『岩波講座 東南アジア史 1 』収録。
時代が前後するが、4世紀から9世紀あたりまで、ドゥヴァーラヴァティーを中心とする大陸部の交易について。
出土銀貨から、エーヤーワディ川中流・チャオプラヤー流域、メコン川下流域を結ぶ交易圏が存在したことを示す。
銀貨の出土範囲やデザインを分析した部分が長いので省略。
銀貨の出土地から推定した交易ルートは、
タトーン~パーアン~ミャワディー、で現在のタイ側へ
メーソート~ターク~スコータイ、
もしくは
ターク~カムペーンペット~スコータイ
スコータイからピッサヌローク、
南下して
タップクロウ~シーテープ~シーマホーソック
ここから海路で
オケオ
または陸路で
アランヤプラテート~トンレサープ~扶南
また
タトーン~タニンダーイー沿岸~クラビー
マレー半島を横切り
ナコンシータマラート、タイ湾を横切り真東にオケオ
というルートも考えられる。
楽しそうなルートですね。
重要な点は、
この交易圏の主要商品が綿花であり、それはエーヤーワディ川中流域の乾燥したサバンナ気候の産物であったということ。
この地方は、小規模灌漑農耕や天水農耕で、穀作の不安定な地であったが、そのかわり綿花の栽培が可能であり、重要な交易品となった。
東南アジア大陸部で当時、綿花が栽培されていたのは、このピューの地と、ベトナム中南部ファンラン地方だけ。
他はすべて、エーヤーワディ流域もしくはチャンパから綿布を輸入していた。強力で魅力的な商品であった。
驚くべきことに、中国で綿の栽培が始まるは11世紀から。
さらに、注によれば、『日本後記』に799年、綿の種子がもたらされたという記録があり(著者・伊東は、伝えた崑崙人をドゥヴァーラヴァティーとする)、『三代実録』では大宰府における生産高が八万屯という記録がある。
さらに、日本からの遣唐使朝貢品に綿製品が含まれていることは『延喜式』に記録されているのですね。(常識?)
だとすると、中国に伝わる以前に日本に伝わったということになるのだが。こんなことってありうるのか?
ともかく、ドゥヴァーラヴァティーの繁栄は扶南の勢力圏に食い込み、ベンガル湾まで連続する勢力になるが、832年の南詔のピュー侵攻により衰退へと向かう。同時に貿易相手の扶南も没落へ向かう。時代はアンコールとチャンパの興隆へと進む。
(乱暴にまとめましたが、著者・伊東利勝は、綿布だけが交易品だと断定しているわけではありません。また、ピューが交易に依存した集団だったかどうかも疑問。注意)
うーん、知らなかったな。
綿布は、外域へ森林採取物や海産物を提供する東南アジアにとって、最重要の輸入品である。
域内の交易品としては、米・塩・鉄も重要だが、綿花は米ができるところでは栽培に適さず、森林や海で採れるわけでもない。雨量の少ない乾燥した気候を栽培条件を必要とする。つまり、稲作適地では栽培がむずかしい。そこで綿布・綿糸は19世紀、20世紀まで重要な交易品となる。それが、10世紀以前の古代エーヤーワディ流域に、すでに栽培され織布の技術も伝播していたわけだ。
時代が前後するが、4世紀から9世紀あたりまで、ドゥヴァーラヴァティーを中心とする大陸部の交易について。
出土銀貨から、エーヤーワディ川中流・チャオプラヤー流域、メコン川下流域を結ぶ交易圏が存在したことを示す。
銀貨の出土範囲やデザインを分析した部分が長いので省略。
銀貨の出土地から推定した交易ルートは、
タトーン~パーアン~ミャワディー、で現在のタイ側へ
メーソート~ターク~スコータイ、
もしくは
ターク~カムペーンペット~スコータイ
スコータイからピッサヌローク、
南下して
タップクロウ~シーテープ~シーマホーソック
ここから海路で
オケオ
または陸路で
アランヤプラテート~トンレサープ~扶南
また
タトーン~タニンダーイー沿岸~クラビー
マレー半島を横切り
ナコンシータマラート、タイ湾を横切り真東にオケオ
というルートも考えられる。
楽しそうなルートですね。
重要な点は、
この交易圏の主要商品が綿花であり、それはエーヤーワディ川中流域の乾燥したサバンナ気候の産物であったということ。
この地方は、小規模灌漑農耕や天水農耕で、穀作の不安定な地であったが、そのかわり綿花の栽培が可能であり、重要な交易品となった。
東南アジア大陸部で当時、綿花が栽培されていたのは、このピューの地と、ベトナム中南部ファンラン地方だけ。
他はすべて、エーヤーワディ流域もしくはチャンパから綿布を輸入していた。強力で魅力的な商品であった。
驚くべきことに、中国で綿の栽培が始まるは11世紀から。
さらに、注によれば、『日本後記』に799年、綿の種子がもたらされたという記録があり(著者・伊東は、伝えた崑崙人をドゥヴァーラヴァティーとする)、『三代実録』では大宰府における生産高が八万屯という記録がある。
さらに、日本からの遣唐使朝貢品に綿製品が含まれていることは『延喜式』に記録されているのですね。(常識?)
だとすると、中国に伝わる以前に日本に伝わったということになるのだが。こんなことってありうるのか?
ともかく、ドゥヴァーラヴァティーの繁栄は扶南の勢力圏に食い込み、ベンガル湾まで連続する勢力になるが、832年の南詔のピュー侵攻により衰退へと向かう。同時に貿易相手の扶南も没落へ向かう。時代はアンコールとチャンパの興隆へと進む。
(乱暴にまとめましたが、著者・伊東利勝は、綿布だけが交易品だと断定しているわけではありません。また、ピューが交易に依存した集団だったかどうかも疑問。注意)
うーん、知らなかったな。
綿布は、外域へ森林採取物や海産物を提供する東南アジアにとって、最重要の輸入品である。
域内の交易品としては、米・塩・鉄も重要だが、綿花は米ができるところでは栽培に適さず、森林や海で採れるわけでもない。雨量の少ない乾燥した気候を栽培条件を必要とする。つまり、稲作適地では栽培がむずかしい。そこで綿布・綿糸は19世紀、20世紀まで重要な交易品となる。それが、10世紀以前の古代エーヤーワディ流域に、すでに栽培され織布の技術も伝播していたわけだ。