ちょっとわき道にそれて、内陸へ。
一気に読んだ。
まあ、細かい部分はすぐに忘れるだろうが、戦争の背景を一般読者にもやさしく説いた新書らしい新書。
戦争の原因をめぐる著者の論旨には、今後異論がでるかもしれないが、少なくとも普通の読者にとってははずせない基礎事項を丹念に書いてくれている。
わたし自身、まったく暗い地域であるので、本書の書き方はありがたい。
地名・地域名・行政組織・人名の表記とその理由、民族や部族の名称とその由来など、まちがいやすいことや誤解されている事項をていねいに解説している。
さすが言語学者でモンゴル学の第一人者である。
これらの基礎事項は、まず異論のないところだろう。というより、モンゴル語各方言とシナ語とロシア語をしっかりできる人など研究者でも少数だろうから、一般人としては信じるほかないですね。(著者はチベット語も知っているし、ドイツ語や英語も堪能である。東南アジア研究者もたいへんだが、この方面の研究者もたいへんだ。)
著者の業績からすれば本書『ノモンハン戦争』は、長い研究生活の一端を一般読者向けに書き改めた程度であろうが、『エスペラント』などと違って、かなりホットな話題、論争を呼びそうなテーマである。
たぶん、政治的な話題が好きな方面から恣意的に引用されたり、あるいは著者の見方を糾弾する批判が出てくるんじゃないだろうか。
そういう意味でも、つまり批判や同調するノイズに惑わされないためにも、すぐに読める本であるから、各自自分で読むべし。
全体の文脈を無視して断片的に引用されそうな部分がたくさんあるので。
わたしはぜんぜん知らなかったが、著者は中華人民共和国政府やロシア政府側からそうとうに評判が悪いそうだ。中国政府など、名指しで批判している。
一方日本国内では、ミギヒダリに分類しないと気がすまない人々からは、完全にヒダリの人間だとみなされているだろう。
「あとがき」を読んで驚いたのは、1972年ごろ司馬遼太郎から取材の依頼があって、代理の取材者が来たので断ったのだそうだ。
著者は別に司馬氏に悪い感情があったわけではないようだが、安易な取材ではノモンハン戦争を理解できないだろうという気分があったらしい。
ふうん。
司馬遼太郎がノモンハンを題材にした小説を書かなかった(書けなかった)というのは、ファンにとって大問題らしいが、1970年代では偏った資料しかアクセスできないので、安易に小説化しないかったのは正解かもしれない。といいつつ、わたしは司馬遼太郎の小説は1編しか読んでいないので、ファンの気持はわからないけれども。
モンゴル語資料やソ連崩壊後に公開された資料なしには、日本軍の駒の動かし方がどうだこうだという話にしかならなかっただろう。
ということも含め、ホットな話題である。
**********
話がずれるが、岩波新書の言語・ことば関係はハズレがなくおもしろい。
鈴木孝夫はミギ、田中克彦はヒダリなどと政治的スタンスはそれぞれあるようだが、新書の内容はどれも一般読者に向けて冷静に書かれている。
文章も平明でユーモアがある。
トンデモ扱いされる大野晋『日本語の源流を求めて』を最近読んだが、なかなかおもしろかった。
内容の妥当性は?であるが、決してむちゃくちゃな論ではない。
一気に読んだ。
まあ、細かい部分はすぐに忘れるだろうが、戦争の背景を一般読者にもやさしく説いた新書らしい新書。
戦争の原因をめぐる著者の論旨には、今後異論がでるかもしれないが、少なくとも普通の読者にとってははずせない基礎事項を丹念に書いてくれている。
わたし自身、まったく暗い地域であるので、本書の書き方はありがたい。
地名・地域名・行政組織・人名の表記とその理由、民族や部族の名称とその由来など、まちがいやすいことや誤解されている事項をていねいに解説している。
さすが言語学者でモンゴル学の第一人者である。
これらの基礎事項は、まず異論のないところだろう。というより、モンゴル語各方言とシナ語とロシア語をしっかりできる人など研究者でも少数だろうから、一般人としては信じるほかないですね。(著者はチベット語も知っているし、ドイツ語や英語も堪能である。東南アジア研究者もたいへんだが、この方面の研究者もたいへんだ。)
著者の業績からすれば本書『ノモンハン戦争』は、長い研究生活の一端を一般読者向けに書き改めた程度であろうが、『エスペラント』などと違って、かなりホットな話題、論争を呼びそうなテーマである。
たぶん、政治的な話題が好きな方面から恣意的に引用されたり、あるいは著者の見方を糾弾する批判が出てくるんじゃないだろうか。
そういう意味でも、つまり批判や同調するノイズに惑わされないためにも、すぐに読める本であるから、各自自分で読むべし。
全体の文脈を無視して断片的に引用されそうな部分がたくさんあるので。
わたしはぜんぜん知らなかったが、著者は中華人民共和国政府やロシア政府側からそうとうに評判が悪いそうだ。中国政府など、名指しで批判している。
一方日本国内では、ミギヒダリに分類しないと気がすまない人々からは、完全にヒダリの人間だとみなされているだろう。
「あとがき」を読んで驚いたのは、1972年ごろ司馬遼太郎から取材の依頼があって、代理の取材者が来たので断ったのだそうだ。
著者は別に司馬氏に悪い感情があったわけではないようだが、安易な取材ではノモンハン戦争を理解できないだろうという気分があったらしい。
ふうん。
司馬遼太郎がノモンハンを題材にした小説を書かなかった(書けなかった)というのは、ファンにとって大問題らしいが、1970年代では偏った資料しかアクセスできないので、安易に小説化しないかったのは正解かもしれない。といいつつ、わたしは司馬遼太郎の小説は1編しか読んでいないので、ファンの気持はわからないけれども。
モンゴル語資料やソ連崩壊後に公開された資料なしには、日本軍の駒の動かし方がどうだこうだという話にしかならなかっただろう。
ということも含め、ホットな話題である。
**********
話がずれるが、岩波新書の言語・ことば関係はハズレがなくおもしろい。
鈴木孝夫はミギ、田中克彦はヒダリなどと政治的スタンスはそれぞれあるようだが、新書の内容はどれも一般読者に向けて冷静に書かれている。
文章も平明でユーモアがある。
トンデモ扱いされる大野晋『日本語の源流を求めて』を最近読んだが、なかなかおもしろかった。
内容の妥当性は?であるが、決してむちゃくちゃな論ではない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます