やまちゃん奮闘記

1970年代から海外に出かけ、滞在した国が合計26か国、21年の海外生活が終わりました。振り返りつつ、日々の話題も、

日本人が次々にノーベル賞を受賞している秘訣は?

2019-10-23 | 歴史・文化

旭化成に在籍している吉野彰氏がリチウムイオンバッテリーの開発でノーベル化学賞を受賞した。 

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1901年から始まり2019年に至るノーベル賞の歴史の中で、日本は非欧米諸国の中で最も多い28名の受賞者を輩出しており、このうち3名が受賞時点で外国籍を取得していた。21世紀に入ってからでは、自然科学部門の国別で日本は米国に続く世界第2位のノーベル賞受賞者数となっている。→こちら

ほぼ毎年日本人1人が受賞している計算になり、価値の高い物理学賞や化学賞に多い。

ノーベル賞を受賞する日本人が多いため、それを羨望の眼差しで眺めている中国人も多い。 

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日本人が次々にノーベル賞を受賞している理由について、「民族性」や「文化」を挙げる人も多いかもしれない。しかし、単に日本人が慎み深く、責任感、勤勉、恩や義理などを大切にする点だけに目を留めるなら、それは上辺だけのものしか見ていないことになる。 つまり、端的に言えば、全ては経済と関係があるといっても過言ではないだろう。

ノーベル賞が反映しているのは、数十年かけて積み重ねられた歴史的貢献であって、目の前にある成果ではない。日本人が近年、続々とノーベル賞を受賞しているのは、1970-80年代に経済、社会が繁栄し、その後80-90年代にかけて科学研究に膨大な資金が投じられたことに背景があると言える。 

日本の経済は戦後に成長し始め、50-60年代の高度経済成長期にしっかりとした基礎が固められた。70年代にはオイルショックがあり、日本は経済の質の高い発展へと舵をきった。70年代、日本の研究開発費が国民総所得に占める割合は常に2%を超え、右肩上がりで増えた。→こちら

そして、研究開発費は常に3%以上を維持した。

その他、教育経費が国民総所得に占める割合も上昇の一途をたどっている。経済が発展するにつれて、日本の科学研究への資金投入や教育への資金投入は強化され続け、その成果が出るようになっている。
ただ、金があれば何でもできるわけではなく、制度、市場、企業、大学がうまく組み合わさって化学反応を起こさなければならない。

経済発展が一定の段階に達すると、人材や技術が積み重なって厚みを持つようになり、ノーベル賞を受賞者が出る確率も高くなる。人材の数が多く、うまく化学反応が起きていれば受賞者は多くなり、その逆であれば受賞者は少なくなる。


しかしながら、日本人が続々とノーベル賞を受賞しているものの、日本では科学教育が危機に瀕している。その原因は他でもなく、経済成長の鈍化が続いているからで、科学研究へ投じられる資金にも影響が出ている。

ノーベル賞受賞者を多数輩出している名古屋大学、東京大学、京都大学は近年、世界大学ランキングでの順位を落としており、日本の高等教育に以前ほどの活気は見られなくなっている。

政府の教育経費が国内総生産(GDP)に占める割合は約3%にまで落ち込み、中国を下回るようになっている。2018年、日本政府が発表した「科学技術白書」は、「日本のテクノロジーイノベーション能力は衰退している」と明確に指摘している。研究資金、論文の数、論文の被引用回数はいずれも減少している。日本人の数十年後のノーベル賞受賞に影響が出ることは間違いないだろう。→こちら参照


それゆえ経済発展を遂げた中国にもいずれ「ノーベル賞受賞者量産の波」が必ずやってくると予想される。


発展は一番重要なことで、改革開放(1978年)から約40年が経ち、中国のGDPは約100兆元(1元は約15.28円)に達するようになり、研究開発費や教育に投じられる資金も大幅に増加している。

 

中国国家統計局、科学技術部(省)、財政部がこのほど発表した「2018年全国テクノロジー経費投入統計公報」によると、同年、中国全土の研究開発(R&D)費は前年比11.8%増の1兆9677億9000万元に達し、3年連続の二桁成長となった。

