東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

伊東利勝,「綿布と旭日銀貨」,2001

2009-06-11 22:17:22 | 通史はむずかしい
『岩波講座 東南アジア史 1 』収録。

時代が前後するが、4世紀から9世紀あたりまで、ドゥヴァーラヴァティーを中心とする大陸部の交易について。
出土銀貨から、エーヤーワディ川中流・チャオプラヤー流域、メコン川下流域を結ぶ交易圏が存在したことを示す。
銀貨の出土範囲やデザインを分析した部分が長いので省略。
銀貨の出土地から推定した交易ルートは、

タトーン~パーアン~ミャワディー、で現在のタイ側へ
メーソート~ターク~スコータイ、 
もしくは
ターク~カムペーンペット~スコータイ

スコータイからピッサヌローク、
南下して
タップクロウ~シーテープ~シーマホーソック

ここから海路で
オケオ
または陸路で
アランヤプラテート~トンレサープ~扶南

また
タトーン~タニンダーイー沿岸~クラビー
マレー半島を横切り
ナコンシータマラート、タイ湾を横切り真東にオケオ

というルートも考えられる。
楽しそうなルートですね。

重要な点は、
この交易圏の主要商品が綿花であり、それはエーヤーワディ川中流域の乾燥したサバンナ気候の産物であったということ。
この地方は、小規模灌漑農耕や天水農耕で、穀作の不安定な地であったが、そのかわり綿花の栽培が可能であり、重要な交易品となった。

東南アジア大陸部で当時、綿花が栽培されていたのは、このピューの地と、ベトナム中南部ファンラン地方だけ。
他はすべて、エーヤーワディ流域もしくはチャンパから綿布を輸入していた。強力で魅力的な商品であった。

驚くべきことに、中国で綿の栽培が始まるは11世紀から。

さらに、注によれば、『日本後記』に799年、綿の種子がもたらされたという記録があり(著者・伊東は、伝えた崑崙人をドゥヴァーラヴァティーとする)、『三代実録』では大宰府における生産高が八万屯という記録がある。
さらに、日本からの遣唐使朝貢品に綿製品が含まれていることは『延喜式』に記録されているのですね。(常識?)

だとすると、中国に伝わる以前に日本に伝わったということになるのだが。こんなことってありうるのか?

ともかく、ドゥヴァーラヴァティーの繁栄は扶南の勢力圏に食い込み、ベンガル湾まで連続する勢力になるが、832年の南詔のピュー侵攻により衰退へと向かう。同時に貿易相手の扶南も没落へ向かう。時代はアンコールとチャンパの興隆へと進む。
(乱暴にまとめましたが、著者・伊東利勝は、綿布だけが交易品だと断定しているわけではありません。また、ピューが交易に依存した集団だったかどうかも疑問。注意)

うーん、知らなかったな。
綿布は、外域へ森林採取物や海産物を提供する東南アジアにとって、最重要の輸入品である。
域内の交易品としては、米・塩・鉄も重要だが、綿花は米ができるところでは栽培に適さず、森林や海で採れるわけでもない。雨量の少ない乾燥した気候を栽培条件を必要とする。つまり、稲作適地では栽培がむずかしい。そこで綿布・綿糸は19世紀、20世紀まで重要な交易品となる。それが、10世紀以前の古代エーヤーワディ流域に、すでに栽培され織布の技術も伝播していたわけだ。

石井米雄,「前期アユタヤとアヨードヤ」,2001

2009-06-10 19:54:57 | 通史はむずかしい
『岩波講座 東南アジア史 2』所収。

「タイ人の南下」については、すでにタイ王国公式の説は否定されて、新しい説が定着していると言っていいだろう。

いわく、現在の雲南省の大里盆地に住むタイ人が、モンゴルの侵入で追われ、北のほうからスコータイ~アユタヤと南下してきた……。という事実はない。
現在のベトナム北部~中国江西省チワン族自治区あたりに住むタイ語族をしゃべる集団がメコン川流域からチャオプラヤー流域にゆるやかに移動したようだ。
その移動がおこる以前にも、現在の東北タイやカンボジアに、モン語やクメール語をしゃべる集団と混住あるいはモザイク状に住み分けていたようだ。

