すると文字通り雲泥の差です。

そんな事をご想像しながら以下の小林實さんの留学記をお楽しみ下さい。

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当時の太平洋横断の様子

当時、留学が大変厳しかったことは前号に書いたとおりですが、その一つに開発途上国(当時の日本もそうでした)からの感染性の高い病気、ことに結核がアメリカに入ることに神経を尖らしており、入国に際しては指定された日本の病院で撮影した大判のレントゲン写真を携行することを義務づけていました。

さて、船旅の最大のメリットというのは、携行する荷物にかなり余裕のあることで、これに大きな辞書などを含め相当な量を持って行けたことでしょうか。氷川丸は日本列島に沿って北上し、アリューシャン列島に沿いながら、海流に乗って航行するというコースをとります。シアトルが北緯50度近くなので、これが最短距離となります。

人によっては、なぜ「憧れのハワイ航路」をとらないのかと思う人もいますが、ハワイは北緯20度に位置しますから、かなり下に下がる形になり時間もとるわけです。飛行機では空路であり、海流の影響もないのでジェット気流に乗れば、現在では成田から約6時間という距離になっています。

13日間というある意味で長い船旅は、日本郵船のシアトル埠頭に到着することで終わりを告げます。

長いというのは、同じ年代の男女が乗っているいわば等質化している集団でしたから、なにかとトラブル(というよりインシデント程度でしたが)があったことを記憶しています。

ちょうど台風が後ろから近づいていたこともあって、1万トンちょっとの氷川丸は結構揺れました。娯楽施設は船内にはあまりありませんでしたが、人気のあったのは卓球台で、船が揺れるたびに打った球がどこに落ちるのか分からないことが結構面白かった記憶があります。テーブルマナーや英会話の勉強などが船内の毎日の日課でした。

 シアトルから大陸横断の鉄道の旅       <shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="図_x0020_2" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1025" style="WIDTH: 3in; HEIGHT: 183pt; VISIBILITY: visible"><imagedata src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata></shape> 

まず、シアトルの町に着いた第一印象を思い出しますと、なぜアメリカ人が道路清掃などをやっているのか、その違和感に悩まされました。何しろアメリカ映画で見た限り、皆が裕福な生活をしているのが当たり前の国という印象が強く、汚い仕事をしているアメリカ人というのは私の思考の範疇から外れていたわけです。英語を話すスピードが速いことにも困りましたが、相手はアメリカ人と同じだという感覚で話すことからくるのでしょうか。外国人だという差別化をしないことを、身をもって体験しました。

シアトルからは、全米各地のそれぞれの大学に鉄道で移動することになります。ここがフルブライト委員会のすごいところで、何しろアメリカの偉大なところを見せつけるため、最高クラスの個室のプルマン(Pullman)を用意します。私の目的地である中西部のオハイオ州コロンバスまでは、シカゴを経由して列車で3日ほどかかりますから、この恩恵に浴せたわけです。ここで、私は知恵をはたらかせ、鉄道会社の窓口でこの切符をワンランク下のコーチ(Coach)に変え、その差額をクーポンしてもらうことに成功しました。まだ英語が十分でないときによくやれたものだと今でも思います。これは、数年後の帰国時にニューオルリンズ経由でロスまでに使えたことになるわけですから、プルマン(Pullman)が相当高価だったことが理解出来ました

いよいよノーザンパシフィック鉄道-Northern Pacific Railway(北太平洋鉄道)の大陸横断列車での旅です。地図を広げてご覧いただくとわかりますが、アメリカ合衆国(私は合州国の方があっていると思いますが)は何しろ横に広い。この鉄道の歴史は古く、1864年の連邦議会の特別立法で建設された北西部における最初の大陸横断鉄道です。当然ゴールドラッシュ時代には、その隆盛を誇った鉄道でもあったわけです。

列車は、発車ベルなど鳴らしませんから、いつ発車したのかわかりません。ある建築専攻の日本からの留学生が、停車した駅舎に興味を持ってスケッチをしているうちに列車は発車。彼は機転を利かしてヒッチハイクをしたところ、なんと美女の運転するスポーツカーで次の駅で待っていたというエピソードもあります。日本やスイスの鉄道のように、精度の高い運行管理をしていないこともあって、しかも長距離列車なので結構アバウトに感じました。

それでもシカゴまで3日目にたどりつき、そこからさらに列車でオハイオ州の州都コロンバスまで行きます。

まだ航空機が今ほどのネットワークはありませんでしたが、それでも鉄道の旅というのは時間とコストを考えると贅沢な旅であり、人々の移動は車中心であることは今と変わりありません。

当時禁酒州であったユタ州(モルモン教で有名、教徒は人口の70%以上といわれる)を通過する際には、バーのカウンターの酒のビン類をシーツで覆うという仰々しさというか、徹底しているのにも感心しました。

オハイオ州立大学(OSU )の豪華さ

さて私が留学したオハイオ州立大学はオハイオ州の州都のコロンバスにあります。いうなれば県立大学ということになりましょうか。それでも、キャンパスの広さにはまず圧倒されます。ご存知のように、コロンバスという地名はアメリカではあちこちにあります。これはアメリカ大陸発見者コロンブスにちなんでのものだからでしょう。

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オハイオ州立大学入り口の看板(1959年当時)

オハイオ州というのは地図をご覧になればわかりますが、アメリカ中西部にあり、アメリカ英語のいわば標準語地帯といわれアナウンサーやキャスターをずいぶんと輩出しているエリアです。ニューヨークから来た学生はとても早口で、ちょうど江戸弁を聞いている感じです。また南部は俗に言う南部訛りであり、アクセントなどもずいぶん変わります。ちょうど青森の人と薩摩の人との方言ではお互いに理解不能なのとよく似ています。当時のこの大学で人気のあったのはフットボールでバックアイ(Buck eye-とちの実)の愛称で呼ばれ、有名な選手も結構居りました。大学敷地内にある大きなスタジアムはいつも人で溢れていました。

では学問のほうはどうかというと、化学の分野が有名で全米の化学雑誌Chemical Abstractの発行もやっていたくらいです。当然、日本からの留学生の中では化学専攻者が多かったこともうなずけるわけです。私は人間工学で有名だったP.M.Fitts(フィッツ)教授を頼っていったのでしたが、彼はミシガン大学のほうに転出しておられ、直接指導を受けることはなかったのですが、さいわい航空心理研究所の助手としての奨学金でしたので大学院で人間工学(主に心理学系統のもの)の単位