研究開発費の投入強度(GDPに占める割合)は2.19%と、5年連続で2%を超えている。13年から、中国の研究開発費は世界2位の座を保っている。また、中国の論文数、特許取得数も上位に位置している。

 

このように膨大な資金が投じられるようになっており、さらに、強力な国力のサポートの下、中国は既にテクノロジー大国の仲間入りを果たしている。ただ、中国は「テクノロジー大国」であるものの、「テクノロジー強国」にはまだなっておらず、科学者・銭学森がかつて「中国の学校はなぜ傑出した人材を輩出できないのか」と問いかけたように、産学研の断片化、コア技術の面での足かせなど、解決すべき課題も山積みだ。 十数年後、ノーベル賞を受賞する中国人が表れるようになるのは間違いないだろうが、たくさんの中国人が受賞できるようになるかは、前述のような化学反応を起こせるかにかかっている。

 

十数年後、ノーベル賞を受賞する中国人が表れるようになるのは間違いないだろうが、たくさんの中国人が受賞できるようになるかは、前述のような化学反応を起こせるかにかかっている。


三国志展に行ってきたよ

2019-09-11 | 歴史・文化

中国3世紀の三国時代の文化財を展示する特別展「三国志」が7月9日から9月16日まで東京・上野の東京国立博物館(平成館)で開催されている。→こちらの中国の報道、Internet Museum

 

9月に入り、終了日も間地かでもあり、あわてて、行ってきた。

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曹操(155~220)の墓「曹操高陵」の出土品などを中心に約160点の文化財が展示されており、半日で、すべてを細かく見ることは不可能だ。しかし、写真をたくさん撮ったので、順不同だが、できるだけ沢山、掲載しましょう。

会場はいくつかのブロックに分かれ、三国志に関連する遺物、NHKの人形劇「三国志」の人形(川本喜八郎さん制作)などがが展示されている。

プロローグ 伝説のなかの三国志 (1~9)

第一章 曹操・劉備・孫権―英傑たちのルーツ (10~16)

第二章 漢王朝の光と影 (17~38)

第三章 魏・蜀・呉―三国の鼎立 (39~69)

第四章 三国歴訪 (70~126)

第五章 曹操高陵と三国大墓 (127~157))

エピローグ 三国の終焉―天下は誰の手に  (158~162)

 

また、河南省安陽市の曹操高陵の写真の展示と共に、墓の模型も作られており、河南省安陽市の曹操高陵から出土した曹操を示す「魏武王(ぎのぶおう)」の名が刻まれた石牌などの展示品は日本初公開となる。

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世界最古と考えられる白い器面に透明なうわぐすりをかけ、高温で焼きあげた「白磁」も展示されていた。 この白磁は高さ13・4センチ、直径8・7センチ。周囲に四つの耳(環)をつけた「罐(かん)」と呼ばれる器で、2008年から発掘が始まった墓で、中央部の前室(棺を納めた主室の前にある部屋)から出土したと。

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曹操の墓と認定された出土品=魏武王の名が刻まれた石碑

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鼎 6口 (後漢~三国時代・魏・3世紀) 2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土 河南省文物考古研究院所蔵 漢の儀礼制度において、皇帝の葬儀の際は素焼きの土器で作った鼎を12口副葬するのがならわしと。

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瑪瑙円盤(めのうえんばん)のようなキレイな、貴重だったと想定されるものが見つかっています。

ただ、これが何なのかはわからない。彼の薄葬令は実行に移されていると考える以上、見つかっているものの目的は?