というのが妥当な線であろう。

それでは、アユタヤ朝というのはどういう勢力であったか。
まず、アユタヤ朝1351-1767、という連続した見方は捨てたほうがいい。

1569年のビルマ軍の侵略で断絶している。
本論文が扱うのは、それ以前、「アユタヤ」という名称さえ同時代史料には見えないそうだが、便宜的に「前期アユタヤ」とする。

1351年のアユタヤ朝の始まりとは、なにを指すのか?
チャオプラヤー・デルタにいくつかあった勢力のうち、ロッブリーとスパンブリーの二か所が強力であった。
二つの勢力の首長の娘を娶ったウートン侯という謎の人物が「前期アユタヤ」王朝の開祖とされる。「ラーマーティボディ王」である。
この人物はペッブリーあたり出身の裕福な華人であったという説がある。由来はともかく、タイ湾とマレー半島北部、ベンガル湾へ通じる交易に精通した人物が、有力首長を結合させた、とみられる。

ラーマーティボディ王は、王妃の長兄パゴアをスパンブリーの太守に、長子のラーメースエンをロッブリーの太守に任じる。
スパンブリー=軍事力の供給地
ロッブリー=クメールの統治技術を継ぐ専門職能人の供給
アヨードヤ=海外交易を営む華人の経済力
という三軸構造の基礎を築く。

前期アユタヤの歴史は、この二つの勢力、ロッブリーとスパンブリーの内部抗争と東西南北への進出の過程である。
この過程で、アンコールを陥落させ、アンコールの文物・知識がアユタヤに流入する。また、北方への進出により、スコータイ、チェンマイが、〈シャムの領域〉として認識される基礎を作る。

乱暴にまとめると、デルタ地帯に割拠していた首領&商人たちが、アンコール文明の要素を受け入れ、北方タイ人を吸収した、ということ。(このことは、タイ王国の儀礼や王室寺院がクメール的要素を含むという話題で、よくとりあげられる。また、タイ文字もクメール文字から派生したという見方が有力)

しかし、もっと重要なのはマレー半島の交易拠点を押さえること。
この方面にはビルマ人・モン人など強力な敵がいたが、アユタヤ勢はマラッカまで宗主権を伸ばす。
ここへ1511年、ポルトガル人がやってくるわけだが、ポルトガル人と友好関係を結び、マラッカへ森林物産や米を供給し、ますます栄える。つまり、アユタヤにとって、ポルトガル人の到来はビジネス・チャンスであった。
また、鉄砲の伝来による軍事革命も招く。

しかし、鉄砲の伝来はアユタヤだけを利したのではない。タウングー朝(第一次、1531-99)もまた、銃火器とポルトガル人傭兵で勢力を拡大した。
結果として、支配構造が脆弱なアユタヤが、地方太守の裏切りや寝返りで、敗北。
前期アユタヤ朝は断絶する。

この第一次タウングー朝が拡大した過程はハンサワディー(ハンターワディー、ハムサワディ、いろいろな表記がある)など、ベンガル湾沿岸勢力がダビンシュエーティー(ダビンシュエーディー)王によって攻略され陥落した時期である。伊東利勝論文が扱う時代である。

ダビンシュエーティー王の義弟バインナウン王、上ビルマ・シャン高原・チェンマイを押さえた後、ピサヌロークを落とす。そして、アヨーディヤを包囲。

小暦九三一年巳年、第九月一一日の夜明け、第三時、アユタヤ、ハンサワディー王に降る。大一一月白分六日、マハータンマラーチャー、アユタヤの王座に登る。ハンアワディー王、マヒンを連行してハンサワディーに帰る。

マハータンマラーチャーとは、ピサヌロークの太守、降伏してビルマ側についていた。

**********

ごちゃごちゃ書いて、知っている人には無用、知らない人には理解不能であると思うが、つまり、この時期、沿岸勢力が内陸勢力に先んじて交易の時代をリードした。ポルトガル人の参入は、地域の交易をさらに活性化させた。

