水田の出来ない山の村落では昔から蒟蒻芋の栽培がおこなわれていました。それは換金価値のある貴重な作物でした。
山の斜面の畑でも庭先の小さな畑でも栽培できます。
蒟蒻芋を輪切りにして、干して、粉ににして蒟蒻製造工場へ売るのです。工場ではコンニャク粉を水にといて加熱して炭酸ソーダか消石灰を少量加えコンニャクを固めます。それをお湯で煮だしてアクをとり、いろいろな形に切って出荷するのです。
蒟蒻芋は元来、東南アジアの山地に住む人々が栽培していたのです。それが南中国へ伝わり、日本へも伝わった農作物の一つです。
関東地方では群馬県の山裾の村落はコンニャクの産地です。その中でも下仁田はコンニャクと下仁田ネギの産地として有名な所です。
この地方のコンニャク粉の作り方は江戸時代末期に現在の茨城県大子地区から伝承されました。
コンニャク工場で蒟蒻芋を輪切りにして乾燥するのです。その仕事は冬の辛い仕事でした。しかし子供でもそれをしないと生きて行けない時代でした。蒟蒻芋を売り、粉にする工賃とが収入になったのです。
日本の富国強兵の陰にはそのような山里の風景が全国にあったのです。
まさしく失われた日本の原風景の一つです。
以下にそんな様子を描いた横山美知英彦さんの文章をお送りします。
======「風吹かし」と蒟蒻の加工、==============
「横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景」への補足:
「風吹かし」と云う言葉は、地元の蒟蒻加工業者の乾燥場に吹き付ける「空っ風」の状態から出たのではないかと推測する。
現在は全て機械化され、蒟蒻芋の洗いから切断、乾燥まで建物内で行われており外の乾燥場は時代と共に消えた。
蒟蒻玉が造られ、加工された粉蒟蒻(荒粉)の製法を発明したのは、1745年に茨城県諸沢(現在常陸大宮市)に生まれた中島藤衛門である。
その後、常陸保内郷大瀬出身の斉藤周造(1832年生まれ)により、群馬県南牧村に蒟蒻の製粉技術を持って住み着いたのが始まりと云われており、南牧、下仁田地区に加工業者が根付いた発端になっているようだ。現在も茨城県大子地区の蒟蒻業者と下仁田地区の蒟蒻業者との交流は続いている。
蒟蒻芋は冬に弱く、屋外での保存はむずかしく、毎年秋口に畑から掘り起こして農家の納屋で年を越し、翌年の春に再び畑に植える。それを3~4年繰り返し加工に適した玉にする。
農家で生産された蒟蒻玉(和玉)は蒟蒻加工業者の庭先に運びこまれる。
まず土を落とす作業から始まる。大きな、たらい状の器で従業員により洗われる。その後刺し子と云うアルバイトの親子を毎年雇い加工の一部を手伝わせる。私も小学校から中学校の数年は毎日手伝った。所謂「蒟蒻さし」である。
手伝うと云うより、家族ぐるみで生活費を稼いだのだ。秋口は私にとってと云うより遊びたい盛りの子供達にとっては苦しい日々だったと思うし、何とも正月の待ち遠しかったこと。
私は蒟蒻をあまり好まない。「おでん」は好きでも中に入っている蒟蒻は出来れば避けたい心境は、その当時の抵抗なのかもしれない。
昭和25年から30年代の蒟蒻粉が出来るまで
? 農家で秋口に畑から蒟蒻玉を掘り出す。
? 蒟蒻加工業者に出荷(3~5年程度のもの)。
? 土を洗い落す。
? 蒟蒻刺し------近所の親子が総出で小使いや生活費の一部を稼ぐ為10 月から年末まで以下の作業が続く。
? 蒟蒻玉を「突き板(せん)」で3mm程度にスライスする。
? 1,5m程度の篠串に指幅の間隔でスライスされた蒟蒻を刺し込む。
? 篠串20本を1連とし、かつ糸で束ねる。
? 連場で風を利用して乾燥させる。「風吹かし」ここからきているの は?
? 充分に乾燥した連を連場からおろし、蒟蒻片を篠串から外す。
? 水車に設置された石臼で細かく粉になるまで突く。
冬の風のある中での作業で、蒟蒻の粉(舞粉)か空中に拡散する結果、若者から年寄まで、呼吸器を痛め「ぜんそく病」が甘楽地区には多かった。
加工業者の現在は、規模の大きいところでも、従業員は2~3人でほとんど機械化され、水車の和らいだ音とは異質の機械の騒音となり、夜の闇の中を複雑に飛びかっている。
蒟蒻加工の作業工程や器具については、私の中学時代の記憶から、加工業者とは別の角度から見て作成したもので、実際とは異なる部分もあると思いますが、ご容赦下さい。
(平成24年12月21日記)