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圧巻は高さ約2mの青銅製の「関羽像」(青銅製 明時代・15~16世紀 新郷市博物館蔵)だ。

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1級文物 獅子(山東省淄博市臨淄県学所旧蔵 後漢時代・2世紀 山東博物館)は  三国時代の前の後漢時代(25~220年)の都、洛陽で作られた石像で、ライオンの姿が写実的に表されており、この時代に作者がライオンを実際に見たことがあったと推察できる。

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方格規矩鳥文鏡 (ほうかくきくちょうもんきょう 青銅製 後漢~三国時代(魏)・2~3世紀 1955年遼寧省遼陽市三道壕1号壁画墓出土 遼寧省博物館蔵)

紐を通すための穴が長方形を呈し、銘文には「同出余州(銅は徐州より出づ)」とある。また文様の最も外側に突線がめぐるなど、日本列島で出土する三角縁神獣鏡に認められる特徴をもっている。

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1級文物 牛車 2006年南京市江寧区上坊1号墓出土 三国時代(呉)・3世紀 南京市博物総館

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金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀 2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土 寿県博物館蔵

体躯をくねらせた瑞獣を立体的にあしらい、随所に貴石を象嵌し、金粒細工を施す。魏の文帝もこうした豪奢な金具をつけた帯を欲したが、すでに作り手が絶えていたという

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儀仗俑 (後漢時代・2~3世紀 1969年、甘粛省武威市雷台墓出土 甘粛省博物館蔵)は、青銅製で、涼州(現在の甘粛省)から出土した。

董卓(とうたく)と関連があったとされる有力武将「張将軍」の副葬品の一つ。「張将軍」は三国志には記述がないものの、青銅で丁寧に造られた武装した馬に乗る騎兵たちや、非常に精巧に作られた馬車・牛車の隊列から、当時相当有力な軍閥の有力者だったことが伺い知れる。なお、騎兵をよく見てみると、両足を固定する「あぶみ」を使っていません。三国時代の騎手は、相当に高い騎乗能力を持っていた。→銅馬車@西安 兵馬俑@西安

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2世紀の耳杯。当時の人は、こうした器で酒を飲んだそうだ。張飛はこんな小さな杯ではなく、壺からそのまま呑んだのではないか?

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「晋平呉天下大平 しんごをたいらげてんかたいへい 」磚 (せん) 西晋時代・280年 1985年、江蘇省南京市江寧区索墅磚瓦廠1号墓出土 南京市博物総館蔵

西晋時代の墓から見つかった磚に「晋、呉を平らげ天下大平」と刻印。三国志の時代の結末をもっとも端的に伝えている。

 

最後は、疲れたので、スタバで、コーヒーで休養。

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早く見に行かなきゃ 三国志展

2019-09-04 | 歴史・文化

中国3世紀の三国時代の文化財を展示する特別展「三国志」が7月9日から9月16日まで東京・上野の東京国立博物館で開催されている。→こちらの弊ブログ、および こちらの報道

 

曹操(155~220)の墓「曹操高陵」の出土品などを中心に約170点の文化財を展示する。河南省安陽市の曹操高陵から出土した「魏武王」の名が刻まれた石牌で、曹操を示す「魏武王(ぎのぶおう)」の名が刻まれた石牌などは日本初公開となる。→こちらの報道

しかし、上記報道には曹操を示す「魏武王」の名が刻まれた石碑は展示されていないようだ。残念だ。

 

また、世界最古と考えられる白い器面に透明なうわぐすりをかけ、高温で焼きあげた「白磁」は展示されているようだ。

白磁は高さ13・4センチ、直径8・7センチ。周囲に四つの耳(環)をつけた「罐(かん)」と呼ばれる器で、2008年から発掘が始まった墓で、中央部の前室(棺を納めた主室の前にある部屋)から出土した。 


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9月16日まで開催している。早く行かなきゃ!!

 

 

 

 

 

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天皇退位、令和始まる

2019-05-01 | 歴史・文化
平成が終わり、令和がはじまった。
昭和天皇は崩御前にすでに体調を崩されていたから、世の中全体が自粛ムードだった。そのまま天皇崩御というタイミングと相まって、平成の発表になったわけで、今回はおめでたい雰囲気があり、カウントダウン、花火、徹夜踊りなど、前回とは大きく違った時代の移り変わりだ。
NHK報道など

また、昨日の平成天皇退位の行事に合わせ、各国からメッセージが寄せられた。
 
中国外務省の耿爽・副報道局長からも、「明仁天皇は1992年に訪中し、中国の党・国家指導者と何度も会見し、中日関係の発展推進に積極的な貢献をしてきた」「共に今の前向きな勢いを大切に守りながら一層強化し、敏感な問題を適切に処理し、引き続き健全で安定的な関係発展の推進を望んでいる」とコメントしている。→毎日新聞などの報道