ただし、脆弱な連合勢力の港市国家(前期アユタヤ)は、一時的な時流に乗った内陸勢力(第一次タウングー朝)に敗れた。

伊東利勝,「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」,2001

2009-06-09 20:02:20 | 通史はむずかしい
この『岩波講座 東南アジア史 2』収録論文のなかで一番衝撃的、通説を破壊する論旨である。

かんたんにいうと、
パガン朝(11-13世紀)の仏教は上座仏教ではなく密教的な要素が濃厚な大乗仏教であった。
「御仏の教え輝くミャンマーの国を、外道のシャンが木っ端微塵に打ち砕いた」という伝説は、城市の分布や、ほかの史料から確認できない。

パガン朝が衰退に向かっていたころ、タトーン地域(シッタウン河とサルウィン河にはさまれた地域)にモン人(?詳細略す)ワーレルー政権が地盤をかためる。政権といっても32ほどの小さな市邑の中心城市ハムサワティを支配下に置いただけであるが、ベンガル湾方面の交易拠点となり、森林物産や宝石、綿花の産地をおさえて繁栄する。
東のチャオプラヤー流域・スコータイ朝とベンガル湾を結ぶ要所であり、上流の産物の集荷地であった。
そのハムサワティ最盛期の王ダンマゼーディー(王位1472-92)の時代に僧侶をスリランカに派遣し、具足戒を受けさせる。
カルヤーニー戒壇のはじまりである。(1479)

1555年タウングー朝がエーヤーワディ流域を統一すると、つまりハムサワティもタウングー朝に吸収されると、カルヤーニー派が受け入れられ南伝上座仏教がビルマ人の主流になる。

ごちゃごちゃとまとめたが、ダンマゼーディー王の宗教改革というのは、それ以前の森住派(アラニャ僧団)を解体したことである。
森住派というのは、土地の寄進を受け、土地開発や開墾を積極的におこない、王権のおよばない経済基盤を持った。さらに土地取引の契約を管理し、契約成立の時は飲酒・牛肉食をふくむ宴会を設けさせた。ほかに、俗人が結婚する際の初夜権をもっていたと記録もある。

つまり、王権から独立した財を持つ集団であったわけだが、上座仏教への改革というのは、僧団の経済力と宗教的権威を分離させたことである。僧侶は財産をもたず、修行に専念しろ、というわけだ。

実はパガン朝が衰退したのも、モンゴルの侵入やタイ語系のシャンの侵入などがあるようだが、大きな理由は僧団の経済力が王の経済力をしのぎ、王権内部が弱体化したことであるらしい。すくなくとも、要因のひとつだ。
ユーラシア全体の大きな交易の動きに対応できない内陸的王朝は亡びる方向にあったのだ。以後エーヤーワディ流域は、ピンヤー朝・インワー朝の成立、内紛と外患、タウングー朝まで混乱が続くが略す。

では、パガン王朝=上座仏教の発祥という歴史はいつ生まれたかというと、近代化の過程でビルマ人の歴史を綴る時にできた。
パガン朝アニルッダ(アノーヤター)王が上座仏教を確立したという伝説が19世紀に生まれ、ヨーロッパ人の歴史家も検証せずに追従した。その後、パガン朝の碑文が解読されて年代が確定しても、パガン朝=上座仏教という誤りは訂正されなかった。

困ったことに、現在、観光案内でも、教科書や大学入試問題でもwikipediaでもエンカルタでも、パガン朝=上座仏教とするものが多数。
この伊東論文がとんでもない誤った論文、というわけはないよな。単に知らないだけ。
ちなみに同巻収録、大野徹,「パガン朝の歴史」でもパガンは大乗仏教だと、ちゃんと書いてある。
また、ビルマ語王統史の記すアニルッダ(アノーヤター)王の事績をサポートする最古の碑文は1480年以前に遡らない。つまり、アニルッダの同時代史料は存在しない。wiki の執筆者!大野論文を参考書にあげているのに、ちゃんと読めよ。

