東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

長南実 訳,『ラス・カサス インディアス史 1』,岩波書店,1981

2009-03-07 20:07:52 | 翻訳史料をよむ
増田義郎 注・解説、「大航海時代叢書 第二期 21
近く(2009年3月)文庫になるようなので、読んでいないがコメント
最初に引用

その原則とはすなわち、われわれ自身が他の人たちからしてもらいたいと望むとおりのことを、われわれは彼ら未信者たちに対してなすべきであり、またわれわれはいかなる所へ入って行くにせよ、まず最初にこちらから示すべき態度は、言葉と行為による平和であらねばならぬ、ということなのである。この点については、相手がインディオであろうと異教徒であろうと、ギリシア人であろうと異邦人であろうと、なんらの差別もあってはならない。なぜならば、ただ御一人の主だけが人間全体の主であられ、人間全体のために区別なく死に給うたのだからである。

おお、まともなこと言ってるじゃないか。しかし……

この文章が出てくるのが、本書・大航海時代叢書版で183ページ。たいていの読者は、ここまで辿りつくまでに、へたばっている。
その前まで延々と、フラヴィウス・ヨセフスから始まって、アリストテレスだのプトレマイオスだの、ローマのアウグスティヌスだのキケロだの、アヴィケンナ(イブン・シーナー)だのを引用して、インディアスを、つまりスペイン人たちが新たに到着した地について、過去の哲人たちがどう考察しているか、人間が住んでいるか、人間が住めるか、などという話題を続ける。

現代人にはとうていはかりがたい世界観が示され、著者ラス・カサスの博識が誇示される。
この後、本巻の主題であるコロン(コロンブス)のインディアス到達の過程が記されるわけだが、最初の壁にぶつかって、後の叙述までついていけない。
だいたい、この第1巻だけで680ページ。注は最小限なので、ほとんど本文と思ってよい。翻訳では、最初の予定の全4巻が最終的に全5巻となる。よくまあ、こんな長いものを書けたもんである。

この最初の150ページほどの部分が、当時のスペイン人、キリスト教徒の世界観の代表であろうし、山本義隆『十六世紀文化革命』などの視点から歴史を見たい方には、格好の材料である。(と、思う、読んでないので自信がないが)

大航海時代叢書のほかの巻を開いてみた方はごぞんじだろうが、この種のながったらしい叙述、創世記から始まったり、ギリシアの時代から始まるのは、ある種のハッタリだと思ってよい。
特に本書はラス・カサスが論陣をはって、敵を説き伏せる目的があるのだから、ハッタリも大きくなくてはならない。

最初に引用したように、インディオも人間であり、保護しなくてはならない、という強烈な使命感にささえられており、コロンの航海の記録もその傍証として描かれるわけである。
しかし長い。この巻だけで、コロンの航海の説明に終わっている。

ラス・カサスの執筆は1526年から25年間もかけたそうだ。その間、インディアスの破壊はすすみ、インディオはほぼ無抵抗で倒れていく。

しかし、大航海時代叢書全体からみると、ここに描かれるように、弱く、善良で、自然の中で平和に暮らし、スペイン人征服者になすすべもなく死んでいくインディオ、というのは、ここアメリカ大陸だけであった。
目をインド洋・アジア方面に向けると、とうてい善良で無垢のインディオとはいいがたい、こずるい商人だの、暴虐なスルタンだの、融通のきかない官僚だの、理屈をこねるボーズだの、凶暴な海賊だのがあふれていて、とても悠長に論じてはいられなかった。

彼らヨーロッパのキリスト教徒が遭遇したのは、西ではバタバタと死んでいく無垢のインディオであり、東では逆に、無知蒙昧なキリスト教徒には想像もできない多様な文化と高度の生産力と強力な武力を持ったアジアの人間であった。

本書インディアス史は、ヨーロッパ人の思考の転換を見るには最適かもしれないが、地球全体がこのラス・カサスの考えるほど、ヨーロッパ人の思うようにはならなかった、ということに留意すべし。
つまり、暴虐な征服者になすすべもなく殺されていっただけではないし、また、その反対に慈悲深い布教者に保護されるだけの弱者でもなかった。と、いうこと。

あと、これは、日本人読者にはあまりいないと思うが、本書を読んで、スペイン人は残虐で無慈悲で無計画であったが、スペイン人に対抗したオランダ人やブリテン人は、合理的で道義的で、奴隷制も廃止したんだぞー、という読み方をする人がいるらしい。
まさか日本人でこんなふうにかんちがいする人はいないと思うが、英語圏ではけっこう多いらしいので注意。


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