東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

井上章一,『日本に古代はあったのか』,角川書店,2008

2009-02-16 21:28:46 | フィクション・ファンタジー
まったくわかりやすい、おもしろい文章を書く著者だ。
p70,71 より

マルクス主義史学の歴史家に、お国自慢の意識があったとは、思いにくい。日本にも、昔は奴隷がいたんだぞ。少々定義はあいまいだけどな、人民はその大半が奴隷だったんだ。どうだ、すごいだろう。まいったか。日本にも古代はあったんだからな、見くびるなよ。と、そう彼らが考えていたわけではないだろう。

日本も罪ぶかい国でした。一見、本格的な奴隷はなさそうですが、じつはいたんです。たとえば、班田農民というかっこうで、なりをひそめていました。すみません、日本にもあのいまわしい古代をへてきていたんですよ。

これは、日本にも西洋のような奴隷制があったかどうかという、戦後歴史学界のもんちゃくを軽くいなした部分であるが、ちょっと前まではまじめに論じられていたのだ。

なぜ奴隷制、農奴制がこれほど大きな問題になったかというと、マルクス主義では労働力の調達のちがいが時代をわける画期となっており、だから奴隷制と農奴制の区別は古代と中世を区別する指標して重要である、というわけである。

だから日本での論議は、地中海地域の奴隷を北方ヨーロッパの農奴制と比べ(この段階で、比較が可能かという疑問があるのだが)、さらにそれを東方の島国日本の状況にあてはめようとする。(さらに、近代の南北アメリカでの奴隷制をいっしょくたに論じるめちゃくちゃな話もあったが、さすがにまともな歴史家にはそんな混乱はない。)

このテーマに関しては、決着がついているだろう。
オリーブやブドウやコムギをつくる地中海の農法と、オオムギやソバを植えてブタを飼う北方の農法を比べてもしょうがない。さらに、乾季がない日本列島の農耕にあてはめても意味ない。
さらに、班田というのは、商品作物であるコメをつくるプランテーションですよね?
あれは、労働力が不足している時代にムリヤリ労働力を集中させて商品作物を作るという発想から生まれたものですよね?(違うのか??)
プランテーションと小規模焼畑農耕が混在する地域で、プランテーションだけ見ても全体は描けない。

本書の大テーマである時代区分論、つまり、古代と中世の境目はどこか、中世と近世の境目はどこか、という問題も、現在ではもう、論じるのは意味ないから止めようという趨勢になっていると思いますが、どうなんですか。

もちろん、著者の企図としては、歴史学者の仲間うちでけで了解していてズルイじゃないか。教科書にはまだ、日本の古代なんて分け方になっているのに。一般人には教えないのか、という抗議がある。
そういうシロウトの素朴な疑問をしっかりと追及して、わかりやすい文章で論じたという意味で、著者の熱意に感服する。

*****

いちばんおもしろく、わたしの関心にはまったのは、ゲルマン民族のローマ帝国への侵入を、東国の武士の畿内への侵入になぞらえてとらえた歴史観。
本書によれば、これは京都大学の史学科にはじまる。

初代国史科教授であった原勝郎『日本中世史』(1906、現在、平凡社東洋文庫,1969で読める)である。

ゲルマニアを東国にたとえ、軟弱な文明に毒されていない素朴で質実な勢力ととらえる。
一方、京都をローマにたとえ、爛熟して活力のない女々しい世界ととらえる。

こういった、ゲルマン=東国、ローマ=京都、というつなぎかたがおかしい以前に、地中海からゲルマニアに広がる西洋を日本列島の一部に縮小してあてはめてしまうのがヘンなのである。

国史科が、広大なユーラシア西部の動きをせまい日本列島におしこめた一方、東洋史科では、ユーラシア西部の動きを東ユーラシア全体と共通する社会の変動としてとらえた。
内藤湖南にはじまる発想であり、宮崎市定にひきつがれる。ならば、そのユーラシア全体の時代区分を日本にも適用するのが本筋であろう。
だから、卑弥呼の時代にはすでに中世である。というのが本書を貫く主張である。

著者は原勝郎は南部藩出身の東北人であり、京の都に劣等感をもつ関東史観をひろめた研究者ととらえる。
ここが本書のおもしろいところだが、著者は研究者の出身地、出身校から関東派をあぶりだして、アンチ京都派ととらえる。
うーむ。
しかし!井上さん、内藤湖南も南部藩出身ですけど。現在では秋田県になっている十和田(鹿角市になってしまった)の出身だが、南部藩士の息子ですよ。

でも、こういうところも含め、著者の下世話な分析は好きですよ。

平泉澄と石母田正に共通する京都蔑視をあばいたところなど、最高におもしろい。

*****

一点、ひっかかることろ。

本書は全体として、史書や研究書、一般向け啓蒙書を扱っている。
しかし、ひとりだけ、著者が直接問いかけた人物がいる。
梅棹忠夫だ。

『文明の生態史観』によれば、封建制度(フューダリズム)は日本とヨーロッパのみに存在した特殊な歴史過程である。そして、梅棹は武士の台頭によって、日本に封建制が生まれたととらえた。(そうだっけ?詳しい中身忘れた)
その点について、著者・井上は直接梅棹忠夫にたずねる。

――京都には、いわゆる封建領主がいなかったと、お考えですが。
「そう考えています。京都は町人の街だった。封建制のしくみは、京都におよんでいない。」
――梅棹先生は、封建制が日本の近代化につながったとお考えですよね。そうすると、京都は日本の近代化と関係がなかったことになってしまいますが。
「基本的には、無関係です。京都は日本の近代になど、すこしも貢献しなかった。近代化からは浮きあがっていた街だと言ってもいいでしょう」

これを、著者・井上は、梅棹が京都を否定的にとらえている発言だとしている。

ええ?!

その場の口調や雰囲気はわからないが、文字どおりにみれば、京都を否定するどころか、ほこりをもって肯定しているのではないですか??

梅棹にとって近代化とは、進歩や啓蒙ではなく、ひとつの文化(文明といってもよいが、梅棹は西ヨーロッパやアメリカを文明とは言わないだろう)のタイプにすぎないのでは。
その近代化なんぞにかかわらなかった京都こそは、独自の別のタイプの文化(これは、確実に普遍的文明ではない、狭い地域の文化だ)をもっているのだ、と言いたかったのでは。