よくある古代史にまつわる疑惑である。このような、近代化の過程での古代史創造というのは、どの国にもあることで、とりわけビルマ人だけが混乱しているわけではない。

隣のシャムについて次項へ

石澤良昭,『アンコール・王たちの物語』,日本放送出版協会,2005

2009-06-08 20:04:03 | 通史はむずかしい
アンコール一筋の石澤教授による一般向け著作。一般向けといっても過剰に詳細であり、一読しただけでは理解できない豊富な内容だが、スタンダードな概説としては、たぶん最適ではないでしょうか。(と思っていたら、同じく石澤良昭による『興亡の世界史』が出た。未読)

本論は置いておいて、付章2について。

「グロリエの水利都市開発と乱開発論は本当か」

ベルナール・フィリップ・グロリエが40年近く前に発表した仮説。
アンコール・ワット周辺の稲作技術、収穫量を分析し、12世紀後半が最盛期であり、その後は乱開発のため収穫量が落ち、アンコール朝の衰退にいたる、とする。
著者・石澤良昭は、これに異議をとなえ、その後も繁栄は続いたとする。『真臘風土記』の記述内容、灌漑方法の分析などから反論。

実は、この問題は日本の研究者の間で広範な議論をまきおこしてきた。
いや、この問題を真剣に追及しているのは日本の学者だけかも。

石澤良昭の反論もベルナールの説も、アンコールの稲作が灌漑水利農耕だとする仮説に基づいている。仮説というより、観光案内やウェブの記事では、アンコール周辺のバライを稲作灌漑用だと、なんの疑問も持たず書いてあるものが多い。(これらのデタラメ説は、ベルナールや石澤良昭の説ではありませんので、注意せよ!)
しかし、ベルナール以前に、あのバライを灌漑用と捉える見方はほとんどなかった。碑文に、灌漑に関する記載がない。あれは、儀礼的な建造物、インド伝来の宇宙論をシンボル化したものであるという見方が一般的であった。

その〈バライ=儀礼〉説に異論を提出したのがベルナールである。
カンボジア平原一帯は天水稲作が一般的で、農民が食うだけなら天水田で間に合う。
しかし、アンコール・ワットなどの巨大建造物のための労働力は確保できない。
ベルナールは、雨季のはじめのドライ・スペル(短期間、雨水が不足する)を克服するために、作付け期の水供給を安定させるだけで、収穫量が1.5倍くらい増加すると予測。そのためにバライの水が有効である。(こまかい話は省くが、これはインドの溜池灌漑とは、まったく異なる。)
全土の農民ではなく、アンコール都市周辺の収穫をふやすための技術だった、とベルナールは考えた。

詳細を知りたい方は、以下の記述が短く、論議の背景も含めていて、わかりやすい。

応地利明,「クメール帝国と農業」,『事典東南アジア 風土・生態・環境』,弘文堂 の項目
桃木至朗,「権力 平原」,同じく『事典東南アジア』の項目
桜井由躬雄,『緑色の野帖』,めこん,第10章「クメールの栄光」

この問題は、農業技術の問題というより、都市としてのアンコール、権力としてのアンコールを考察する肝であるので、論議もむずかしい。
バライ=灌漑説など、まったく完全に否定する学者もいる。

さて、前提であるバライ灌漑説でもいろいろ議論があるが、さらにアンコール帝国衰退の理由として、灌漑と環境劣化を唱えるとなると、仮説の上に仮説を重ねることになる。
本書で、石澤良昭が論拠としている『真臘風土記』の記載も有力な材料であるが、なにしろ本文読解が難しいものであるようだ。
判断材料が少なすぎて、決定的な説は無理であるのではないか。

ただ、『岩波講座 東南アジア史2』所収の各論のように、エーヤーワディ流域やジャワ島東部と比較し、アンコール単独の問題としてではなく、ユーラシア全体の動きの中で考察するほうがよいのではないでしょうか。