このコメントの中で、平成天皇(明仁天皇)が訪中した件を報じているが、戦後、皇族が、どの程度、中国を訪問しているか、宮内庁データで調べてみると、次の2件しかなかった。
1992年10月23日
~10月28日
天皇皇后両陛下      中国の招待により,国際親善のためご訪問
1998年8月3日
~8月14日   
文仁親王同妃両殿下    鳥類の調査研究のためご旅行      
 
1992年の訪中の記事を見てみると、中国側では中国報道官のコメントのごとく、好意的にとられている。→こちら (Google翻訳)など
 

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くしくも、6年前のこの時期、オランダではウィレム・アレクサンダー(Willem-Alexander新国王が即位した。この式に、新天皇・新皇后も出席していた。→こちらの報道

令和の時代が、新天皇のお言葉通り、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を期待しよう。


新元号「令和」フィーバー 歓迎ムード?

2019-04-03 | 歴史・文化

新元号が4月1日に発表され、日本中がフィーバーとなっている。→こちらの報道

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安倍晋三総理大臣は、菅官房長官の新元号「令和」の発表に続き、記者会見で談話を発表した。

総理は「万葉集にある『初春(しよしゆん)の(れいげつ)にして、気淑(よ)く(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す』との文言から引用したものであります。そして、この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。」と説明した。こちらの報道

 

発表直後、日本語学者の金田一秀穂氏は、新しい元号「令和」の第一印象を次のように語った。

「令」というのは、古い意味では“神様のお告げ”という意味。そして、“皆が仲良く“ということなんだろうと思います。
いい言葉なのではないでしょうか。悪くないですよ。 →こちらの報道

あたらしい時代に和を保て ということ?

「令」と言う言葉を、広辞苑、及び、角川の漢和中辞典で調べてみても、「命じること」「おきて」などあるが、直接の表現で「神のお告げ」らしき表現は見つからない。「上から下へのおおせ」とすると、神のお告げとも解釈できる。

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「和せしむ」とすると、仲良くせよとなる。


新時代を象徴することになる2文字。どのような意味があり、願いが込められているのか、専門家の話は???

京都大学の阿辻哲次名誉教授は、新時代の元号としては「戦争で荒廃した昭和や、大災害が相次いだ平成のように、元号に込められた思い通りにはいかないことも少なくない。令和の文字のイメージそのものには、平和な時代になってほしいという思いが読み取れる。今度は文字通りの時代になってほしい」と語った。

序文の中の令月に関して、東京大東洋文化研究所の大木康教授(中国文学)は、「中国では『令月』に『吉日』と付けることが多い。令は吉と通じ、めでたい意味がある」。引用したのが春の梅の様子を歌ったものだったことについても「和やかな印象を受ける元号だ」と話した。

等々→こちらの報道


私が気にしている「令」の熟語がある。→「令色」:他人の気に入るようにつくろい飾った顔つき。(巧言令色)

この「色」に「和」をあてると、世界の気に入るようにつくろい飾った平和となる。詭弁かな?


私と同様に、東大史料編纂所の本郷和人教授は、「令」の字に関して、3つの問題点を指摘している。→こちらの報道


 

総理が述べている「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。」には、総理の特有の詭弁が含まれている様に思え、なかなか、直接にはつながらない。


ところで、出典は「万葉集」で、巻五、梅花の歌三十二首の序文から引用された。日本の古典(国書)からの採用は確認できる限り初めてのことだ、と政府は強調している。一方、中国では、出典となった万葉集序文の部分が中国・後漢の学者、張衡が記した「帰田賦」にある「於是仲春気清」を踏まえているとの書き込みが相次いだ。→こちら(中国語 Google翻訳はこちら)のサイトなど

 

新元号フィーバーで騒ぎすぎなのは、総理自身?→こちらの報道 さらに、総理を、無教養とバカのきわみとまで、言っているこちらの報道

景気への影響は?→こちらの報道


『帰田賦』と「万葉集」巻五「梅花三二首の序」の類似点→こちら




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