スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(天皇制②)

2019-03-21 14:35:40 | 日記
3月21日(木)
 神はまた別方向から定義される。半世紀以上前の学生時代に先生から聞いた話だが、先生はフォイエルバッハを引いて、神とは「民族のレーベンスマハト(生命力)をフォアシュテルンク(見えるように目の前に置く)したもの」だと講義された。この論に従えば天皇制は日本人の生命力を鏡に映したもので、天皇の二面性は日本人自身の二面性だとなる。
 私は残念なことに日本の歴史や文化について全く素養がない。だから疎明さえできないのだが、日本人はこの二面性に従って行動してきたのではないかとの気がする。例えば将棋のように相手の駒を取って自分の駒にするような遊戯は、外国にはないと聞く。この話が本当なら、自分の持ち駒の時はA、相手の駒になったらBの面が出たと考えて、日本人は抵抗なくルール化したのだと考えられる。たとえなシベリア抑留であるが、同じ捕虜でもドイツ人はドイツ人としての誇りと気概を持って振舞い、決してソビエト軍に迎合しなかったと聞く。ところが日本人はアクティブを生み、スターリンに感謝状まで送る程の情けない有様だ。戦闘中は無敵皇軍、捕虜の時は迎合集団という、二面性が出たと考えねば、常識に富み民度の高い日本人にしてと、理解が行かない。
 私は日本人は、普段はAという面を出して生活しているのだが、魔が差したようにBの面が出てしまう時がある、それを恐れる、或はそれに敏感だというような、そんな心性を持っているのではないかと考えている。人口に膾炙する忠臣蔵であるがお取り潰しにあった家臣が仇を撃ったという例はこれ以外にないらしい。稀有な例だから忠臣を讃えたのだという解釈もあろうが、私は普段しまっているBの面を赤穂浪士が出したということで、それを見た人々の心が過敏に反応した、そんな見方の方がぴったりくるように感じる。
 そう考えると所謂自虐史観や日本罪悪論の流行が良く分かる。実際に日本軍は残虐なことなどしていないのだが、自分の一面としては残虐行為をしてしまうものがあると、日本人が怯えているから流行るのだ。日本人はAとBの出現を自分の意思でコントロールできないと漠然と思っている。出現は状況によって左右されると思っている。だから行われたと言われる残虐行為の実際を調べようとせず、残虐行為が出現しかねない状況から自分を逃避させる、逃げるといった対応に終始してしまうのだ。中国や韓国が日本は残虐行為をした、過酷な植民地統治をした類例のない悪人だなどと非難されても、では実際どうだったのか、ヨーロッパ諸国の行為と比較してどの程度に酷いものだったのかとの、科学的な調査考察を日本人は決してしない。自分では出したくないと思っているB面が出るような状況から、とにかく避けて事を済まそうとする。それで心の安定が図れるらしいのだ。日本人にとって、普段の自分ではないBが出ることは、そのBが諸外国と比べて相対的に酷いのか残虐なのかは、関係のない事らしい。とにかく普段の自分ではないと恐れるらしい。らしいと言うのは、私個人としてはそんな考えはないのでまだ今一つ腑に落ちないからだが。
 日本人はAとBの度々の交互出現を歓迎していないようだ。しかし現実は状況により交互出現してしまう。そこでもしB出現の頻度が低いのなら、Bを無視しようとの発想が出てくる。不都合な真実を無視するのと同じなのだが、日本人はこれが特にひどく、物事の根幹にかかわる部分でもしてしまうように思う。
 まず天孫降臨の不思議である。なんであんなに苦労して出雲を国譲りさせたのに、天孫は何もない日向に降り立ったのだ。しかも以後出雲など全く出てこない。私にはまるで理解が行かないのだが、ネットでこの疑問を見たことがない。有名な日本史の学者に、しかも日本史を分かり易く述べて人々に日本史の面白さを喚起させようと広言している学者であるが、手紙を書いてこの疑問を述べたが、完全に無視された。まあ彼にも分からないから返事が書けないのだと勝手に解釈したが。戦前は神話も絶対的事実だったのだから、疑問を持ってしかるべきだと思うのだが、そういう人を知らない。万世一系の前には面白くない疑問という訳であろう。なんとなら、もし不思議だとなれば、ひょっとして日向に降り立った人物は偽物かと、思考が巡りかねないではないか。

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