わたしとしては、アンコールのバライは、灌漑などという無粋なものではなく、裸の天女が舞う聖なる泉と想像したいのだが。

石澤良昭 他編,『岩波講座 東南アジア史 2 』 コメント2

2009-06-07 21:25:57 | 通史はむずかしい
第2巻から感じることの二番目は、例外的な地域に碑文や遺跡が集中している、ということ。

この場合の例外的というのは、人口が稠密で農業が発達した地域である。
他の世界なら、ちっとも例外的ではないが、東南アジアの場合、農業生産力が高く、王朝が生まれ、荘厳な宗教建築が聳えるというのは、ごくごく例外的である。

アンコール王朝を別にして、(いや、アンコールもカンボジアの先祖であるが)本巻で扱われるベトナム北部・エーヤーワディ河流域・ジャワ島東部の三地点がのちのベトナム人・ビルマ人・ジャワ人の国家の基礎になる。現代の国家に連続する、という歴史も書かれる。

しかし、東南アジア全体では人口希薄な山地や熱帯林、島々をつなぐ海、河口や島嶼の港が主役である。
主役である、という見方には異議も唱えられるが、人口稠密で農業主体の地域だけが発展した、という見方は否定される。
土着の王権と農民が作る社会ではなく、外来の商人や布教者が訪れ、森林採取物産や海産物や舶来品が取引される場所が東南アジアらしい風景になる。

アンコール王朝という、東南アジアらしからぬ(とまで断言できないが)王朝が生まれ、それが後の政体や拠点都市に結びつかないのは、このアンコールが、例外的な風土にムリをして存在した帝国であるから。……と断言してしまうと文句が来るだろうが、少なくとも、あのアンコールを東南アジアの代表と捉えることはできない。(アンコール遺跡の研究者、ファンの皆様を貶しているわけではない。あくまで、生態と環境が特殊だといいたいのである。)

総論を執筆している石澤良昭が以下のように述べている。

従来、巨大建築が造営されるのは、強力な権力があったからだ、という説が支配的であった。東洋的専制というやつで、支配者は水を管理し、住民を支配するというモデルである。

これに異議を唱えたのが、ウォルタースの「マンダラ論」1982年。

つまり、アンコールのような地域は、支配体制が脆弱で、官僚制も未成熟な段階だからこそ、巨大モニュメントで力を誇示し人々を威圧しなければならない。
支配者は、個人としての強力なパワーやカリスマを持つ人物でなければならない。

結果として、カリスマとパワーを持つ人物が消えると後継者が同じようにカリスマとパワーを持つとは限らない。
それゆえ、東南アジアでは、権力の中枢が常に移動し、そのつどパワーを持った政体が、まわりに小さいパワーを持つ政体に影響を与えながら存在する。

こういった体制を「マンダラ」と名づける。

このマンダラ論はひじょうに広範に受け入れられ、現在、どの時代どの地域に適用するかの論議はあるものの、基本的な理論となっている。(マンダラという名称を避け、銀河系とかソーラー・システムなどと呼ぶ学者もいるが、あんまり新語を作っても意味ないような……)

そうすると、本巻が扱う、パガンとクメールは、環境は特殊でも、権力の形態としては代表的なマンダラ世界と捉えられる。さらに、紅河デルタの北部ベトナム、チャオプラヤー・デルタのアユタヤ、ジャワ島、大陸山地のタイ人世界、すべてマンダラ的な世界だ。
さらに、マラッカ海峡一帯もマンダラの点在する地域である。反対論異論続出であるが、現代の東南アジアもマンダラ的な性格が続くと理解することも可能だ。

ともかく、領域国家、帝国、民族などといった言葉を使わず歴史を語るために、マンダラという用語は便利である。
ただ、〈港市〉あるいは〈港市国家〉が高校の教科書にも用いられているのに、マンダラはまだまだ一般化していない用語であるようだ。

高校の指導要領の用語をこれ以上増やすのは問題だろうからしょうがないが、一般人が読書していくうえでは、たいへん便利で有益な概念だ。だいたい、ほとんどの研究者が、特にことわりなくマンダラという用語を使っている。

