東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』,めこん,第7章

2009-04-20 20:09:44 | 国家/民族/戦争
第7章 嵐の前の静けさ
1977年のカンボジア=ベトナム関係

この部分が当時外界に知られていなかった、混乱した内容。

現在では、ほかに資料・著作があるからはっきりしているが、まったく勘ちがいした憶測があった。

簡単に事実を整理すると、1977年、ポル・ポトはベトナム侵攻を開始し、一方、ベトナムも徹底的に抗戦する準備を始めた。
すでにカンボジア内部では、幹部の粛清、一般住民の虐殺が進行していた。国境付近ではベトナム住民の殺害、クメール人の難民も発生中。
ベトナム側からの反撃もあり、カンボジア軍に被害も出ている。
フン・セン、ヘン・サムリンなどが粛清をおそれてベトナム側へ逃亡。

そして、ついに12月31日、カンボジアはベトナムと外交断絶を発表する。

しかし、ハノイ側は徹底的な報道規制を敷いている。「ポル・ポト・デビュー」を歓迎する政府側の発表もある。これは、北京を牽制している間に反撃の準備をすすめるためだったのだが、西側のメディアは、完全に誤解した。
つまり、同じ共産主義国家なら、当然協調路線を歩むだろう、と。あるいは、反共主義者のみかたとして、共産国ではどんな不合理な事件が生じてもふしぎはない、とみなしていた。

そこで、散発的に外にもれる難民の話、国境付近での戦闘、死体などについてさまざまな憶測が生まれた。

あれは、偶発的な事故だ。もしくは、局所的な不作による飢餓ではないか。

いや、反ハノイ勢力、旧南ベトナム政府関係者が処刑されているのだ。

あれは、カンボジア国内かベトナム国内かしらないが、共産主義者内部の権力争いだ。

いや、すべてCIAあたりが流したデマだ。

つまり、誰もこれを二国間(カンボジア対ベトナム)の戦争とはみなかった。ほんとだってば!さらに、中国が加勢しているのがカンボジアと認識している外交ウォッチャーはほとんどいなかった。

ひとりのハンガリー人記者の話がある。
カンボジアからの侵攻に憤慨したベトナム軍第七軍管区の司令官チャン・ヴァン・チャ将軍は、この実態を外国のメディアに知らせようとする。将軍は、この記者シャドール・ジョリに前線を見せ、記事を書かせようとする。
ジョリは国境付近でカンボジア軍に虐殺された死体を見、ベトナムに逃げてきたクメール・ルージュ幹部にインタヴューする。
しかし、その取材の結果は、ハノイの上層部によって発表を禁じられた。

つまり、ハノイ上層部は、カンボジア側の虐殺の発表も禁じたのである。

1978年3月4日からの著者自身の取材についても述べられている。
著者チャンダ(=ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー誌)とル・モンド誌、NRCハンデルスブラッド誌(オランダ)、計三名の記者がハノイによばれ、自由に取材する許可をもらう。

現在読んでみて、本書のこの部分に書かれていることは、誇張のない事実である。
しかし1978年の段階で、外の世界で、この記者たちの記事が信頼されたかどうか微妙なことろだ。
当時の状況からみると、この三人の記事は、ハノイが招待してハノイが見せたいところだけ見せられた提灯持ち記事と見られる可能性もあった。実際、ヤラセ風の演出があったことも、チャンダは書いている。(なお、同時期、日本人記招待されているが、やはり親ベトナムの記者・カメラマンによる偏向した報道と、とらえる見方も多かった。)

その後の世界の大部分は、強力な軍事力をもつベトナムがカンボジアを侵略している、と捉えた。(実際強力な軍事力であったし、領土侵害ということなら、侵略行為にあたるわけだが)

なお、本格的な軍事衝突の前の1978年秋、カンボジアは中国のすすめで、虐殺や粛清のイメージを払拭するキャンペーンをおこなう。このとき、USAやベルギー、そして日本の代表も招かれる。その結果、虐殺がタイ難民キャンプあたりのデマだという記事もあらわれる。(第10章p542)

実際にはカンボジアでは、このころ(1978年秋)、中国の軍事援助を着々を受け入れ、粛清を続けていた。さらに、中国はベトナム軍の本格的侵攻に対して、〈懲罰〉を加える用意はあるが、プノンペンは陥落するかもしれない、と予想していた。