東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

清水廣一郎・池上峯夫 訳,「モンセラーテ ムガル帝国誌」,1984

2007-02-21 12:44:11 | 翻訳史料をよむ
では、大航海時代叢書のよみかたの一例。
『大航海時代叢書 第2期 5 ムガル帝国誌 ヴィジャヤナガル王国誌』,岩波書店,1984.所収。
翻訳テキストは、
Antonio Monserrate, S. J., Mongolicae Legationis Commentarius (ed. by H. Hosten), Memoirs of the Asiatic Society of Bengal, vol. III, no. 9 1914, pp. 513-704

および
Antonio Monserrate S. J., Relacam do Equebar, rei dos Mogores (
trans. and ed. by H. Hosten), Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. VIII, no.9,1912,pp.185-221

1906年、つまり20世紀の初頭にカルカッタのSt. Paul's Cathedral Library (英国国教会大聖堂図書館)で発見された手書本による。
著者のアントニア・モンセラーテの自筆稿本。
モンセラーテはイエズス会士で、1574年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの一行の一員としてインドにむかう。
本書収録の記録にあるようにインドで布教活動をした後、ゴアからエチオピアへ向かう途中、ムスリムの捕囚となる。
捕囚としてアラビア半島のサヌア(サナア、現在のイエメンの首都、サアナ)に滞在の間、1591年に本書の報告書が執筆されたものらしい。
その後、手書稿本は紆余曲折を経て、(ポルトガル領イエズス会は1759年に廃止)、インドの中を転々としてカルカッタで眠り続けたらしい。

そうして、英領インドの時代に発見され、英訳付の活字本にもなった。
(Asiatic Society of Bengalというのは、Royal Society 王立協会の支部のようなもので、アジア各地に設立され、会誌を発行した。)
それを、日本語訳してくれたわけである。
ああ、ありがたい!
今、ウェブで書誌情報を検索したら、訳者の清水廣一郎(広一郎、という新字体での表記もあり)は、

W.H.マクニール,『ヴェネツィア : 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』,岩波書店,1979
なんてものを訳している方だ。
この本、わたし、初版当時に読んでいる!『疫病と世界史』のマクニールの著作だったなんて、ぜんぜん知らなかった。ああ、体系的知識がないのだよ、わたしは。
ほかにも『中世イタリア商人の世界』など、イタリア史関係の著作あり。

さて、手書稿に、「サナアにて、1591年1月7日」とあるが、ここに訳注がついている。
ポルトガルでは1582年10月5-15から新暦(グレゴリオ暦)が使用されるようになり、1年後インドにも導入された。
まだ、イエズス会士たちの間にも混乱があったそうだ。

といってもぴんとこない方がいますか?
グレゴリア暦というのは、イエズス会のクラヴィウスが中心になって制定されたものであり、イエズス会、カトリック勢力の天文学の力を示す偉業であった。
(ガリレオが弾圧された時代だったが、ガリレオの書いたこと、主張したことをほんとうに理解したのは、少数のイエズス会士などカトリック勢力だけだったのだよ。当時の北方のプロテスタントの中には、ガリレオの思想の危険性が理解できる者はいなかったと思われる。)

ともかく、ポルトガル、スペインなどがグレゴリオ暦を採用したのがこのころである。
10月5-15というのは、改暦の結果、10月5日を15日にした、つまり、10月5日から14日までは存在しない、ということです。

(というようなことが、2006年9月14日に中途半端に記録したダンカン,デイヴィッド・E.著 松浦 俊輔訳,『暦をつくった人々―人類は正確な一年をどう決めてきたか 』,河出書房新社,1998.に詳しい)

さて、この叢書の翻訳は、原テキストの固有名詞表記を几帳面にカタカナに移している。
わたしは、ラテン語の知識はほぼゼロだが、名詞も語尾変化するってことは知っている。男性名詞、女性名詞は語尾の形がちがう。

ということは、つまりですね、インドの地名、アラビア語・ペルシャ語・モンゴル語そしてインド各地の地名・人名がすべて、ラテン語の規則によって表記されているということである。

チンギス・ハーン → チンギスカヌス
ムハンマド → マハンメデス
クリシュナ → クルストゥス
ハヌマーン → アヌマントゥス

ラテン語を知っている人にとっては、おもしろくもおかしくもない常識でしょうが……。
まあ、旧約聖書の人名をラテン語にしているのも、同じくらいヘンなことなんですね。

では、内容にはいる。

本記録の著者、モンセラーテは、同じくイエズス会士のロドルフォ・アックァヴィーアという人を正使とする、アクバル帝への使者として、ムガル帝国宮廷へむかう。

イエズス会士として、二回目の使者、アクバル帝直直の招請である。
であるから、優遇されるべき客人である。
しかし、優遇されたのは、カトリックの使節だけではない。宮廷には、ムスリムはもちろん、ヒンドゥのさまざまな指導者も招かれていたようだ。(著者モンセラーテには、区別がつかない。そして、ジャイナ教、仏教に関してはまったく知らない。)

それでは、彼ら(といってもイエズス会士は二名だけ)は、どうやってアクバル帝やライバルのムスリム、異教徒(キリスト教とイスラム教以外の者たちを示す)と意志を通じたのか?
これは、やっと通じる程度のペルシャ語である。
彼ら二人の使者は、アラビア語もトルコ語もできない。インド各地の言葉に関しては、区別もつかない。
であるからして、本記録、つまり教皇とイエズス会本部への報告書になる予定であった、の中に書かれている宗教論議は、完全にモンセラーテの主観および手柄話である。

著者モンセラーテにしてみれば、この何度もくりひろげられる論議が、一番重要な主張であろう。
が、一方的でかってな主張で、一休さんのとんち話みたいな自慢話にすぎない。

現代の読者に関心があるのは、当時のムガル帝国の都市、統治、宮廷生活であろう。
しかし……
分量的にも著者の描写からいっても、一番大きい事件は、アクバル対異母弟ミールザ・ハキームの戦闘だろう。
幸運にも、モンセラーテは、行軍をともにするチャンスを得る。
当時の行軍、象軍(うそっぽい話多い)、騎馬軍、戦闘集団といっしょに動くバザールや商人が描かれる。

当時の都ファテプル(ファテプル・シークリー)からジャムナー川沿いを北上し、パンジャーブ地方を西北方向に横断して、ハイバル峠をこえてジャララバードまで行くのだ(うらやましい!!)。
しかし……やはり、都市の描写も、戦闘のようすも断片的。
訳注や現代の資料がなければ、なにがなんだかわからない描写である。

こうしてみると、彼らイエズス会士は、戦闘や論争に興味をしめす人々であるのだなあ、としみじみ思う。
自然や産業、交易、日常生活の描写がひじょうに少ない。
アクバルの戦いなんかどうでもいいから、もっと現地体験した人したわからないことを伝えてくれよ!といいたくなる。


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