後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明日は冬至・・・弱々しい陽射しの公園風景です。

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

府中郷土の森博物館公園を家内と散歩してきました。明日は冬至なので陽射しが弱々しくて淋しげな風景でした。ロウバイの花が咲いているかと思いその林の中へ入りましたが流石に未だでした。つぼみが冷たい風に揺れていました。

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旧石器時代の日本人はナウマン象を食べていたのです。そしてハインリッヒ・E.ナウマン博士の大きな功績

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今から4万年頃前から2万年前までの2万年もの長い間、旧石器時代の日本人は国中に棲息していたナウマンゾウを集団で襲って、殺して、食べていたのです。

その歴史的な事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨とともに、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。

特に野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。

発掘は専門家によってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行って来ました。発掘の成果は、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」に分かり易く展示してあります。私も6年前に野尻湖の湖畔の宿に泊り、この博物館を訪問しました。兎に角展示が良く出来ていて人間がナウマンゾウを食べていたことが確信できました。

「野尻湖ナウマンゾウ博物館」というキーワードで検索するとこの博物館の詳細が出ています。

旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれる博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の提起の重要性に感動しました。我々は昔の人々の生活の実態を知らな過ぎると思います。

貴方は奈良時代や平安時代の農民の家や生活の実態をご存知でしょうか?

天皇や貴族の華麗な生活ぶりは学校で習いますが、農民が縄文時代と同じような縦穴住居に住んで、赤貧洗うような生活をしていた事も記憶しておくべきと思います。

歴史の真実を大切にし、自分の毎日の生活を大切にしたいと思います。私は我々の先祖が象を殺して食べていたことも忘れません。その決心をするためにわざわざ野尻湖へ一泊の旅をしました。

下に野尻湖ナウマンゾウの写真を示します。

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一番上の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるものです。

ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。

しかし二万年前に絶滅しました。アジア大陸から移り住んできた我々の祖先が食べ尽くしたようです。野尻湖周辺ではナウマンゾウを捕り、解体した現場から多量の骨と解体に使った道具が一緒に出てきたのです。

この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。

こんな初歩的な知識を得て、俄然、「地質学」という学問に興味が出てきました。

日本に地質学を教えたのは明治8年に、お雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士です。

Naumann17j12 彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナやナウマンゾウ化石などを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。

左の彼の写真はWikipedeaから転載させて頂きました。

先日、見学してきたつくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所のその後の博物館なのです。

日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように動いてきたか?

そして雨風に流されてどのように変化して来たか?

このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化しやすい土壌に埋まれば化石になります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

025_3 左の写真は先日、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この醜悪な展示物に感動してしまったのです。

良くご覧下さい。黒っぽいん岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。

長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細は割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。

岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が役に立つのです。学問研究の醍醐味ですね。(終わり)


大津波の被災地は二度目の冬を迎えています。

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

大津波に襲われた広大な土地の復興は依然として進んでいません。

衆議院選挙と政権交代で皆が大津波被災地のことを少し忘れたのでしょうか。新聞やテレビで被災地の報道が無くなってしまいました。

被災地のことを忘れないようにと祈りつつ以下にご報告いたします。

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上、下の写真は宮城県山元町の被災前と後の航空写真です。

緑豊かな村落も水田も完全に洗い流されてしまいました。(写真は河北新報出版センター発刊「津波被災前・後の記録」の206ページと207ページから転写しました。)

被災地は住宅の再建禁止の指定を受けた地域もあり手つかずのままです。

塩分の沁み込んだ水田は米が作着け出来ません。不便な仮設住宅で寒い冬を迎えているのです。

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私は今年の秋、10月15日に津波ですべてが流されてしまった東松島市の東名(とうな)町という場所を探訪してきました。

以下はこのブログで10月16日に掲載した報告記の抜粋です。多くの人が津波の被災地の方々のことを忘れないようにと祈りながらお送り致します。

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10月15日の朝早く、仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているそうです。

復旧には全く手がついていないそうです。復旧には5年以上かかると言います。

高城町駅で降りタクシーに乗りました。中年の親切な運転手さんが被災地を案内してくれました。

運転手さんは東松島市の東名(とうな)町に案内しますと言います。津波で流されてしまった自分の家のあった町だそうです。家は無くなりましたが家族だけは生き延びたと言います。

車は快調に数キロ走ります。同じ町でも津波の来なかった場所では以前のままの舗装道路です。しかし東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。

鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたのです。もう手の付けようがないので新しい線路は山の高台を通すそうです。

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この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。

踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民がすんでいて、260人が犠牲になったそうです。

一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。

下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。

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下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。

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運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。下の写真に運転手さんの悲しそうな表情が写っています。

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最後に彼の家族の助かった理由を書きます。大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。下の写真の山の上に逃げたのです。

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津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。

もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。

間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大多数人のは大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。

しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。

三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。

そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。

被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。この事実を忘れないようにとこの記事を謹んで、皆様へお送りいたします。

今日は東日本大震災の被害者が、自分の将来をあきらめずに、希望の灯を心に燃やし、すこしづつでも復興の歩みを進めることが出来ますようにお祈り申し上げます。後藤和弘