東南アジアの権力=マンダラ

と、覚えておく。

石澤良昭 他編,『岩波講座 東南アジア史 2 』,2001

2009-06-06 23:22:17 | 通史はむずかしい
全9巻の第2巻。
東南アジア史の問題点、東南アジア史を把握する障害とおもしろさを集約したような一冊。

まず、この巻10世紀から15世紀までを扱う。
通常の東南アジア史の中に登場する王朝や有名な遺跡はほとんどこの巻に収録される。
つまり、これ以後、欧米勢力の植民地になり20世紀後半に独立する、というのが、中抜き東南アジア史。古代と現代だけの東南アジア史である。そうした従来の見方に挑戦するのが、全9巻の当講座であるわけだが、この第2巻は、むかしから有名な王朝や遺跡の時代である。

全体をざっと見て、以下のような感想を抱いた。

史料がなければ歴史はないか?

収録された論文の著者たちが一様に嘆いているのは、史料の少なさである。
14世紀あたりまでの現地史料は遺跡・遺物と碑文史料しかない。
それで遺跡・遺物から統治体制・宗教・住民の生活を推測するわけである。近年はこれに農業や環境のデータもくわえ、再現の密度が増している。

それでもやっぱり、碑文に書かれていないことは、わからない。

どこの地域の古代史でも同様だが、碑文に書かれていることは、実におもしろくない。誰某が誰某を簒奪したとか、誰某の子は誰某で、孫は誰某で、娘は誰某で娘婿は誰某でという記述が続く。
どこどこ国のなにない王がどこどこ国を滅ぼしたとか滅ぼされたとか、同じような話がいっぱいある。
おまけに、王の名前が似たりよったりで、舌をかむような長ったらしい名前。とても覚えられない。飽きてくる。

さらに重要なことは、碑文がない、遺跡がないところには歴史はないのか、人間は住んでいないのか、という疑問だ。

この巻には、フィリピン諸島に関する論考はない。
史料がないのだ。
同様に、島嶼部でもヌサ・トゥンガラやボルネオは空白だし、大陸部でも北部山岳地帯やデルタ部は空白のまま。
もっと詳しくみると、本巻の論考の中心となる四か所、クメールの平原・紅河デルタ・エーヤーワディ河流域・ジャワ島東部でも、遺跡や遺物のあるところだけが推測できるだけ。

歴史家にかってな空想は許されない。
ところが、近代国家が形成される時期、近代の領域すべてを含めた、そして近代国家の主流民族の歴史として、古代史が書かれた。

その近代国家(およびヨーロッパの宗主国)が創った歴史を、もう一度史料に即して再考しようというのが、現在の東南アジア史の課題である。
結果として、連続する物語を否定する歴史叙述になり、国家の歴史を管理する政府にとっては都合が悪いし、日本の読者にとってもすこぶる読みにくいことになる。
とくに東南アジア史の場合、アンソニー・リードとベネディクト・アンダーソンという、領域国家を否定し国民の由来を幻想と捉える論客が現れたことで、現在の歴史叙述がすこぶる難しくなっている。

いや、因果関係が逆だ。
国民や領域国家では捉えられない東南アジア史を研究した結果、リードやアンダーソンらの主張する枠組みが生まれたと言うべきだろう。

通史のカテゴリーを追加した

2009-06-06 23:16:03 | 通史はむずかしい
迷ったあげく、通史・地域史・世界史のカテゴリーを作りました。

東南アジアにかぎらず、ある地域や国に興味をもつと、歴史を知りたくなる。
そこで、「東南アジアの歴史」という類のタイトルの本を手にとってみるわけである。
しかし、まったく頭にはいらない。歳のせいか、もともと頭の構造が悪いのか。
たいがいは途中で飽きてあやふやな知識のままでやりすごす。

あやふやなままのほうが、生半可な通説を覚えるよりも悪くないのだが、メモ程度に項目を作っていく。
そのうち、過去の記事もこのカテゴリーにふさわしいものは移す予定。