後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ブラジル移民船、あるぜんちな丸の1962年の悲壮な実態記録

2012年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

あるぜんちな丸第12次航が初航海で当時23歳の新進気鋭の調理員として私たちと同じ船に乗りクーラの無い40度の船室での苦行?を共にされた、現在神戸市にお住まいの宮路さんから貴重な写真と共に(別途掲載)次のようなお便りを頂きましたのでご紹介しておきます。写真は、あるぜんちな丸の神戸出航風景です。

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===http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=44======

「私達の40年」  編集委員会連絡事務所
        代表  和田好司様

神戸市須磨区板宿町3-10-8
12次航あるぜんちな丸
乗組員 宮路伸佳       

あるぜんちな丸第十二次航回顧録

「私達の40年発刊」、おめでとうございます。
一言に40年と申し上げることは簡単ですが、移住者全員が幸せに又成功されて居られるとは思われません。
途中志半ばで挫折し帰国された人、苦難の日々を送り亡くなられた方々、其の心中、お察し申し上げます。

思い起せば赤道直下のアマゾン川河口ベレンで下船された幾家族、小さなハシケに乗り換え1ヶ月近くも費やし奥地に向かわれたご家族を見送ったあの日のことは、今でも心の奥深く焼き付いています。
空調設備も無い「あるぜんちな丸」、乗組員室はもちろん、船客室にもありません。ロスアンゼルスを出港し南下、パナマ運河を通過し大西洋に入り船内は連日40度を越す暑い日々、今では空調も整い快適な船内生活が送れますが、船客のみならず乗組も大変でした。

私、第12次航海に23歳の新鋭調理員として乗船し40年過ぎた今、あの頃の記憶を思い出させる機会を与えてくださったことを感謝いたします。
当時海外移住が盛んで毎月、神戸港・横浜港より盛大な見送りを受け、大きな希望を胸にドミニカ、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン等へ渡航された方々に決して平穏な生活が待っていたとは思われません。ジャングルを開拓し田畑を作っても、2年や3年で作物が実る訳ではありません。其の苦労たるや想像もつきません。テレビのドキュメンタリー番組で今では放送され見る機会もありますが、この苦労たるや筆舌に表すことは到底できません。本当にご苦労さまでした。

さて、船内生活を振返れば、当時花嫁移住者が毎航海10数名程度乗船していました。
写真一枚での見合いで、本人と会ったことも話したことも無く、遠く離れた異国の男性の元へ嫁ぐその気持ちは不安の毎日だった事と思います。四十年も昔のことですので名前を思い出すことも出来ませんが、朝早くから調理場に手伝いに来て五十度を越す調理場の暑さの中で大粒の汗を流しながら、未だ見ぬ未来の旦那様のため一品一皿でも多く料理を覚えようとしていた姿、私達も少しでもお役にたてばと毎日特訓したことを思い出します。
其の時の花嫁さん達、如何しているのでしょうか。あれから四十年、お孫さん達に囲まれ幸せな楽しい生活を送っておられることででしょう。
楽しかった事、苦しかった事、走馬灯のように思い出します。
出会いに始まり、約1ヶ月の乗船でしたが別れる時の辛さ悲しさ、南米航路三十数回経験しましたが毎航海この気持ちは同じでした。

本特集の第12次航ではありませんが、この6~7航海後に幼い娘さんを連れて乗船されサントスで下船されました婦子2人が、その後スサノ地区で花屋さんをされていて家庭に招待していただき親切にもてなされたこと、その娘さんが岡山大学の医学部に留学されていたようですが、名前を思い出せず失礼致しております。その後如何お過ごしでしょうか。

又、同時期ブエノスアイレスで下船された五十嵐さんも、その後同市内から車で30分位の地区で花屋をされており、家庭に招待していただき親切にもてなされた思い出は終生、私の記憶に残ることでしょう。

当時の移民船、あるぜんちな丸・ぶらじる丸・さんとす丸は現存しません。
代わりに、移民船時代の運航を引き継いだ商船三井客船株式会社が、にっぽん丸・ふじ丸の2隻を純客船として世界の海で運航し活躍しています。
私も現在は退職し、船に係わりのある仕事で頑張っています。

最後に、「私達の40年」編集委員会の益々のご発展と、代表和田好司様はじめ委員皆様の御健勝と御多幸を祈念いたします。

平成14年3月6日記す。

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夕日が斜めに射す冬の公園にて、

2012年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の夕方、小金井公園にて撮りました。寒い風が吹いていましたが、子供たちはもっと、もっと遊びたい様子です。親が帰ろうと言っても帰ろうとしません。そのうち陽がますます傾いて夜のとばりが静かに近づいて来ます。そんな感じを写真に撮ったつもりです。

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米上院、尖閣諸島の守備決定・・・これで戦争が回避出来る!

2012年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣諸島の野田内閣の国有化決定以来、中国各地で大規模な反日デモが繰り広げられました。そして尖閣諸島の近くの海域には中国の大型巡視艇が隊列を組んで示威航海を続けています。

それに対してアメリカは軍事的な対抗措置をとっていません。日本の海上保安庁が巡視艇を張り付けて監視しているだけです。

中国の大型巡視艇4隻が尖閣諸島に接岸して武装した隊員が上陸し、島々を占領したらどうなるのでしょうか?私はこのような最悪のシナリオの可能性を想定し、毎日心配していました。

中国の武装隊員が数十名上陸したら日本の海上保安庁の巡視艇は手出しをしません。手出しをすれば小規模な実戦になります。日本政府は実戦を避けます。その結果、尖閣諸島は中国の実効支配のもとになり、竹島や北方4島のような事態になります。

そうなっても良いという理屈もいろいろ考えられます。しかし私は今まで墨守してきた日米安保とは一体、何だったのかと暗い気持ちで過ごしていました。

ところが昨日の新聞で、11月29日にアメリカの上院の本会議で尖閣諸島が日本の施政化下にあり、日米安保の適用範囲であることを全会一致で確認したのです。

ご承知のようにオバマ大統領は民主党です。しかし上院は共和党が過半数以上の議席を持っていて、いろいろな政策でオバマ大統領に対立してきました。

しかし外交や安保保障の問題については大統領の提案が合理的なら賛成するのです。これがアメリカの民主主義です。どこかの国のように野党が議会の解散を条件に法案に賛成するというような姑息なことをしません。正々堂々と進めます。11もの政党が乱立するこの国の政治を憂慮するのは私だけではないと思います。

それはそれとして、尖閣諸島が日米安保の適用範囲とアメリカが言明した以上、中国は実力で島々を占領出来なくなりました。占領すればアメリカの海兵隊と自衛隊が逆上陸するからです。中国共産党軍隊が得意とする人海戦術は小さな離島では実行出来ません。

戦争回避が出来たと安堵できます。戦争は小規模といえども日中の経済関係を破壊します。人間の人格を破壊します。

戦後67年間も日米の共同防衛や安保体制を思い返すといろいろな感慨を覚えます。そして戦争を回避することの重要性が深く理解されます。

日本が武装しなければ平和が続くという単純な考えが通用しないのが現実です。憲法も改正する時期ではないでしょうか?しかしシビリアンコントロールを厳守し、軍部独走を絶対に許さないシステムを構築すべきです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)